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第46話 留守番の地図を作ったら、宿も一緒に戦う気だった

 水源へ向かう前日。


 白狼亭は、朝から戦支度のような、遠足前のような、なんとも言えない空気に包まれていた。


 マーレンさんは薬草袋を広げている。

 ノアは光苔の瓶を磨いている。

 バートは黒羽の罠について思い出せる限り紙に描いている。

 エリスは手紙の写しと証拠の配置を見直している。

 ガランさんとダリオさんは、裏口と西側の窓を補強している。


 そしてミラさんは、厨房で大量の保存食を作っていた。


「これは行く人用。これは残る人用。これはセナさん用。これはサナさんとリリちゃん用。これは白狼様用」


「白狼にも専用があるんですか?」


「あります」


 ミラさんは当然のように答えた。


「昨夜の薬湯、頑張ってくださいましたから」


 暖炉前の白狼が、ぴくりと耳を動かした。


 頑張ったというより、マーレンさんに負けたというべきだが、そこは黙っておく。


 トマが白狼のそばで小声で言った。


「白狼様、今日もお風呂?」


 白狼が片目を開けた。


 トマは即座に姿勢を正す。


「俺は何も言ってません」


 言っていた。


 マーレンさんが食堂の奥から言う。


「今日も入るよ。水源へ行く前に、傷を落ち着かせる」


 白狼の尻尾が不満げに床を叩いた。


 どん。


 リリが二階から顔を出して、くすっと笑う。


「白い狼さん、お風呂きらいなの?」


 白狼は固まった。


 子供に弱い。


 ものすごく弱い。


 マーレンさんがにやりと笑った。


「嫌いでも入るんだよ。強い子だからね」


 白狼は、完全に逃げ道を失った顔をした。


 食堂に柔らかな笑いが広がる。


 こういう時間があると、明日危険な場所へ行くのが嘘みたいに思える。


 けれど、現実は変わらない。


 水源へ行く。


 白狼の傷を抑える月根草を探し、白狼亭の井戸と森の水脈を確かめる。


 そして、おそらく黒牙の濁りとも向き合う。


 失敗すれば、白狼亭の水も、白狼の傷も、森の浅い水も危うくなる。


 俺は食堂のテーブルに広げられた紙を見た。


 エリスが作った「留守番の地図」だ。


 宿の見取り図。

 四本の境界杭。

 井戸。

 暖炉。

 地下保管庫。

 朝焼けの部屋。

 裏口。

 西側の窓。

 星見の間。


 全部に印がついている。


「留守番の地図って、すごい名前ですね」


「実際に留守番も戦力だからよ」


 エリスが言った。


「行く人だけが重要じゃない。水源組が戻るまで、白狼亭を守る側が崩れたら全部終わる」


「それはそうですが」


「だから、残る人の動きも決めるわ」


 エリスは指で地図を叩いた。


「ミラは厨房と井戸。水に異変が出たらすぐ記録。井戸が濁ったら使用停止。暖炉の火が弱ったら、白狼亭の火を守る」


 ミラさんは真剣に頷いた。


「はい」


「ガランさんとダリオさんは扉と窓。境界杭が鳴ったら、まず侵入経路の確認。無理に外へ出ない」


「了解だ」


「わかりました」


「ハーゲンさんは外部対応。王都や商会を名乗る者が来ても、宿内へは入れない。用件は紙で受け取る」


「承知しました」


「セナは休む」


 セナが長椅子で片手を上げた。


「異議あり。私、見張りくらいなら」


 ミラさん、マーレンさん、ノア、白狼の視線が一斉に刺さる。


 セナは即座に手を下げた。


「休みます」


「よろしい」


 マーレンさんが満足そうに頷いた。


 エリスは続ける。


「サナさんとリリちゃんは朝焼けの部屋。無理に動かさない。もし危険が迫ったら、朝焼けの部屋の白狼絵に水を一滴垂らす」


「それでどうなるんですか?」


 俺が聞くと、エリスは俺を見る。


