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第45話 水源へ行く前に、白狼亭は荷造りを覚えた

 翌朝、白狼亭は出発前の宿になっていた。


 まだ誰も水源へ向かうとは言っていない。


 いや、正確には言っている。


 宿札が勝手に言った。


『次に目指すは、水源』


 あの一文のせいで、食堂にいる全員が「まあ、そうなるよな」という顔をしていた。


 ただし、今回は誰もすぐ飛び出そうとしなかった。


 理由は簡単だ。


 マーレンさんがいるからだ。


「水源へ行く?」


 朝食後、薬草茶を飲みながらマーレンさんは言った。


「行くのはいい。だが、今日行くと言ったら全員ここに正座だよ」


「正座?」


 トマが小声で聞いた。


「長く座るやつだ。足がしびれる」


「こわ……」


 トマは白狼の後ろへ隠れた。


 白狼は迷惑そうだった。


「まず確認する」


 マーレンさんはテーブルの上に薬草袋を並べた。


「白狼様の傷は昨夜より少し落ち着いた。だが、黒牙の棘は残っている。水源の月根草があれば抑えられる可能性がある。ただし、水源そのものが黒牙に濁されているなら、採りに行くだけで危険だ」


 ノアが頷く。


「水源は白狼道の奥。封じ石より少し手前から分かれる道がある。でも、今は道がねじれてる」


「つまり案内役はノア必須」


 エリスが紙に書き込む。


「白狼様も必須。ルカも水脈を見るために必要。マーレンさんは?」


「行く」


 即答だった。


 ミラさんが驚く。


「でも、マーレンさんもお疲れでは」


「薬草の場所へ薬師が行かないでどうする。若いのだけで行かせたら、毒草と薬草を間違えて全員腹を壊す」


「全員……」


「森は優しくないよ。特に水源はね」


 マーレンさんは、ノアを見る。


「森の番人。月根草の見分けは?」


「葉の裏が銀色。夜になると根が光る。黒い水の近くだと偽物が生える」


「よし。知識はある。だが実地で見るまでは油断しない」


「うん」


 ノアが素直に頷いた。


 マーレンさん相手だと、ノアも反発が少ない。


 森を軽く扱わない人間は、ノアの中で少し別枠らしい。


「で、ルカ」


「はい」


「水源に着いても、すぐ手を突っ込むんじゃないよ」


「まだ何もしていません」


「顔がしてる」


「俺の顔、そんなにわかりやすいですか?」


 食堂にいた全員が頷いた。


 白狼まで鼻を鳴らした。


 ひどい。


「水源は井戸より繊細だ」


 マーレンさんは続けた。


「井戸は宿の中へ来た水。水源は森の始まりだ。そこを乱せば、白狼亭の井戸も、白狼道も、浅い水場も全部揺れる」


「つまり、直すというより、状態を見るのが先ですね」


「そうだ。見る。嗅ぐ。水を少し採る。月根草を確認する。余裕があれば黒い濁りの原因を探る。封じ石みたいに、その場で全部どうにかしようとしない」


「わかりました」


「本当に?」


 ミラさん、ノア、白狼の視線が刺さる。


「本当に」


 最近、このやり取りが儀式みたいになっている。


 エリスは紙に線を引いた。


「行動目的を整理するわ。第一目的は月根草の採取。第二目的は水源の状態確認。第三目的は黒牙の汚染経路の調査。戦闘は避ける。灰羽や黒羽の追手に遭遇した場合は撤退優先」


