第17話 森で迷っていたのは、黒い商会の下働きだった
夕暮れの森は、昼間の森とはまるで違っていた。
村から見える森は、ただ深く青い壁のように見える。
だが一歩踏み込むと、空気が変わった。
土の匂い。
湿った葉の匂い。
木の根が水を吸う匂い。
それから、奥の方に混じる、かすかな腐った鉄のような匂い。
黒牙の気配だろう。
ノアは俺の少し前を歩いていた。
音がしない。
落ち葉を踏んでいるはずなのに、ほとんど足音がない。
腰の短剣に片手を添え、耳を忙しく動かしながら、森の気配を読んでいる。
白狼はさらに前。
白い毛並みが、薄暗い森の中で淡く光っている。
普通なら目立ちすぎるはずなのに、不思議と森に溶け込んでいた。
俺だけが、完全に素人だった。
枝に袖を引っかけ、根に足を取られ、湿った土で滑りそうになる。
「遅い」
ノアが振り返らずに言った。
「努力している」
「森では努力より足元」
「覚えておく」
「あと、枝を折らないで」
「折ってない」
「さっき折った」
「あれは枝が弱っていた」
「言い訳」
手厳しい。
だが、ノアの言う通りだった。
森では、俺の修繕士としての感覚がまだ追いつかない。
王宮や宿なら、床の沈みや壁の歪みで危険がわかる。
でも森は違う。
生きている。
動いている。
呼吸している。
壊れている場所も、ただ壊れているのではなく、周囲の命と絡み合っている。
「ここから静かに」
ノアが立ち止まった。
白狼も足を止める。
俺は息を潜めた。
森の奥から、微かな声が聞こえた。
「おい……誰か……」
「もう歩けねぇ……」
「火をつけろよ」
「馬鹿、火なんかつけたら魔物が来るって言っただろ……!」
人間の声。
複数。
かなり疲れているようだった。
ノアは地面に膝をつき、土に触れた。
「三人。男。足跡が乱れてる。一人怪我してる」
「追われている?」
「違う。迷ってる。けど……」
ノアの耳が伏せられる。
「変な匂いがする」
「黒牙か?」
「違う。王都の薬。金属。油。あと、銀の鳥」
銀の鳥。
ルグラン商会。
俺は星図を握る手に力を入れた。
「商会の人間か」
「たぶん」
「たぶんは俺の癖らしいぞ」
「今は真面目に」
「はい」
ノアは短く息を吐き、白狼を見た。
白狼は森の奥へ視線を向けたまま、低く鳴いた。
行く。
そういう意味だろう。
「助けるのか?」
ノアの声は硬かった。
ルグラン商会は森を荒らした相手だ。
ノアにとっては、憎んでもおかしくない存在。
白狼はノアを見た。
金色の瞳は静かだった。
ノアは唇を噛む。
「……わかってる。森で迷った人間を見捨てたら、白狼亭じゃない」
その言葉に、俺は少し驚いた。
ノアの口から、白狼亭の名前が出た。
ただの人間の宿ではなく、森と旅人をつなぐ場所として。
それだけで、少しだけ前に進んだ気がした。
「行こう」
俺たちは声のする方へ向かった。
木々の間を抜けると、小さな沢の跡のような場所に出た。
水はほとんど流れていない。
代わりに黒ずんだ泥が溜まり、周囲の草は変色している。
その脇に、三人の男が座り込んでいた。
全員、旅装ではあるが、布地や装備が揃いすぎている。
商人というより、商会の下働きか護衛見習いといった感じだ。
一人は足を押さえて呻いている。
一人は顔色が悪く、震えている。
もう一人は短剣を抜き、周囲を警戒していた。
「誰だ!」
短剣の男が叫ぶ。
その直後、白狼が木々の間から姿を現した。
三人の男は一斉に固まった。
「し、白狼……?」
「嘘だろ……本当にいたのかよ……」
短剣を構えていた男の手が震える。
俺は両手を上げて前に出た。
「敵じゃない。白狼亭から来た」
「白狼亭……?」
「森で迷った人がいると鈴が鳴った」
三人は顔を見合わせた。
足を怪我している男が、かすれた声で言う。
「助けてくれ……俺たち、道がわからなくなった。地図通りに進んだはずなのに、同じ場所に戻って……」
ノアが冷たく言った。
「森が嫌がってる」
男たちがノアを見る。
獣人だと気づいた瞬間、短剣の男が顔をしかめた。
「獣人……」
その声に、ノアの目が鋭くなる。
俺は一歩前に出た。
「怪我人がいる。話は後だ」
短剣の男は何か言い返そうとしたが、白狼が低く唸ると、すぐ黙った。
わかりやすい。
俺は怪我をした男の足を見た。
足首をひどく捻っている。
骨折まではしていないが、腫れが強い。
さらに、傷口の周囲に黒い泥がついていた。
「この泥に触ったのか?」
「沢を渡ろうとして滑った。水があると思ったら、泥で……」
「ノア」
「黒牙の通った跡。深く入ってないけど、洗った方がいい」
俺はミラさんから預かった薬草水を取り出した。
「少し痛むぞ」
「何するんだよ」
「洗う。放っておくと悪化する」
「お前、医者か?」
「修繕士だ」
「何で修繕士が人の足を見てんだよ」
「俺もそう思う」
だが、やるしかない。
薬草水で泥を洗い落とすと、黒い煙のようなものがわずかに浮いた。
俺は直接触れないよう布で拭い、足首を固定する。
本格的な治療は宿に戻ってからだ。
「歩けるか?」
「無理だ……」
男は情けない声を出した。
白狼が近づく。
男は悲鳴を上げかけたが、白狼はただ鼻先で彼の肩を軽く押した。