「あなたが昨日、部屋を守る記憶を戻したでしょう?」


「少しだけです」


「その“少しだけ”が働く可能性がある。あの部屋は、弱った客を守ることを思い出している」


 マーレンさんも頷く。


「悪くない判断だね。部屋に役目を思い出させるのは、下手な結界より馴染む」


 褒められたのか、また無茶を指摘されたのか、微妙なところだった。


 ミラさんが地図を見つめて言う。


「私たちも、ちゃんと動けるようにしておきます」


「ええ」


 エリスは少しだけ柔らかい声になった。


「待つだけじゃない。守って待つの」


 その言葉に、ミラさんは静かに頷いた。


 昼前、境界杭の確認に出た。


 今回、俺は本当に見るだけだ。


 触らない。


 光らせない。


 ミラさんにも、ノアにも、白狼にも、マーレンさんにも言われた。


 最近、俺は修繕士というより、危険物扱いされている気がする。


 玄関の杭は安定していた。


 白狼亭に来る客を見分けるように、淡い気配を放っている。


 井戸の杭も、水音と同じ調子で静かに鳴っていた。


 裏庭の杭は、ロザおばさんの鶏小屋の近くで、やけに元気だった。


「卵の守りも兼ねてるね」


 ロザおばさんが満足そうに言う。


「境界杭の役割、増えてません?」


「卵は宿の朝を守るからね」


 もう誰も反論しなかった。


 最後に、西の道側の杭を見る。


 昨日一番傷んでいた場所だ。


 新しい木に古い芯を組み込み、白狼の息と井戸水で起こした杭。


 今はしっかり立っている。


 だが、周囲の空気は少し緊張していた。


「ここはまだ狙われる」


 ノアが言った。


「西の道に黒羽の匂いが残ってる」


「今夜来る可能性は?」


「ある。でも境界杭が鳴る」


「鳴ったら外に出ない」


 エリスが釘を刺す。


「追いかけるより、守る方を優先する」


 バートは少し苦い顔をしたが、頷いた。


「わかってる」


「本当に?」


「……白狼亭に来てから、本当にって言葉を何回言わされるんだ」


「必要な人が多いからよ」


 エリスがさらっと言う。


 俺とバートは、少しだけ顔を見合わせた。


 どうやら同類扱いらしい。


 午後は荷造りだった。


 マーレンさんの薬草袋。

 ノアの光苔瓶。

 バートの罠確認用の黒羽金具。

 俺の工具巻き。

 白狼亭の端布。

 蜂蜜塩パン。

 白狼の水の小瓶。

 縄。

 折り畳みの木杭。

 小さな布袋。


「布袋は何に?」


 俺が聞くと、マーレンさんが答えた。


「月根草を入れる。金属の箱に入れると根が縮む。革袋でも匂いがこもる。白狼亭の端布が一番いい」


「そんなに繊細なんですか」


「薬草は繊細だよ。雑に扱う薬師は雑に人を死なせる」


 重い。


 マーレンさんの言葉は、いちいち重い。


 ノアも真面目に聞いていた。


「月根草は根を全部取らない。半分残す」


「当たり前だよ」


 マーレンさんが頷く。


「採り尽くす奴は薬師じゃない。盗人だ」


 その言葉に、ノアの耳が少しだけ柔らかくなった。


 彼女はマーレンさんを完全に信用し始めている。


 人間嫌いの獣人少女が、少しずつ人間を選んで信じるようになっている。


 それも白狼亭の修復の一部なのかもしれない。


 夕方前、星見の間で最後の道確認をした。


 丸窓から差す光が、床の術式を淡く照らしている。


 星図の水源周辺は、昨日より少しだけ黒さが薄いように見えた。


「境界杭が戻ったから?」


 ミラさんが尋ねる。


「宿側の水が安定した影響かもしれません」


 俺は床を見た。


 触らない。


 見るだけ。


 水源へ向かう道は、細い光の線で示されている。


 途中で一箇所、黒い点がある。


「ここ、何でしょう」


 俺が指すと、ノアが覗き込んだ。


「水鹿道の曲がり角。昔、小さな祠があった」


