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第51話 白狼亭は、もう一度「ただいま」を迎える宿になった

 白狼亭へ戻る道で、森は少しだけ音を取り戻していた。


 鳥の声。

 葉の擦れる音。

 細い水が根の間を抜ける音。


 どれも小さい。


 けれど、昨日までの沈黙とは違う。


 黒く濁った水源は、まだ完全には戻っていない。

 水止め杭と汚染袋を抜いたことで、ようやく息をしただけだ。


 それでも、森は一度だけ歌った。


 あの音を、俺はたぶん一生忘れない。


「たぶん?」


 横を歩くノアが言った。


「口に出てたか?」


「出てた」


「悪い癖だな」


「でも、今のたぶんは悪くない」


 ノアはそう言って、少しだけ笑った。


 白狼は先頭を歩いている。


 脇腹の傷は、水源で一度黒く滲んだ。

 けれど、月根草と薬湯が効いているのか、行きより足取りは軽い。


 バートは汚染袋を包んだ端布を慎重に持っていた。


「これ、絶対に臭い漏れてるよな」


「漏れてる」


 ノアが即答する。


「最悪だな」


「でも証拠」


「……だな」


 バートは嫌そうな顔をしながらも、絶対に落とさないよう両手で抱えている。


 ガランさんは肩に木樋の残りを担ぎ、マーレンさんは月根草の袋を守るように胸元にしまっていた。


「帰ったらすぐ白狼様の傷を見るよ」


「また薬湯か」


 俺が言うと、白狼の耳がぴくりと動いた。


 マーレンさんは容赦なく頷く。


「当然だ。今日は水源に近づいたんだ。薬湯なしで寝かせるわけないだろう」


 白狼の尻尾が不満そうに揺れた。


 だが、誰も味方しなかった。


 白狼亭の灯りが見えた。


 玄関前に、ミラさんが立っている。


 その隣にはエリス、ダリオさん、ハーゲンさん、セナ、ロザおばさん、トマ。

 二階の窓には、リリとサナさんの姿もあった。


 全員がこちらを見ている。


 俺たちが森を抜けた瞬間、宿札がかたんと鳴った。


『帰るべき者、帰還』


 そして、その下に。


『水は、少し戻った』


 ミラさんはその文字を見て、両手で口元を押さえた。


「ただいま戻りました」


 俺が言うと、彼女は目に涙を浮かべながら笑った。


「おかえりなさい」


 その一言で、森で背負っていた緊張がほどけた。


 白狼亭の前に立つと、井戸がこぽりと鳴った。


 昨日、泣いたような音を立てた井戸。


 今日は違う。


 水面が淡く揺れ、透明な光がゆっくり広がっている。


 ミラさんが井戸へ駆け寄った。


「水源の詰まり、抜けました」


 俺が言う。


「完全ではありません。でも、水は息をしました」


 ミラさんは井戸の縁に手を置いた。


「よかった……」


 井戸の水が、こぽこぽと返事をした。


 まるで、遠い水源の回復を聞いて喜んでいるようだった。


 白狼が井戸に近づき、静かに息を吹く。


 水面が白く光った。


 その光は前よりも澄んでいた。


 ノアが小さく言う。


「白狼亭の水、昨日より元気」


「スープも変わるかな」


 ロザおばさんが言った。


「卵ももっと強くなるね」


「そこなんですね」


「そこだよ」


 いつものやり取りに、みんなが笑った。


 笑えることが、ありがたかった。


 食堂へ入ると、暖炉の火が強く燃えた。


 ミラさんはすぐに白狼を湯殿へ案内した。


「白狼様、薬湯です」


 白狼は一瞬だけ立ち止まった。


 だが二階からリリが言う。


「白い狼さん、がんばって」


 白狼は静かに湯殿へ向かった。


 完全敗北だった。


 マーレンさんが満足そうに後を追う。


「いい患者になってきたね」


 白狼が小さく唸った。


 たぶん、褒められて嬉しくはない。


 食堂では、報告会が始まった。


 エリスが紙を広げる。


 俺たちは水源で見たことを全て話した。


 三本の水止め杭。

 深い杭に結ばれていた汚染袋。

 黒羽の印。

 水鹿の親子。

 水源の中央から戻った透明な流れ。


 バートは汚染袋と杭を地下保管庫へ運び、証拠として預けた。


 箱の白狼紋が光る。


 エリスは静かに言った。


「これで、ルグラン商会と灰羽が水源を汚した証拠が増えたわ。水源、封じ石、偽造許可状、監査官セドリック、粗悪建具。別々の事件ではなくなってきた」


「全部、一本の線でつながっているんですね」


 ミラさんが言う。


「ええ。そして白狼亭は、その線の結び目になっている」


 エリスの言葉に、食堂が少し静まった。


 結び目。


 たしかにそうだ。


 追放された俺。

 冤罪のエリス。

 森の番人ノア。

 傷ついた白狼。

 宿を閉じたミラさん。

 工房を失ったダリオさん。

 商会から逃げたバート。

 手紙を守ったセナ。

 薬師マーレン。

 村の人たち。


 壊れたものを抱えた人たちが、この宿へ集まった。


 そして、少しずつ直り始めている。


 白狼亭そのものと一緒に。


「でも、今日は勝ちました」


 ミラさんが静かに言った。


 全員が彼女を見る。


「水源は全部戻っていません。敵もまだいます。王都にも、ルグラン商会にも、灰羽にも、これから向き合わなければいけません」


 彼女は宿帳へ手を置いた。


「でも今日は、水を少し戻しました。白狼様の傷も少し楽になりました。井戸も喜んでいます。だから、今日は勝ちです」


 暖炉の火が、ぱちりと鳴った。


 白狼亭が同意したようだった。


