第48話 黒く濁った水源で、白い鹿はまだ待っていた
水鹿道の奥へ進むほど、森の音が減っていった。
鳥の声がない。
虫の羽音もない。
葉が擦れる音さえ、どこか遠い。
代わりに聞こえるのは、水の音だった。
ちょろちょろ。
いや、違う。
普通の水音ではない。
細い流れが、喉を詰まらせながら無理に流れているような音。
ノアが顔をしかめた。
「水が苦しんでる」
その言葉が、妙にぴったりだった。
やがて木々が開けた。
そこに、水源があった。
小さな泉だった。
本来なら、森の奥で静かに澄んでいる場所だったのだろう。
丸い窪地の中央から水が湧き、周囲へ細い流れをいくつも伸ばしている。
白狼亭の井戸へ向かう流れ。
水鹿道へ沿う流れ。
封じ石の方へ向かう流れ。
森の血管みたいな場所だ。
だが今、その泉は黒く濁っていた。
真っ黒ではない。
底はかすかに見える。
けれど、水面には油膜のような黒い揺らぎが浮かび、泉の縁には黒ずんだ苔がへばりついている。
中心の湧き出し口には、黒い釘のようなものが三本、斜めに刺さっていた。
「……これが原因か」
俺が呟くと、バートが息を呑んだ。
「黒羽の水止め杭だ」
「知っているのか?」
「ああ。商会が水場を押さえる時に使う。表向きは水量調整具。でも灰羽の連中が使うやつは違う。水を弱らせて、別の流れに誘導する」
マーレンさんの顔が険しくなる。
「薬草場を枯らす時にも使われる。水を奪って、土地ごと買い叩くためにね」
「本当に、どこまでも腐ってるな」
バートが吐き捨てた。
ノアは泉の縁に膝をつき、水に手を近づけた。
しかし触れる寸前で止める。
「黒い。深いところまで入ってる」
「白狼の水で薄められるか?」
「無理。ここが元。白狼亭の水は、ここから流れてる」
つまり、井戸は応急的に戻っただけ。
水源そのものが濁っている限り、いつまた白狼亭の井戸が弱るかわからない。
白狼が泉のそばへ近づいた。
その瞬間、脇腹の傷が黒く滲んだ。
「白狼様!」
ノアが駆け寄る。
白狼は平気そうに立っていた。
だが、尻尾の先がわずかに震えている。
マーレンさんが鋭く言った。
「近づきすぎるんじゃない。黒牙の棘が反応している」
白狼は不満そうに鼻を鳴らしたが、一歩だけ下がった。
昨日より聞き分けがいい。
薬湯効果かもしれない。
「月根草は?」
俺が聞くと、マーレンさんは泉の周囲を見回した。
「本来なら、この辺りに生えているはずだ」
ノアも目を凝らす。
「葉の裏が銀色。根が光る……でも」
周囲にある草は、どれも黒ずんでいた。
水源の濁りを吸い、葉先が丸まり、根元が弱っている。
マーレンさんは一本の草を摘み、匂いを嗅いだ。
「これは偽物だ。黒水に似せて育つ毒草。月根草に似ているが、根が光らない」
「間違えたら?」
「高熱、腹痛、幻覚。最悪、黒牙の霧を呼ぶ」
「腹薬では無理そうですね」
「腹薬で全部どうにかなると思うんじゃないよ」
怒られた。
バートが泉の反対側を見て、低く言った。
「足跡がある」
俺たちはそちらへ向かった。
ぬかるんだ土に、人間の足跡。
新しい。
数は二人か三人。
黒羽の追手か、灰羽の配下か。
足跡は水止め杭の近くまで続き、そこで消えていた。
「ここで杭を打った」
バートが言う。
「それほど古くねぇ。数日前か、長くても一週間以内」
「つまり、白狼亭の井戸が戻ったことに反応して、また水源を弱らせた?」
俺が言うと、ノアの目が鋭くなった。
「白狼亭が戻るのを嫌がってる」
「嫌がっているのは森ではなく、灰羽たちだね」
マーレンさんが泉を見た。
「この杭を抜けば水は戻り始める。だが、乱暴に抜くと黒い濁りが一気に流れる。白狼亭の井戸にも戻るよ」
ミラさんが宿で待っている姿が浮かんだ。
井戸を見て、火と水を守ると言った彼女。
ここで俺が焦れば、彼女の守る場所まで壊してしまう。
俺は工具巻きに触れた手を止めた。
「まず、見るだけ」
ノアが俺を見た。
「自分で言った」
「ああ」
「えらい」
「子供扱いされてないか?」
「されてる」
即答された。
白狼が鼻を鳴らした。
少し笑われた気がする。
俺は泉の縁に膝をつき、直接水には触れず、白狼亭の端布を指に巻いた。
それを濁った水面へそっと近づける。
水は冷たい。
だが、ただ冷たいのではない。
どこか眠っているような、息を詰めているような冷たさだ。
水源の記憶が流れ込んでくる。
白い鹿が泉に口をつける。
小鳥が水を浴びる。
薬師が月根草を半分だけ採り、残りを丁寧に土へ戻す。
白狼が泉のそばで傷を休める。
宿主が小さな木杯に水を汲み、白狼亭へ持ち帰る。
そして、黒い外套の男たち。
水止め杭を打ち込む音。
泉が悲鳴を上げる。
水鹿が逃げる。
月根草が黒く枯れる。
その中で、一本だけ。
泉の奥の岩陰に、銀色の葉が見えた。
「……ある」
「何が?」
「月根草。一本だけ、まだ生きてる」
ノアとマーレンさんが同時に動いた。
泉の奥、倒れた岩の陰。
そこに、小さな草があった。
葉は黒い苔に覆われているが、裏側に銀色の光が残っている。
根元は水に触れていない。
