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第44話 白狼様の薬湯は、本人がいちばん嫌がった

 その夜、白狼亭では小さな揉め事が起きた。


 原因は、白狼様の薬湯である。


「入らない」


 そう言ったわけではない。


 白狼は言葉を話さない。


 けれど、湯殿の前でぴたりと足を止め、金色の瞳でマーレンさんを見下ろしたその顔は、完全にそう言っていた。


 入らない。


 絶対に。


 神狼としての威厳を守るためにも、薬草まみれの湯に浸かるわけにはいかない。


 そんな顔だった。


「白狼様」


 マーレンさんは腰に手を当てた。


「傷を診せたね」


 白狼は鼻を鳴らした。


「診せたなら、治療を受ける。薬師の前では神狼も患者だよ」


 強い。


 あまりにも強い。


 ノアが隣で感動したように耳を立てている。


「マーレン、すごい」


「白狼様に真正面から説教できる人、初めて見ました」


 俺が呟くと、ミラさんも小さく頷いた。


「私もです」


 白狼は不満そうに俺たちを見た。


 助けろ、という目ではない。


 余計なことを言うな、という目だ。


 だが今回は、誰も味方しなかった。


 昨日、白狼はセナの救出でかなり無理をした。

 封じ石の傷もまだ深い。

 黒牙の古い霧が脇腹に残っている以上、手当てを先延ばしにするわけにはいかない。


 マーレンさんは、薬草の束を湯殿の桶に入れながら言った。


「白狼の水を湯に混ぜる。苦根草、月葉、眠り苔を少し。黒牙の傷には熱すぎる湯は駄目だ。ぬるめで、長く」


「白狼様、長湯は嫌い」


 ノアが言った。


「嫌いでも入る」


 マーレンさんは即答した。


 白狼の耳が伏せた。


 神狼が負けている。


 最終的に、白狼は渋々湯殿へ入った。


 足先から湯に触れた瞬間、びくりと肩を揺らす。


 熱いわけではない。


 たぶん、薬草の匂いが嫌なのだ。


 湯殿の中には、森の苦みと白狼の水の澄んだ匂いが混じっていた。


 マーレンさんは平然と指示を続ける。


「ノア、傷の周りに薬草布。ミラ、湯が冷めたら少しずつ足して。ルカ、湯殿の壁に手を当てるなよ」


「まだ何もしていません」


「顔がしていた」


 薬師の観察眼が鋭すぎる。


 俺は両手を上げた。


「見ているだけです」


「それでいい。今夜は湯殿そのものが白狼様を支える。あんたが余計に手を出すと、湯と火の流れが乱れる」


「わかりました」


 そう言われると、素直に引ける。


 王宮では、壊れたものがあれば俺が直すしかなかった。


 でもここでは違う。


 薬師には薬師の直し方がある。

 女将には女将の支え方がある。

 森の番人には森の知識がある。


 修繕士が全部抱える必要はない。


 白狼は湯の中でじっとしていた。


 いや、じっとしているように見せている。


 尻尾の先だけが、ものすごく不満げに揺れている。


 トマが湯殿の入口から顔を出した。


「白狼様、お風呂嫌いなの?」


 白狼がぎろりと見た。


 トマは即座に引っ込んだ。


「ごめんなさい!」


 学習が早い。


 ミラさんが苦笑しながら湯を足す。


「白狼様、少しだけ我慢してくださいね」


 白狼はミラさんには怒らなかった。


 代わりに、深いため息のように鼻を鳴らした。


 マーレンさんが傷の状態を見て、眉を寄せる。


「やはり、奥に黒い棘が残っているね」


「棘?」


 ノアの声が硬くなる。


「黒牙の楔が封じ石に打ち込まれた時、その欠片が白狼様の傷に入った。小さいが、根が深い」


「取れるのか?」


 俺が聞くと、マーレンさんは首を振った。


「今は無理だ。無理に抜けば、傷が開く。封じ石の奥に残る本体とつながっているからね」


「封じ石を完全に戻さないと、白狼の傷も治らない?」


「そういうことだよ」


 湯殿の空気が重くなった。


 黒牙は奥へ戻した。


 けれど終わっていない。


 封じ石も応急処置。

 白狼の傷も応急処置。


 灰羽は逃げ、王都も動き始めている。


 まだまだ先は長い。


 マーレンさんは薬草布を取り替えながら続けた。


「ただし、傷を抑える方法はある」


「何ですか?」


「水源の月根草だ」


 ノアがはっと顔を上げる。


