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第47話 水源へ向かう朝、白狼亭は全員で送り出した

 夜明け前。


 白狼亭の食堂には、まだ暗い空気と、温かい火の匂いが混じっていた。


 暖炉は静かに燃えている。

 井戸は外で小さく水音を立てている。

 厨房では、ミラさんが最後の包みを布で結んでいた。


「蜂蜜塩パン、追加です」


「昨日もかなりありましたよ」


「昨日の量では不安です」


「俺、そんなに食べますか?」


「ルカさんが食べるかどうかではなく、食べさせられるかどうかです」


 言い返せなかった。


 白狼亭に来てから、俺は自分の体力管理においてまったく信用されていない。


 横ではバートが腰の袋を確認していた。


 黒羽の追跡具を見分けるための金具。

 短い縄。

 白狼の水の小瓶。

 それから、ミラさんが無理やり持たせた蜂蜜パン。


「俺にもこんなにいるか?」


「いります」


 ミラさんは即答した。


「バートさんも無理をしそうなので」


「俺もその枠かよ」


「はい」


「……否定できねぇのが腹立つな」


 バートはぼそっと言いながらも、パンの包みを大事そうにしまった。


 ノアは窓際で光苔の瓶を確認している。


 瓶の中で、淡い緑の光がゆっくり揺れていた。


「光、強すぎない?」


 マーレンさんが覗き込む。


「水源では弱めにする」


「よし。火を嫌がる水でも、光苔なら受け入れることがある」


「うん」


 マーレンさんの薬草袋は、すでに腰と背中に分けて固定されていた。


 年齢を考えると荷物が多い気がするが、本人は平然としている。


「マーレンさん、本当に大丈夫ですか?」


 ミラさんが心配そうに聞く。


「私を年寄り扱いするなら、帰ってきてから腹薬を倍にするよ」


「すみません」


「よろしい」


 強い。


 薬師は本当に強い。


 白狼は暖炉前からゆっくり立ち上がった。


 昨夜の薬湯の効果か、脇腹の黒ずみは少し薄い。


 毛並みもふわふわしている。


 ただし本人は、そのふわふわを気に入っていないらしい。


 トマが眠そうな目をこすりながら呟いた。


「白狼様、今日も雲みたい……」


 白狼が見た。


 トマは即座に背筋を伸ばした。


「強そうな雲です!」


 食堂に小さな笑いが起きた。


 白狼は諦めたように鼻を鳴らす。


 リリは二階の手すりから顔を出していた。


 まだ本調子ではないが、昨日よりずっと元気そうだ。


「白い狼さん、行ってらっしゃい」


 白狼が階段の下まで歩き、少しだけ頭を下げた。


 リリは嬉しそうに手を振る。


「ちゃんと帰ってきてね」


 白狼は尻尾を一度だけ床に当てた。


 どん。


 約束したような音だった。


 ミラさんは俺たち一人ずつに荷を渡していった。


 俺には工具巻き、端布、蜂蜜塩パン。

 ノアには祠用のパンと水。

 マーレンさんには月根草用の布袋。

 バートには予備の縄と追跡具対策の油抜き布。


 最後に、白狼の首元へ小さな布を結んだ。


 白狼亭の端布だ。


「白狼様にも」


 白狼は最初、少しだけ嫌そうにした。


 だがミラさんが真剣な顔で、


「帰る目印です」


 と言うと、静かに受け入れた。


 白い毛並みに、小さな布が揺れる。


 それを見たノアが、少しだけ嬉しそうに目を細めた。


 エリスは食堂の中央に地図を広げ、最後の確認をした。


「目的は月根草の採取と水源の状態確認。戦闘は回避。祠では必ず礼をする。黒羽の罠を見つけたら、解除より回避優先。灰羽本人がいた場合は、即撤退」


「即撤退か」


 バートが低く言う。


「そう。勝てると思っても撤退」


「俺が突っ込みそうだと思ってる?」


「思っているわ」


「……当たってる」


 バートは悔しそうに認めた。


 エリスは次に俺を見た。


「ルカ。水源に着いても、すぐ直そうとしない」


「見て、聞いて、必要なら相談します」


「よろしい」


「俺、だいぶ教育されましたね」


「まだ途中よ」


 容赦がない。


 ミラさんが玄関の扉を開けた。


 外は薄い青の朝だった。


 東の空がわずかに明るくなり、白狼亭の看板が夜明けの光を受けている。


 宿札には、昨日の文字がまだ残っていた。


『明朝、水源へ』


 俺たちが外へ出た瞬間、札がかたんと揺れた。


 文字がゆっくり変わる。


『水源へ向かう者あり』

『火と水を守りて帰るべし』


 ミラさんがそれを見て、静かに頷いた。


「帰ってきてください」


「はい」


 俺は答えた。


 ノアも小さく頷く。


 バートは照れたように顔を逸らした。


「行ってくる」


「はい。行ってらっしゃい」


 ミラさんはそう言った。


 たったそれだけで、足が前へ出る。


 白狼が先頭に立った。


 俺たちは、白狼道へ向かって歩き始めた。


 森に入ると、空気が変わった。


 朝の森は夜ほど怖くない。


 けれど、今日はどこか張り詰めていた。


 封じ石へ向かった時の黒い重さとは違う。

 もっと静かで、深い緊張。


 水源に近い森は、こちらを見ている。


 そんな感じがした。


 ノアが先導しながら言う。


「今日は音を立てすぎないで。水源に近い森は、騒がしい人間を嫌う」


「了解」


 バートが小声で答える。


「俺、森で歩くの苦手なんだよな」


「知ってる。足音が商会」


「足音に商会とかあるのかよ」