ぎりぎりで黒い濁りを避けて、岩の隙間にしがみついている。
「よく残ってたね」
マーレンさんの声が低くなる。
薬師の顔だった。
「全部採らない。根の半分だけ。残りは祠の水と白狼の水で守る」
ノアが頷く。
「うん」
マーレンさんが小さな骨の刃を取り出した。
金属ではない。
月根草の根を傷めないためだろう。
ノアが白狼亭の端布を広げる。
俺は見守る。
手を出さない。
出したいけれど、出さない。
マーレンさんは黒い苔を丁寧に避け、根元の土を少しずつ払った。
月根草の根が見える。
細い白銀の根。
その先が、かすかに光っている。
「生きてる」
ノアの声が震えた。
マーレンさんは根の半分だけを切り、端布へ載せた。
残った根元へ、ノアが祠で供えた水を一滴落とす。
俺は白狼亭の水を小瓶から一滴だけ加えた。
白狼が離れた場所から、ふっと息を吹く。
月根草の残った葉が、少しだけ立ち上がった。
「これで、しばらくは持つ」
マーレンさんは布袋に月根草をしまった。
「目的の一つは達成だ」
その言葉で、少しだけ肩の力が抜けた。
だが、水源そのものはまだ黒い。
水止め杭も刺さったままだ。
バートが周囲を警戒しながら言う。
「で、杭はどうする?」
「今日の目的は採取と確認」
ノアが俺を見る。
「全部直さない」
「わかってる」
俺は泉を見た。
水止め杭を今すぐ抜きたい。
ものすごく抜きたい。
だが、それをやれば黒い濁りが流れ出す。
白狼亭の井戸へ。
水鹿道へ。
封じ石の方へ。
焦れば全部壊す。
俺は深く息を吸った。
「杭は抜かない。ただ、どれくらい深く入っているか見たい」
マーレンさんが目を細める。
「見るだけだね」
「見るだけです」
「本当だね」
「本当です」
もう何回目かわからない。
俺は泉の縁にある石に手を当てた。
水ではなく、石。
水止め杭が打ち込まれた時の振動を覚えている石だ。
記憶を読む。
杭は三本。
一本目は浅い。
二本目は水脈の横。
三本目が深い。
その三本目の先に、黒い袋のようなものが結びついている。
中身は、おそらく黒羽の追跡油と毒草粉。
水に少しずつ溶けるように仕込まれている。
「杭だけじゃない。深いところに袋がある」
俺が言うと、マーレンさんの顔色が変わった。
「汚染袋か。厄介だね」
「抜くには?」
「まず水を逃がす仮の道を作る。次に薬草で黒い濁りを固める。最後に杭と袋を一緒に取り出す。ここでやるには準備が足りない」
「つまり撤退?」
「そうだ」
マーレンさんはきっぱり言った。
「今日は月根草を持ち帰る。水源の状態を伝える。戻って計画を立てる」
ノアも頷いた。
「森も、今日はそこまでって言ってる」
白狼が泉を見つめた。
悔しそうだった。
水源を前にして、すぐ助けられない。
それは白狼にとっても苦しいのだろう。
俺も同じだった。
でも、ここで無理をしないことが、今日の役目だ。
その時、泉の向こうの茂みが揺れた。
全員が身構える。
黒い獣か。
灰羽の配下か。
だが、現れたのは白い影だった。
細い脚。
銀色がかった角。
濡れたように光る白い毛。
鹿だった。
ただし、普通の鹿ではない。
水鹿。
ノアが息を呑む。
「戻ってきた……」
水鹿は警戒するように俺たちを見た。
その足元は少し黒ずんでいる。
完全に無事ではない。
でも、生きていた。
水鹿は泉へ近づかず、岩陰の月根草が残った場所へ鼻を寄せた。
そして白狼を見た。
白狼も水鹿を見返す。
長い沈黙。
やがて水鹿は、白狼へ向かって静かに頭を下げた。
それから俺たちへも、ほんの少しだけ頭を下げた。
「礼を言ってる」
ノアが小さく言った。
「月根草を残したから」
水鹿は泉の黒い水を見て、悲しそうに目を細めた。
そして、水鹿道のさらに奥へ消えていった。
その姿が見えなくなった後も、誰もすぐには動けなかった。
マーレンさんが静かに言う。
「これで決まりだね」
「何がですか?」
「水源はまだ死んでいない。水鹿が戻ったなら、助けられる」
白狼が低く鳴いた。
その声は、少しだけ強かった。
俺たちは月根草を持ち、水源を後にした。
背後で、黒く濁った水が苦しそうに流れている。
今すぐには助けられない。
でも、見つけた。
原因も。
残った命も。
戻るための手順も。
白狼亭へ帰ったら、計画を立てる。
ミラさんに伝える。
宿の火と水を守りながら、次は水源そのものを助ける準備をする。
水鹿道を戻る途中、ノアがぽつりと言った。
「今日は、ルカが我慢した」
「それ、褒めてる?」
「かなり」
「なら、ありがたく受け取る」
バートが横で笑った。
「白狼亭に帰ったら、女将に褒めてもらえよ」
「たぶん叱られます」
「なんでだよ」
「少しだけ石に触った」
ノアが即座に言った。
「報告する」
「するのか」
「する」
白狼が鼻を鳴らした。
完全に報告側だった。
俺はため息をついた。
それでも、足取りは軽かった。
月根草は手に入った。
水源はまだ生きていた。
水鹿も戻った。
今日の俺たちは、全部を直さなかった。
でも、次に直すための道を見つけた。
それで十分だった。