 エリスが少し笑う。


「ええ。今日は白狼亭の勝ちね」


 その夜、ミラさんは水源の戻り水でスープを作った。


 正確には、井戸に戻ったばかりの新しい水。


 野菜と豆、干し肉、ロザおばさんの卵。

 そこへマーレンさんが疲労回復の薬草をほんの少し。


 食堂に香りが広がった瞬間、誰もが黙った。


 昨日までのスープとは違う。


 白狼の水は、さらに澄んでいた。


 一口飲むと、体の奥に水音が戻るような味がした。


「……うまい」


 俺が言うと、ミラさんは目を潤ませて笑った。


「夫が言っていたんです。この水で作るスープは、旅人の足をもう一歩進ませるって」


「本当に、そういう味です」


 ダリオさんが言った。


「明日も扉を直せそうです」


「私は明日も寝かされそうだけどね」


 セナが長椅子で苦笑する。


「寝てください」


 ミラさん、マーレンさん、ノアが同時に言った。


 セナは素直に黙った。


 バートはスープを見つめていた。


「俺、白狼亭に来るまで、飯で泣きそうになるなんて思わなかった」


「泣いてもいいのよ」


 エリスが言う。


「泣かねぇよ」


 そう言いながら、バートは顔を伏せてスープを飲んだ。


 誰も笑わなかった。


 そういう涙も、白狼亭は受け入れる宿だからだ。


 食後、白狼が湯殿から戻ってきた。


 月根草が効いたのか、脇腹の黒ずみはかなり薄い。


 完治ではない。


 けれど、今夜の白狼は少し楽そうだった。


 リリがそっと白狼の額に触れる。


「白い狼さん、あったかい」


 白狼は目を細めた。


 その姿を見て、ノアが小さく息を吐く。


「よかった」


 たった一言。


 でも、第何回分もの安心が詰まっていた。


 夜更け。


 エリスは宿帳に今日の記録を書き込んだ。


『水源修復第一段階

水止め杭三本、汚染袋一つを除去

月根草、白狼様の傷に効果あり

水鹿親子を確認

白狼亭の井戸、澄みを増す』


 ミラさんはその下に、ゆっくりと一文を書き足した。


『白狼亭は、今日も帰る者を迎えた』


 宿帳が淡く光った。


 それは派手な光ではない。


 暖炉の火と、井戸の水と、星見の間の風が静かに混ざったような光だった。


 玄関の宿札が、かたんと鳴る。


 みんなで外へ出た。


 星の見える夜だった。


 白狼亭の看板が、月明かりを受けて淡く光っている。


 宿札には、こう書かれていた。


『第一の火、戻る』

『第一の水、戻る』

『白狼亭、再び宿となる』


 ミラさんは声を震わせた。


「再び……宿に……」


 白狼が彼女の隣に立つ。


 エリスは空を見上げた。


「第一部完、というところね」


「何ですか、それ」


 俺が聞くと、エリスは少し笑った。


「物語なら、ここで一度区切るところだと思ったの」


「区切りですか」


「ええ。でも終わりではないわ」


 彼女は王都の方角を見る。


「手紙はまだ届いていない。灰羽も逃げた。ディオンも、セドリックも、ルグラン商会も残っている。封じ石も完全ではない。水源もまだ回復途中」


「問題だらけですね」


「でも、私たちはもう白狼亭を持っている」


 その言葉に、胸が静かに熱くなった。


 王宮を追放された日、俺には何もなかった。


 役立たずと言われ、居場所を失い、どこへ行けばいいかもわからなかった。


 それが今、白狼亭の玄関前に立っている。


 隣にはミラさん。

 エリス。

 ノア。

 白狼。

 仲間と呼んでもいい人たち。


 そして、直すべきものがある。


 それは呪いではなかった。


 生きる理由だった。


 ミラさんが宿札を見つめたまま言った。


「白狼亭は、まだ壊れています」


「はい」


「でも、もう閉じません」


 その声には、確かな強さがあった。


「壊れたところは、直します。迷った人は迎えます。傷ついた人は休ませます。証拠も、約束も、帰る道も守ります」


 白狼が静かに鳴いた。


 森の奥で、水音が返る。


 遠く、白い鹿の気配がしたような気がした。


 俺は宿を振り返った。


 暖炉の火。

 澄み始めた井戸。

 直った扉。

 朝焼けの部屋。

 星見の間。

 境界杭。

 地下保管庫。


 全部が、少しずつ戻っている。


 俺は静かに言った。


「明日からも、直しましょう」


 ミラさんが笑う。


「はい。まずは厨房の棚からお願いします」


「そこですか」


「大事です」


「わかりました」


 みんなが笑った。


 白狼亭の夜は、久しぶりに穏やかだった。


 完全な平和ではない。


 でも、今夜だけは、火と水と笑い声が揃っていた。


 宿札が最後にもう一度、かたんと揺れた。


『次なる客、いずれ来たる』


 その文字を見て、エリスが微笑む。


「ほら。続きの予告まで出たわ」


 白狼は面倒そうに目を閉じた。


 ミラさんは扉を開け、食堂の灯りを見せる。


「どんなお客様でも、まずは温かいスープですね」


 俺は頷いた。


 白狼亭は、もう一度宿になった。


 そして俺たちは、その宿で明日を迎える。


 壊れたものを、また一つずつ直すために。

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第一部の完結おめでとうございいます。 続きの第二部を楽しみにお待ちしていますね。 ワクワク♥
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