「ある」


 ノアは即答した。


 バートは少し傷ついた顔をした。


 マーレンさんは平然と歩いている。


 足元の根も、湿った土も、まるで昔から知っている道のように避けていく。


「薬師って、みんな森歩きが上手いんですか?」


「下手な薬師は森で転んで薬草を潰す。そういう薬師は長生きしない」


「厳しい世界ですね」


「森は優しくないと言ったろう」


 白狼道へ入ると、以前より少し道がはっきりしていた。


 封じ石を守った時に戻した細い水音が、まだ足元を流れている。


 白狼の足がそこを踏むたび、草が少しだけ開く。


 完全ではない。


 でも、道として機能している。


「白狼道、前より元気」


 ノアが言った。


「白狼亭の境界杭も関係あるか?」


「あると思う。宿がちゃんと立つと、道も思い出す」


 宿と道。


 火と水。


 白狼亭と森は、思っていた以上に深くつながっている。


 しばらく進むと、星見の間で見た黒い点の場所に近づいた。


 水鹿道の曲がり角。


 小さな祠があったという場所だ。


 そこは、森の中でぽっかりと空いた小さな広場になっていた。


 倒れた石。

 苔むした台座。

 周囲には細い獣道がいくつも集まっている。


 だが、水の気配が弱い。


 本来なら獣が水を飲みに来る場所なのだろう。


 今は、静かすぎた。


「ここ」


 ノアが膝をついた。


「水鹿の祠」


「水鹿って鹿の種類か?」


 バートが聞く。


「水源の水を守る白い鹿。昔はこの辺りにいた」


「今は?」


「いない」


 ノアの声が少し沈む。


「水が黒くなってから、来なくなった」


 マーレンさんが祠の石を見た。


「これは礼をしてから進むべきだね」


 ミラさんが用意してくれた小さなパンと水を、ノアが取り出した。


 祠の台座に置く。


 白狼も静かに頭を下げた。


 俺たちも続いた。


 バートだけが少しぎこちなかったが、それでも真面目に頭を下げている。


「水を借ります」


 ノアが森の言葉で何かを呟いた。


 すると、祠の奥から、ちょろ、と水音がした。


 本当に小さな音。


 でも、確かにあった。


「返事した」


 ノアの耳が立つ。


 次の瞬間、祠の倒れた石がかすかに光った。


 その光の中に、細い亀裂が見える。


 そして亀裂の奥に、黒い泥が詰まっていた。


「これも黒牙か?」


 俺が聞くと、マーレンさんが顔をしかめた。


「黒牙そのものではない。黒羽の追跡油に近いね。誰かが祠を汚した」


「灰羽の連中?」


 バートが近づき、匂いを確認する。


「……黒羽の油だ。道標を潰す時に使うやつ。これを塗ると、動物も人も道を間違える」


「水鹿道がねじれた原因の一つか」


 俺は祠を見た。


 直したい。


 かなり直したい。


 でも、マーレンさんとノアと白狼の視線が飛んできた。


「触る前に聞く」


 ノアが言う。


「聞きます」


 俺は祠の前に膝をついた。


「祠。少しだけ、詰まったものを取ってもいいか?」


 自分で言っていて、かなり変だと思う。


 だが祠の水音が、ちょろ、と返った。


 ノアが頷く。


「いいって」


「本当にわかるのか?」


 バートが小声で聞く。


「わかる」


 ノアは真顔だ。


 俺は祠に直接触れず、白狼亭の端布を使って黒い油の詰まった部分を拭った。


 マーレンさんが薬草水を数滴垂らす。


 ノアが祠の台座に置いた水を少し流す。


 俺は最後に、ごくわずかだけ修復の光を流した。


「思い出せ。ここは道を迷わせる場所じゃない」


 祠の亀裂が完全に直るわけではない。


 でも、黒い泥が浮き、端布に吸われる。


 水音が少し強くなった。


 ちょろちょろ。


 森の奥から、風が吹いた。


 その風の中に、かすかに獣の匂いが混じる。


 ノアが目を見開いた。


「水鹿の匂い」


「戻ったのか?」


「まだ近くにはいない。でも、道が少し開いた」


 白狼が祠の奥を見た。


 そこに、今まで見えなかった細い道が現れていた。


 草が左右に分かれ、低い木の根の間を抜ける道。


 水鹿道。


 水源へ続く道だ。


 バートが息を吐いた。


「道って、こんなふうに出るのかよ」


「森の道は、使っていい相手にだけ見える」


 ノアが言った。


「今、少し許された」


 マーレンさんは祠に置いたパンを見て頷く。


「礼を忘れなくてよかったね」


「宿札が言ってましたから」


「働き者の札だ」


 俺たちは水鹿道へ入った。


 ここから先は、さらに静かだった。


 木々の葉は濃く、足元には湿った苔。

 空気は冷たく、白狼の水の小瓶が腰でわずかに震えている。


 水源が近い。


 そう感じた。


 だが同時に、黒い気配も近づいている。


 封じ石のような激しいものではない。


 もっと水に溶けた毒のような、静かな黒さ。


 ノアが立ち止まる。


「聞こえる」


「何が?」


「水が、苦しんでる音」


 白狼が低く鳴いた。


 マーレンさんが薬草袋を握り直す。


 バートが周囲を警戒する。


 俺は工具巻きに手を添えた。


 触るな。


 急ぐな。


 見ることから。


 そう何度も自分に言い聞かせる。


 白狼亭へ帰るために。


 水鹿道の奥で、黒く濁った水音がした。


 水源は、もう近い。

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