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第49話 月根草を持ち帰ったら、白狼亭の井戸が泣いた

 白狼亭の灯りが見えた時、俺は思わず息を吐いた。


 森の奥から帰ってくるたびに、この灯りの見え方が変わる。


 最初は、ただの宿の灯りだった。

 次は、帰る場所の灯りだった。

 今日は、報告しなければならない場所の灯りだった。


 月根草は手に入った。


 水源の状態も見た。


 黒羽の水止め杭。

 汚染袋。

 黒く濁った泉。

 そして、まだ生きていた水鹿。


 全部を持って帰るわけにはいかない。


 だから、言葉にして持ち帰る。


 それもまた、白狼亭の仕事になりつつあった。


「帰ったら、まず月根草」


 マーレンさんが言った。


「白狼様の傷に使う。次に井戸を見る。最後に報告会だ」


「報告会……」


 バートが顔をしかめた。


「俺、そういうの苦手なんだよな」


「見たものを話せばいい」


 ノアが言う。


「足跡、杭、油の匂い。バートがわかることがある」


「……わかったよ」


 バートは少し照れたように頭をかいた。


 白狼は先頭を歩いていた。


 行きより少し足取りが重い。


 水源に近づいた時、脇腹の傷が反応していたからだ。


 それでも白狼は弱った姿を見せない。


 むしろ、俺たちより先に宿へ戻ろうとしている。


 たぶん、早く薬湯に入りたいわけではない。


 絶対に違う。


 白狼亭の玄関前には、ミラさんが立っていた。


 エリス、ガランさん、ダリオさん、ハーゲン、セナ、ロザおばさん、トマ。

 みんなが外へ出ている。


 リリも二階の窓から顔を出していた。


「帰ってきた!」


 トマが叫んだ。


 次の瞬間、ミラさんが一歩前へ出る。


「おかえりなさい」


 その声を聞いた瞬間、森の冷たさが体から抜けた。


「ただいま戻りました」


 俺が答えると、ミラさんは全員の顔を確認した。


 怪我はないか。

 倒れそうな者はいないか。

 白狼は無事か。


 その目は完全に女将であり、少しだけ母親みたいでもあった。


「月根草は?」


 マーレンさんが布袋を掲げる。


「一本だけ残っていた。半分だけ採ったよ」


 ミラさんはほっと息を吐いた。


 ノアが続ける。


「水鹿もいた」


 その言葉に、白狼亭の前が静かになった。


「水鹿……」


 ミラさんが小さく呟く。


 エリスが目を細めた。


「それは、水源がまだ完全には死んでいないということね」


「そう」


 ノアは頷いた。


「でも黒い。水止め杭が三本。深いところに汚染袋」


 エリスの表情が一気に仕事の顔になる。


「中で聞きましょう」


 ミラさんはすぐに扉を開けた。


「その前に、手洗いと水。白狼様は湯殿へ。マーレンさん、お願いします」


 白狼の耳が伏せた。


 帰ってきて早々、薬湯である。


 リリが二階の窓から小さく手を振った。


「白い狼さん、お風呂がんばって」


 白狼は完全に逃げ道を失った。


 マーレンさんがにやりと笑う。


「さあ、患者は湯殿だよ」


 白狼は深いため息をつくように鼻を鳴らし、湯殿へ向かった。


 神狼も、子供の応援と薬師には勝てない。


 湯殿では、月根草の準備が始まった。


 マーレンさんは布袋から銀色の根を取り出す。


 ほんの指ほどの長さしかない。


 けれど、それが出た瞬間、湯殿の空気が変わった。


 黒牙の霧の匂いが薄くなり、白狼の水が入った桶の表面に、月明かりのような光が浮かぶ。


「これが月根草……」


 ミラさんが息を呑んだ。


「根を全部使うんですか?」


「使わない。削るのはほんの少し。残りは育てる」