「乗れってことか?」
俺が言うと、白狼は不満そうに鼻を鳴らした。
怪我人だから仕方ない、という顔だった。
トマが聞いたら羨ましがるだろう。
怪我人の男は恐る恐る白狼の背に乗せられた。
その瞬間、顔が変わる。
「……雲みたい」
やはり全員そう思うらしい。
白狼は明らかに嫌そうだった。
ノアは残り二人を睨んだ。
「ついてきて。勝手に歩かない。音を立てない。森のものを触らない」
「なんで獣人の指図を――」
短剣の男が言いかけた瞬間、ノアの短剣が彼の喉元寸前にあった。
速い。
俺は瞬きすらできなかった。
「ここは森。私の方が上」
男は青ざめてうなずいた。
「わ、わかった……」
「あと、その銀の鳥の袋。捨てて」
「これは商会の支給品だぞ」
「匂いが強い。黒牙が寄る」
男は迷った。
迷ったせいで、白狼が低く唸った。
男は即座に袋を地面に置いた。
ノアが中身を確認する。
油紙。
小さな金属瓶。
乾燥した薬草。
黒い粉の入った小袋。
ノアの表情が変わった。
「これ、森の薬草じゃない。黒牙の近くに生える毒草」
「知らねぇよ! 俺たちは運べって言われただけだ!」
ハーゲンの言葉が頭をよぎる。
ルグラン商会は、希少素材や薬草で急成長した。
エリスの父は、その不正を調べていた。
この小袋は、証拠になるかもしれない。
「持ち帰る」
俺が言うと、ノアが睨んだ。
「危ない」
「宿で封をして、エリスさんとハーゲンさんに見てもらう」
「触らないで」
「わかった」
ノアは光苔の瓶から細い蔓を取り出し、小袋を直接触れずに包んだ。
森の道具は便利だ。
いや、森そのものが道具扱いされるのをノアは嫌うか。
今のは言わないでおこう。
帰り道は、来た時よりずっと緊張した。
白狼が先頭。
怪我人を背に乗せているため、速度は落ちている。
ノアが周囲を警戒し、俺は二人の男を挟むように歩いた。
途中、森の奥から何度か低い音が聞こえた。
獣の声ではない。
木が内側から軋むような、嫌な音だった。
「黒牙か?」
俺が小声で聞くと、ノアは首を振らない。
「近くはない。でも、見てる」
「見てる?」
「黒牙は、弱ったものを見る。迷ったもの、怪我したもの、怒ったもの」
「怒ったものも?」
「心が荒れてると、匂いが強くなる」
俺は後ろの二人を見た。
片方は震えている。
片方は悔しそうに唇を噛んでいる。
ルグラン商会の下働き。
森を荒らした側の人間。
けれど今は、森で迷い、怯え、助けを求めたただの人間でもある。
白狼亭は、困った客を追い出さない。
なら、この三人も宿へ連れて帰る。
それが正しいのかは、まだわからない。
だが、見捨てるのは違う。
やがて木々の間に、白狼亭の灯りが見えた。
暖炉の火。
看板の淡い光。
窓から漏れる食堂の明かり。
その灯りを見た瞬間、三人の男たちは明らかに力が抜けた。
「宿だ……」
「本当に、戻れた……」
俺も少しだけほっとした。
白狼亭の前には、ミラさんが立っていた。
エプロン姿で、手にはランタン。
その後ろにはエリスとハーゲン、ガランさん、村長。
みんな心配そうに待っている。
「おかえりなさい」
ミラさんの声が、夜の空気にやわらかく響いた。
たったそれだけで、森の冷たさが少し剥がれ落ちた気がした。
「ただいま戻りました」
俺が答えると、ミラさんは安心したように笑った。
だが、白狼の背に乗った怪我人と、後ろの二人の紋章を見て、エリスの表情が変わった。
「ルグラン商会……」
三人の男が硬直する。
ハーゲンも目を細めた。
「まさか、こんな形で現れるとは」
ミラさんは一瞬だけ戸惑った。
でもすぐに、女将の顔になった。
「怪我人を中へ。まずは手当てと食事です」
「ミラさん」
エリスが声を低くする。
「彼らはルグラン商会の人間よ」
「はい」
「危険かもしれない」
「わかっています」
ミラさんは静かに答えた。
「でも、今は森で迷って怪我をしたお客様です」
エリスは何か言いかけて、口を閉じた。
そして小さく息を吐く。
「……そうね。ここは白狼亭だったわ」
白狼が怪我人を降ろす。
ノアは包んだ黒い小袋を俺に渡した。
「これ、証拠になるかもしれない。でも危ない」
エリスの目が鋭くなる。
「何?」
「黒牙の近くに生える毒草らしい」
ハーゲンの顔色が変わった。
「それを商会が持っていたのですか」
ルグラン商会の男たちは青ざめた。
「俺たちは知らない! 本当に、運べって言われただけで!」
エリスは冷たい目で彼らを見た。
「なら、知っていることを全部話してもらうわ」
ミラさんが間に入る。
「その前に、スープです」
「ミラ」
「尋問は、食べた後です。空腹の人は、まともに話せません」
エリスはしばらくミラさんを見ていた。
やがて、ほんの少し笑った。
「あなた、本当に宿の女将ね」
「はい」
ミラさんは堂々とうなずいた。
「白狼亭へようこそ。事情はあとで聞きます。まずは温まってください」
三人の男たちは、呆然とした顔で宿の中へ入っていく。
敵かもしれない者たち。
証拠を運んできた者たち。
森で迷った者たち。
白狼亭の夜は、また厄介な客を迎えた。
けれど暖炉の火は、彼らを拒まなかった。
ただ、赤く静かに燃えていた。




