第50話 水源の詰まりを抜いたら、森が一度だけ歌った
翌朝、白狼亭は水源修復隊を送り出した。
前回より、荷物が多い。
ガランさんが作った分割式の木樋。
ダリオさんが調整した接続具。
マーレンさんの薬草袋。
ノアの光苔瓶。
バートの黒羽罠確認具。
俺の工具巻き。
白狼の水。
白狼亭の端布。
そして、ミラさんの蜂蜜塩パン。
「今回は本当に食べてくださいね」
「はい」
「作業前にも食べてください」
「はい」
「作業後ではなく、作業前です」
「……はい」
念押しが細かい。
だが、反論はしなかった。
今回の目的は、水源の黒い詰まりを抜くこと。
失敗すれば、黒い濁りが水脈へ流れ、白狼亭の井戸まで傷つく。
無茶をする場面ではない。
白狼は玄関前で静かに立っていた。
昨夜の薬湯と月根草のおかげで、脇腹の黒ずみは少し落ち着いている。
だが完全ではない。
むしろ今日の作業で、水源の黒さに触れれば、また傷が反応するかもしれない。
ノアはそれをわかっているのか、ずっと白狼の横を離れなかった。
「白狼様、今日は前に出すぎないで」
白狼は鼻を鳴らした。
「本当に」
ノアが真顔で言う。
白狼は少しだけ目を逸らした。
どうやら神狼にも、都合の悪い話はあるらしい。
ミラさんは井戸の前で手を合わせた。
「行ってきます。水源を、必ず助けます」
井戸が、こぽりと小さく鳴った。
返事だった。
俺たちは森へ向かった。
白狼道は、前より少し歩きやすくなっていた。
水鹿の祠も、昨日清めたおかげか、黒さが薄れている。
ノアが祠にパンと水を少し置くと、また小さな水音がした。
「見てる」
「誰が?」
「水鹿」
姿は見えない。
けれど、森の奥に白い気配があるような気がした。
水鹿道へ入り、水源へ着く。
黒く濁った泉は、昨日と同じように苦しそうな水音を立てていた。
三本の水止め杭。
深い杭の奥に結ばれた汚染袋。
見ただけで、胸がざわつく。
「段取り通りにやるよ」
マーレンさんが言った。
「一、仮の逃がし水路を作る。二、濁りを薬草で固める。三、杭を順番に緩める。四、袋ごと抜く。五、水源に白狼の水を一滴だけ戻す」
「一滴だけ?」
バートが聞く。
「多すぎると、水源が驚く」
「水源、繊細だな」
「人間よりずっとね」
マーレンさんの返しが鋭い。
ガランさんが木樋を組み始めた。
今回は彼も同行している。
「俺がいなきゃ水路なんざ組めねぇだろ」
と言って押し切った。
その代わり、ダリオさんは宿に残り、扉と境界杭を守っている。
ガランさんは泉の横の低い場所を選び、木樋を置く。
「ここから少し逃がす。全部じゃねぇ。黒い水を一気に出すなよ」
「わかっています」
俺は水源の石に手を近づけた。
触る前に、ノアを見る。
ノアは頷いた。
「聞いて」
俺は泉へ向かって小さく言った。
「少しだけ道を借りる。苦しい水を逃がして、詰まりを抜きたい」
水源は、すぐには答えなかった。
黒い水面が、ゆらりと揺れる。
しばらくして、ちょろ、と細い水音がした。
許可だと思う。
ノアも頷いた。
「いいって。でも、痛がってる」
「なら、急がない」
俺は石に手を当て、ごく薄く修復の光を流した。
水の流れを変えるのではなく、仮の木樋へ少しだけ逃がす。
ガランさんが木樋の角度を調整し、バートが黒羽の追跡具や罠がないか周囲を確認する。
「今のところ罠はない。でも、杭に黒羽の印がある。抜いた瞬間、反応するかもしれない」
「反応したら?」
「場所が向こうに飛ぶ」
エリスがいれば、ものすごく嫌な顔をしただろう。
俺も嫌だった。
「じゃあ、抜く前に印を眠らせる」
「できるのか?」
「たぶん」
ノアがこちらを見た。
「本当?」
「……できると思う」
「そっちの方が信用できる」
どういう基準なのか。
俺は杭の印に直接触れず、白狼亭の端布をかぶせた。
その上から、白狼の水を一滴。
さらに、マーレンさんが苦根草の粉を少しだけ振る。
印の黒さが鈍る。
「今だ」
マーレンさんが言った。
まず一本目。
浅い杭をガランさんが工具で挟み、俺が周囲の石を支える。
ノアが水の流れを見て、マーレンさんが薬草で黒い濁りを固める。
「抜くぞ」
ガランさんの腕に力が入る。
ぎし。
杭が動いた。
黒い水が少し噴いたが、木樋へ逃げる。
白狼が低く鳴く。
泉の黒さが揺れる。
「一本目、抜けた!」
バートが小さく叫ぶ。
抜けた杭は、黒い油で濡れていた。
マーレンさんがすぐに端布で包む。
「触るんじゃないよ。これは証拠にもなる」
二本目は水脈の横だった。
これが一番怖かった。
無理に抜けば、水脈の壁が崩れる。
俺は石に手を当てる。
「少しだけ、踏ん張ってくれ」
水源の奥で、水音が震えた。
苦しい。
そう聞こえた。
「すぐ終わらせる」
自分に言っているのか、水源に言っているのかわからなかった。
ガランさんが杭を緩める。
俺は水脈の石を支える。
ノアが白狼亭の水を一滴ずつ足し、マーレンさんが黒い泡を固める。
白狼は少し離れた場所で、じっと泉を見ていた。
脇腹の傷が黒く滲んでいる。