「育てる?」


「白狼亭の井戸のそばなら、根が持つかもしれない。水源から切り離された根は弱るが、白狼の水と火の気配があれば一時的に生かせる」


 ノアの耳が立った。


「白狼亭で月根草を守れる?」


「守れる可能性がある。薬草は採ったら終わりじゃない。次に残すところまでが薬師の仕事だよ」


 ノアは真剣に頷いた。


「覚える」


「よし」


 マーレンさんは月根草の根をほんの少し削り、薬草水へ混ぜた。


 水が銀色に淡く光る。


 それを白狼の脇腹へ染み込ませた布に含ませる。


 白狼は湯の中で目を閉じていたが、布が傷に触れた瞬間、わずかに体を震わせた。


「痛い?」


 ノアが小さく聞く。


 白狼は鼻を鳴らした。


 痛いが我慢できる、という顔だった。


 月根草の光が、黒い傷の周囲へゆっくり広がる。


 黒い煙が薄くなり、傷の奥にあった棘のような影が少しだけ静まった。


 完全には消えない。


 でも、暴れていたものが眠るように沈んでいく。


 マーレンさんが頷いた。


「効いている。今夜はかなり楽になるはずだ」


 ノアの肩から、目に見えて力が抜けた。


「よかった」


 その一言が、とても小さくて、だからこそ重かった。


 白狼は目を開け、ノアを見た。


 そして湯の中から尻尾を少しだけ動かした。


 ばしゃ。


 湯が跳ねた。


「白狼様」


 マーレンさんの声が低くなる。


 白狼はすぐに目を逸らした。


 湯殿の外で、俺は少し笑った。


 笑った瞬間、ミラさんに見られた。


「ルカさん」


「はい」


「石に触ったと聞きました」


 ノアがもう報告していた。


 早い。


「水源の石に、少しだけです」


「少しだけ、ですね」


「水には触っていません」


「それは偉いです」


 褒められた。


 だが、ミラさんは続けた。


「でも、次からは帰ってきてから自分で報告してください」


「はい」


「怒るためではありません。知っておきたいんです。あなたが何に触れて、どこで無理をしたのか」


 その言葉に、胸の奥が少し詰まった。


 怒るためではない。


 心配するためでもあるし、次に守るためでもある。


「次から、ちゃんと話します」


「約束です」


「はい」


 白狼が湯の中で鼻を鳴らした。


 証人が多い約束だった。


 食堂に戻ると、報告会が始まった。


 エリスが大きな紙を広げる。


 星見の間の星図を写したものだ。


 俺たちは見たものを順番に話した。


 水鹿の祠。

 黒羽の油。

 祠を清めたら開いた水鹿道。

 黒く濁った水源。

 三本の水止め杭。

 深いところの汚染袋。

 一本だけ残った月根草。

 白い水鹿。


 ノアは水源の位置と水の流れを線で描いた。


 バートは水止め杭の形と、黒羽の罠の構造を補足した。


「杭は三本で水を弱らせる。深い杭に袋を結ぶのは灰羽のやり方だ。すぐには効果が出ない。じわじわ水を腐らせる」


「つまり、白狼亭の井戸が戻ったから急に仕掛けたというより、前から仕込まれていた可能性もある?」


 エリスが尋ねる。


「ある。ただ、最近打ち直した跡もあった。たぶん、三年前の古い仕掛けに追加した」


 バートの言葉に、エリスが紙へ書き込む。


「灰羽は、白狼亭が戻ることを警戒して水源を再汚染した。これで説明がつくわね」


 マーレンさんが薬草をすりつぶしながら言った。


「水源を戻すには、準備がいる。まず仮の逃がし水路。次に黒い濁りを固める薬草。最後に杭と袋を同時に抜く」


「逃がし水路は、作れますか?」


 ガランさんが腕を組む。


「森の中だろ。現場を見ねぇと何とも言えんが、木樋なら組める。持っていける長さに分ければいい」


 ダリオさんも頷く。