「撤退優先……」


 バートが腕を組む。


「灰羽の連中がいたら、放って帰るのか?」


「そうよ」


 エリスは即答した。


「目的は敵を倒すことではない。白狼様の傷を抑え、白狼亭の水を守ること。勝てそうに見えても、そこで消耗したら負け」


 バートは少し不満そうだったが、反論しなかった。


 ルグラン商会にいた彼は、敵に対する怒りがある。

 でも同時に、敵の嫌らしさもよく知っている。


「追手が道に罠を置くかもしれねぇ」


「だからあなたも行く候補」


 エリスが言う。


 バートは目を丸くした。


「俺も?」


「追跡具、黒羽の印、商会の癖を見分けられる。戦力というより、罠を見る役」


「……役に立つなら行く」


 その声には、少しだけ嬉しさが混じっていた。


 使い捨ての下働きではなく、必要な役として呼ばれる。


 それは彼にとって大きな違いなのだろう。


 ガランさんは手斧を肩に担いで言った。


「俺は?」


「今回は留守番」


 エリスが言う。


「宿の境界杭を直したばかりで、扉と裏口もまだ弱い。ガランさんとダリオさんが宿に残らないと、守りが崩れる」


「まあ、それはそうだな」


 ガランさんは不満を見せずに頷いた。


「外へ行く連中が帰る場所を残すのも仕事だ」


 ダリオさんも頷く。


「私は朝焼けの部屋と裏口の補強を進めます。サナとリリもいますし」


 サナさんはまだ完全に回復していない。


 リリは少し元気になったが、母親のそばを離れたがらない。

 セナもまだ傷が癒えていない。


 守るべき客は多い。


 白狼亭を空にするわけにはいかない。


「私は?」


 ミラさんが静かに言った。


 全員が彼女を見る。


 エリスは少し考えた。


「ミラは基本的に留守番。女将が宿を空けるべきではないわ」


「でも、水源は白狼亭の井戸とつながっています」


「だからこそ、宿側で井戸を見ていてほしい」


 マーレンさんが言った。


「水源に何かあれば、井戸に反応が出る。女将が井戸を見て、必要なら火と水を整える。これは宿に残る者にしかできない」


 ミラさんは井戸の方を見た。


「……私は、帰る場所を守るんですね」


「そう」


 エリスが頷く。


「今回もそれが一番大事」


 ミラさんは少しだけ寂しそうに、でも納得したように頷いた。


「わかりました。白狼亭で待ちます」


 その言葉に、暖炉の火がぱちりと鳴った。


 白狼亭も、それでいいと言っているようだった。


 午前中は、完全に準備の時間になった。


 マーレンさんは薬草袋を三種類に分けた。


「これは怪我用。これは黒牙の霧を吸った時用。これは腹を壊した時用」


「腹用、多くないですか?」


 俺が聞くと、マーレンさんは真顔で言った。


「森で一番怖いのは腹だよ。歩けなくなる」


 重い教訓だった。


 ノアは光苔の瓶を点検し、森の香草を束ねている。


「火は少なめ。水源では火の匂いが強すぎると、水が隠れる」


「水が隠れる?」


「そう」


 もう普通に受け入れている自分がいる。


 バートは黒羽の追跡具を見分けるため、昔の記憶を紙に書き出していた。


 羽の形。

 油の匂い。

 鈴の音。

 罠を置く場所。


 エリスがそれを整理する。


「あなた、かなり覚えているじゃない」


「覚えないと殴られたからな」


 軽い言い方だった。


 でも、食堂の空気が少しだけ重くなる。


 バートはすぐに気まずそうに頭をかいた。


「悪い。暗くするつもりじゃなかった」


「謝らなくていいわ」


 エリスは淡々と言った。


「それも証言になる。ルグラン商会が下働きをどう扱っていたかの」


「……何でも証拠にするんだな」


「そうよ。壊されたものは、黙っていなければ証拠になる」


 その言葉に、バートは少し黙った。


 それから、黒羽の追跡具の形をもう一つ紙に描いた。


「じゃあ、これも書いとく。灰羽の側近が使ってた印だ」


「助かるわ」


 昼前、俺は工具巻きを整理していた。


 するとミラさんが小さな袋を持ってきた。


「これを」


「蜂蜜パンですか?」


「はい。今回は多めです」


「俺、そんなに倒れそうですか?」


「倒れる前に食べる用です」


 反論できない。


 袋の中には、小さく切った蜂蜜塩パンがいくつも入っていた。


 さらに白狼の水を入れた小瓶。


 それから、見覚えのある小さな布。


「これは?」


「白狼亭の端布です。厨房で使っていた古い布を洗って、井戸水で清めました。怪我をした時や、何かを包む時に」


 布には、白狼亭の小さな刺繍があった。


 雑ではない。


 丁寧だ。


「ミラさんが?」


「昔、夫の服を直す時に覚えました。上手くはありませんけど」