それでも前へ出ない。
約束を守っている。
「抜ける!」
二本目が抜けた瞬間、泉の水面が大きく跳ねた。
黒い泡が木樋へ流れる。
マーレンさんが叫ぶ。
「固めるよ!」
薬草粉が水面へ落ちる。
黒い泡が灰色の塊になり、木樋の途中で止まった。
バートがそれをすくい、端布へ包む。
「うわ、臭ぇ……」
「嗅ぐな」
ノアが即座に言った。
最後は、三本目。
深い杭。
汚染袋とつながっている。
これを抜けば、作業は終わる。
失敗すれば、全部流れる。
俺は息を吸った。
ミラさんの言葉を思い出す。
帰ってきてください。
白狼亭の井戸が泣いた音を思い出す。
サナさんとリリが眠る朝焼けの部屋。
セナの守った手紙。
ダリオさんが直した扉。
白狼の薬湯。
全部が、この水につながっている。
「焦るな」
マーレンさんが言った。
「はい」
「全部直そうとするな」
「はい」
「今やるのは、詰まりを抜くことだけだ」
「はい」
俺は頷いた。
ガランさんが杭に縄をかける。
バートが周囲の黒羽印を見張る。
ノアが泉の縁に手を置き、森の言葉を呟く。
白狼が一歩だけ前に出て、息を吹いた。
泉の水面が白く揺れる。
「いくぞ」
ガランさんが縄を引く。
俺は水脈の石に力を流す。
杭が動く。
重い。
かなり深い。
水源が悲鳴のような音を立てる。
手を離したくなる。
でも離せない。
黒い袋が見えた。
杭の先に結ばれた、小さな革袋。
袋から黒い液がにじんでいる。
「袋!」
ノアが叫ぶ。
「破れる前に包む!」
マーレンさんが端布を投げる。
バートが身を乗り出し、それを受け取った。
「俺がやる!」
「触るな!」
「わかってる!」
バートは端布越しに袋を掴んだ。
その瞬間、袋が膨らむ。
黒羽の印が光った。
「反応するぞ!」
俺は杭ではなく、印を見た。
知らせる流れ。
灰羽へ飛ぼうとしている。
それを止めるのではなく、逸らす。
廃橋の時と同じ。
ただし今回は、水源を通す。
「迷え」
俺は低く言った。
印の光が乱れた。
黒い知らせの糸が、水源の周囲を一周し、空へ抜ける。
どこへ飛んだのかはわからない。
だが、灰羽へまっすぐは行かなかったはずだ。
「抜けた!」
ガランさんの声。
三本目の杭が、水音とともに引き抜かれた。
バートが汚染袋を端布で包み、マーレンさんが薬草粉を振る。
黒い液が固まる。
泉の水が、大きく揺れた。
黒い濁りが一度、泉全体へ広がりかける。
「白狼様!」
ノアが叫ぶ。
白狼が吠えた。
その声は、森の奥まで響いた。
水面の黒さが震える。
俺は白狼亭の水の小瓶を取り出した。
一滴。
約束通り、一滴だけ。
泉へ落とす。
ぽたり。
その一滴が、水面に触れた瞬間、白い波紋が広がった。
黒い濁りを完全に消すわけではない。
でも、散らばらせず、奥へ沈めず、ゆっくり薄めていく。
水源の中央から、透明な水が少しだけ湧いた。
ちょろ。
その音が聞こえた瞬間、ノアの目に涙が浮かんだ。
「水が……息した」
泉の周囲で、風が揺れた。
木々の葉が、さわさわと鳴る。
それは普通の風の音ではなかった。
水鹿道。
白狼道。
祠。
井戸へ向かう水脈。
全部が、同じ音で鳴っている。
森が一度だけ、歌ったようだった。
白い影が、泉の向こうに現れた。
昨日の水鹿。
その後ろに、もう一頭。
小さな水鹿だ。
ノアが息を呑む。
「子ども……」
水鹿たちは、まだ泉に近づかなかった。
けれど、遠くから白狼へ頭を下げた。
そして俺たちにも。
白狼が静かに頭を下げ返す。
神狼と水鹿。
森の古い約束が、少しだけ戻った瞬間だった。
マーレンさんが深く息を吐いた。
「完全に戻ったわけじゃないよ」
「わかっています」
俺は答えた。
「でも、詰まりは抜けました」
「ああ。上出来だ」
上出来。
マーレンさんにそう言われると、妙に嬉しい。
ノアも小さく言った。
「今日は、ちゃんと我慢した」
「それも褒め言葉?」
「すごく」
「なら、かなり嬉しい」
バートが汚染袋を持ちながら笑った。
「帰ったら女将に報告だな。今回は叱られねぇんじゃないか?」
「少しだけ印を逸らしました」
「それは言い方次第だな」
「ちゃんと報告します」
白狼が鼻を鳴らした。
そうしろ、と言っているようだった。
俺たちは水源を離れた。
泉の水はまだ少し黒い。
でも、中央には透明な流れが戻り始めている。
木樋は一部を残し、黒い塊は持ち帰る。
杭と汚染袋も証拠として持ち帰る。
水源は、これから時間をかけて戻るのだろう。
一気には直らない。
でも、息は戻った。
白狼亭へ帰る道で、森の音は少し増えていた。
遠くで小鳥が鳴いた。
ノアがそれを聞いて、泣きそうな顔で笑った。
「久しぶりの声」
俺は何も言わなかった。
言葉にするのがもったいない気がした。
白狼亭の灯りが見えた時、宿札が風もないのにかたんと鳴った。
まだ遠いのに、見えた気がした。
そこにはきっと、こう書かれている。
帰るべき者、帰還。
そして、もう一行。
水は、少し戻った。
俺たちは、その報告を胸に、白狼亭へ歩いて帰った。