「接続部なら作れます。水を漏らさず、でも水源を傷つけない形に」


 エリスがすぐに書く。


「水源修復作戦。必要物、木樋、接続具、薬草、縄、杭抜き具、白狼の水、白狼様の息、ノアの案内、ルカの水脈確認」


「また大ごとになりましたね」


 俺が言うと、エリスは当然のように答えた。


「水源を直すのよ。小ごとで済むわけがない」


 それはそうだった。


 ミラさんは静かに聞いていた。


 そして、井戸の方へ視線を向ける。


「水源が濁っている間、白狼亭の井戸は大丈夫でしょうか」


 マーレンさんが答えた。


「今すぐ悪化はしない。今日、月根草の残りと水鹿の祠が少し戻ったからね。ただ、油断すればまた濁る」


「では、井戸を毎日見ます」


 ミラさんはきっぱり言った。


「水の色、匂い、味、湯にした時の変化。全部、宿帳に記録します」


 エリスが少し笑った。


「いい判断ね」


「女将の勉強中ですから」


 ミラさんも少し笑った。


 その時、外で井戸が、こぽりと鳴った。


 全員が黙る。


 いつもの水音とは少し違う。


 泣いたような音だった。


 ノアがすぐに立ち上がる。


「井戸が反応してる」


 俺たちは外へ出た。


 夕暮れの井戸。


 水面が淡く光っている。


 黒くはない。


 だが、いつもより揺れていた。


 ミラさんが井戸の縁に手を置く。


「大丈夫です。水源のこと、見てきました。すぐに全部は直せません。でも、必ず助けに行きます」


 井戸の水面が、ぽたりと一滴だけ跳ねた。


 まるで涙みたいだった。


 ミラさんはその一滴を見て、目を潤ませた。


「待っていてください」


 白狼が湯殿から出てきた。


 毛はまだ少し湿っている。


 だが、歩き方は朝よりずっと楽そうだった。


 井戸のそばへ来ると、静かに息を吹いた。


 水面の揺れが落ち着いていく。


 ノアが小さく言った。


「井戸も、水源のことを知りたかったんだ」


「報告できてよかったですね」


 ミラさんは頷いた。


「はい」


 夜。


 月根草の残りは、井戸のそばに小さな鉢を作って植えられた。


 土は水源近くの苔土をほんの少し。

 水は白狼の井戸水。

 鉢を包むのは白狼亭の端布。


 ノアが森の言葉で短く祈り、マーレンさんが薬師の印を結び、ミラさんが水を一滴落とした。


 根はすぐには動かない。


 でも、葉の裏に銀色の光が残っていた。


「生きるかな」


 ノアが不安そうに言う。


「生かすんだよ」


 マーレンさんが答えた。


 その言い方が、いかにも薬師だった。


 食堂に戻ると、宿札がかたんと鳴った。


 文字が変わっている。


『月根草、宿に根を下ろす』


 その下に、もう一行。


『次は、水源の詰まりを抜くべし』


 ガランさんが腕を鳴らした。


「なら、明日から木樋作りだな」


 ダリオさんも頷く。


「接続部を見直します」


 エリスは紙を整える。


「作戦計画を立てるわ」


 ミラさんは厨房へ向かった。


「では、作戦会議用の夜食を作ります」


「夜食?」


「考えるには食べないと」


 マーレンさんが満足そうに笑った。


「いい女将だ」


 俺は椅子に座り、白狼の方を見た。


 白狼は暖炉前で伏せている。


 薬湯と月根草のおかげか、今日は表情が少し穏やかだった。


 完全に治ったわけではない。


 水源もまだ黒い。


 灰羽も、黒羽も、王都も残っている。


 でも、今日は確かに進んだ。


 全部を直さなかった。


 けれど、直すための道を持ち帰った。


 それは、たぶん大きな前進だった。

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