「十分です」


 俺は布を受け取った。


 白狼亭の端布。


 ただの布なのに、持っているだけで帰る場所を少し持ち歩ける気がした。


「ありがとうございます」


「それと」


 ミラさんは少し真剣な顔になった。


「水源で無理をしそうになったら、この布を見てください」


「布を?」


「白狼亭へ帰ってきてから直すものが、まだたくさんあります」


 彼女は小さく笑った。


「厨房の棚も、客室の壁も、屋根も、湯殿も、宿札の予備も」


「多いですね」


「はい。だから、帰ってきてください」


 胸の奥が、静かに温かくなった。


 帰ってきてください。


 この言葉は何度聞いても、慣れない。


 でも、聞くたびに足元が強くなる。


「必ず」


 俺は答えた。


 ミラさんは頷いた。


 その時、白狼が近づいてきた。


 昨夜の薬湯のおかげか、毛並みはいつもよりふわふわしている。


 本人はそれを不本意に思っているらしいが、トマが朝から何度も「雲」と言っていた。


 白狼は俺の工具巻きに鼻先を寄せ、ふっと息を吹いた。


 工具巻きの革に、淡い白い紋が一瞬浮かぶ。


「これは?」


 ノアが言った。


「白狼様の道守り。水源までは道が弱いから」


「白狼、ありがとう」


 白狼は鼻を鳴らした。


 礼より働け、という顔だった。


 ただ、脇腹の傷は昨日より少し落ち着いて見える。


 マーレンさんの薬湯は、本人が嫌がっただけで効果は確かだった。


 午後、星見の間で水源の道を確認することになった。


 屋根裏へ上がると、丸窓から薄い昼の光が入っていた。


 床の術式は、以前より少しはっきりしている。


 エリスが星図を広げる。


 ノアが水源の場所を指差す。


「ここ。封じ石の手前から北へ曲がる。白狼道じゃなくて、水鹿道」


「水鹿道?」


「水を飲みに行く鹿の道。昔は安全だった。でも今は黒い」


 マーレンさんが目を細める。


「水源が濁ると、最初に鹿が来なくなる。次に小鳥が減る。最後に木が黙る」


「木が黙る……」


 俺は床の術式に手を近づけた。


 触れない。


 見るだけ。


 水源のあたりは、星図の上で薄く黒ずんでいる。


 封じ石ほど濃くはない。


 だが、じわじわ広がるような黒さだった。


「黒牙の本体から直接というより、水脈の途中に何かが詰まっている感じがします」


「それを見に行く」


 ノアが言う。


「でも、取れるとは限らない」


「わかってる」


 今度は、俺からそう言った。


 ノアが少し驚いた顔をする。


「本当に?」


「本当に」


「……なら、いい」


 星見の間の丸窓から風が入った。


 床の術式が、淡く光る。


 そして宿札と同じように、床の光が文字を描いた。


『急がず、備えよ』


 エリスが少し笑った。


「宿全体が同じ意見ね」


「そこまで信用されてないのか、俺は」


「主にあなた向けでしょうね」


 否定できない。


 結局、水源へ向かうのは明後日の朝と決まった。


 明日は一日、準備と宿の補強。


 白狼の傷をもう一晩薬湯で整え、セナの熱を見て、サナさんの容体も確認する。


 手紙の再送経路も考える。


 そして、境界杭をもう少し安定させる。


 やることは山ほどある。


 でも、不思議と焦りは薄かった。


 白狼亭は、少しずつ学んでいる。


 戦う前に食べること。


 出かける前に荷造りすること。


 守る人と行く人を分けること。


 無理をせず、戻る道を残すこと。


 夜、ミラさんのスープを飲みながら、マーレンさんが言った。


「いい宿になってきたね」


 ミラさんが照れる。


「まだ壊れているところばかりです」


「だからいいんだよ」


 マーレンさんはスープを一口飲む。


「壊れていると、自分だけで立っているんじゃないとわかる。支える者が必要になる。支えられることを覚えた宿は、強い」


 その言葉を聞いて、白狼が暖炉前で静かに目を閉じた。


 宿札は外で揺れていた。


『次に目指すは、水源』


 その下に、新しい一行が浮かぶ。


『ただし、腹ごしらえを忘るべからず』


 トマがそれを見て叫んだ。


「宿札、マーレンさんみたいなこと言ってる!」


 マーレンさんは鼻で笑った。


「わかってる札だね」


 食堂に笑いが起きた。


 明後日、水源へ向かう。


 危険は大きい。


 黒牙も、灰羽も、王都も、まだこちらを見ている。


 でも今夜の白狼亭には、温かいスープと、薬草の匂いと、荷造りの音があった。


 急がず、備える。


 それもまた、壊れたものを直すための大事な手順だった。

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