「祠?」


「水を飲みに来る獣のための場所。人間は触らない」


 マーレンさんが頷く。


「そこが黒いなら、水源だけじゃなく、道中も汚れているね。無視しない方がいい」


 エリスがすぐに紙へ書く。


「中間地点、祠。確認対象に追加。ただし修復は状況次第」


「俺を見ながら言いましたね」


「言ったわ」


 隠さない。


 床の術式が、ふっと光った。


 そして短い文字が浮かんだ。


『祠に礼を忘るべからず』


 ノアが真剣に頷く。


「大事」


「何を持っていけばいい?」


 ミラさんが聞く。


「水とパン。少しでいい」


「では、用意します」


 白狼亭のパンが、ついに森の祠への供え物になるらしい。


 夕食後、白狼の二度目の薬湯が始まった。


 白狼は昨日よりも諦めが早かった。


 湯殿の前で少しだけ抵抗したが、リリが二階から、


「白い狼さん、がんばって」


 と言った瞬間、静かに湯へ入った。


 子供に弱すぎる。


 マーレンさんは満足げだった。


「よし。今日は昨日より傷の黒さが薄い」


 ノアがほっとする。


「月根草があれば、もっと眠る?」


「うまくいけばね」


「うまくいかせる」


「その意気だ。ただし焦るな」


「うん」


 俺は湯殿の入口から白狼を見ていた。


 薬草の匂い。

 湯気。

 白狼の水。

 ぬるい湯の音。


 白狼亭の湯殿は、完全に医療施設みたいになってきている。


 でも、それも宿の役目なのだろう。


 旅人を泊める。


 疲れを取る。


 傷を癒す。


 次の朝まで持たせる。


 その延長線上に、今の薬湯がある。


 白狼は目を閉じていた。


 昨日より楽そうだ。


 尻尾もあまり不満げではない。


 トマが小声で言う。


「白狼様、ちょっと気持ちよさそう」


 白狼の耳が動いた。


 トマは即座に言った。


「気のせいです」


 学習が早い。


 夜。


 すべての荷が食堂のテーブルに並んだ。


 ミラさんが一つずつ確認する。


「薬草袋、三つ。光苔瓶、二つ。白狼の水、小瓶四つ。蜂蜜塩パン。祠用の水とパン。端布。縄。工具巻き。黒羽確認用の金具。月根草用の布袋」


「抜けは?」


 エリスが尋ねる。


 マーレンさんが言った。


「腹薬」


「あります」


「予備の腹薬」


「あります」


「よし」


 腹への信頼がすごい。


 白狼は暖炉前で寝ている。


 薬湯のあとだからか、かなり深く眠っていた。


 ノアがそのそばに座り、小さく言った。


「明日、白狼様を無理させない」


「そうだな」


「ルカも」


「俺も?」


「うん。二人とも無理する」


「白狼と並べられるのは光栄だけど、少し困るな」


「困って」


 ノアは真顔だった。


 俺は小さく笑った。


「わかった。困っておく」


 その時、宿札が外でかたんと鳴った。


 見に行くと、文字はこう変わっていた。


『備え、整いつつあり』


 そして、その下にもう一行。


『明朝、水源へ』


 ミラさんはその文字を見て、静かに息を吸った。


「明日ですね」


「はい」


「怖いです」


「俺も怖いです」


「でも、待っています」


 彼女は俺を見る。


「白狼亭で、火と水を守って待っています」


 俺は頷いた。


「帰ってきます」


「はい。帰ってきてください」


 何度目かの約束。


 でも、今回は少し重かった。


 水源へ向かう。


 白狼の傷と、井戸の完全な回復と、森の水のために。


 夜の白狼亭は、荷造りを終えて静かに眠ろうとしていた。


 だがその静けさは、何もしない静けさではない。


 備えた者だけが持つ、深い静けさだった。

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