「白狼道の奥の水源に生える草」


「ああ。月の光を受けた水辺にしか生えない。黒牙の霧を薄め、楔の根を眠らせる」


「でも、水源はまだ黒い」


「だからすぐには行けない。行くなら準備がいる」


 俺は思わず言った。


「水源を戻せば、井戸も森の浅い水も、白狼の傷も進むんですね」


「そうだ」


 マーレンさんが俺を見た。


「だが、焦るんじゃないよ。あんたは“つながった”と思うと、すぐ全部直そうとする顔をする」


「そんな顔をしていますか?」


 ミラさん、ノア、白狼が同時に頷いた。


 白狼まで。


「……気をつけます」


「気をつけるだけじゃ足りない。計画を立てる」


 マーレンさんはきっぱり言った。


「水源へ行くなら、薬草、縄、灯り、境界杭の補強、白狼様の体力、セナの回復、宿の守り。全部整えてからだ」


「つまり、今夜は?」


「白狼様を湯に漬ける」


 白狼の尻尾が、ばしゃんと湯を跳ねさせた。


 抗議だった。


 だがマーレンさんは一切動じない。


「暴れると長くするよ」


 白狼はぴたりと止まった。


 強い。


 やはり薬師は強い。


 その夜、白狼の薬湯は長く続いた。


 ミラさんは湯加減を見て、ノアは薬草布を替え、マーレンさんは傷の黒さを確かめた。


 俺は少し離れて、湯殿の壁を見ていた。


 触らない。


 見るだけ。


 だが、見ているとわかる。


 湯殿も白狼を支えようとしていた。


 昔、この湯殿は旅人の疲れを癒した。

 毒に当たった薬師を温めた。

 凍えた商人の手足を戻した。

 森で傷ついた者を、何度も受け入れた。


 今は、白狼を癒そうとしている。


 湯殿の壁から、かすかな温かさが返ってくる。


 俺が何かしなくても、白狼亭は自分の役目を思い出し始めている。


「いい湯殿だね」


 マーレンさんが言った。


「昔より少し頼もしい」


「昔をご存じなんですね」


 ミラさんが尋ねる。


「ああ。先代の頃、師匠がここで命を拾った。白狼亭はね、昔から“治しきれないものを、次の朝まで持たせる宿”だった」


「治しきれないものを……」


「旅人の怪我も、商人の疲れも、森の毒も、心の折れた者も。完全に治す場所ではない。でも、次の朝まで生きる力を戻す場所だった」


 その言葉が、妙に胸に残った。


 白狼亭は、すべてを完全に治す場所ではない。


 でも、夜を越えさせる。


 朝まで守る。


 それは宿として、とても大きな役目だ。


 白狼が湯の中で静かに目を閉じた。


 さっきまでの不満げな様子が少し薄れている。


 薬草が効いてきたのだろう。


 脇腹の黒い煙も、前より淡い。


 ノアがほっと息を吐いた。


「白狼様、少し楽そう」


「だから言ったろう」


 マーレンさんは満足げに頷いた。


「患者は薬師の言うことを聞くものだ」


 白狼は目を閉じたまま、聞こえないふりをした。


 湯殿から出た白狼は、ふわふわだった。


 白い毛並みが湯気を含み、いつもよりさらに大きく見える。


 トマが食堂で目を輝かせた。


「白狼様、雲だ!」


 白狼がじろりと見る。


「すみません、でも雲です!」


 怒られながらも正直だった。


 ミラさんが大きな布で白狼の毛を拭く。


 ノアも手伝う。


 白狼は不満そうだが、眠気が勝っているらしい。


 暖炉前へ戻ると、そのままどさりと伏せた。


 いつもより深く息を吐く。


 マーレンさんはその様子を見て頷いた。


「今夜はよく眠れる。明日の朝、傷の色を見る」


「ありがとうございます」


 ミラさんが頭を下げる。


「礼は食事でいい」


「もちろんです」


 その言葉に、マーレンさんは満足そうに笑った。


 白狼亭では、報酬がスープになることが多い。


 エリスが帳場でしっかり記帳しているけれど。


 その夜、俺たちは食堂で遅い夕食を取った。


 セナはまだ長椅子で眠っている。

 サナさんとリリは二階。

 白狼は暖炉前で本格的に寝ている。


 ミラさんのスープは、少し苦い薬草が入っていた。


「これは?」


「マーレンさんが、みんな少し疲れているからって」


「薬膳スープだね」


 マーレンさんが言う。


「不味い薬は続かない。うまい薬にしな」


 ロザおばさんが卵を落としながら頷いた。


「卵を入れればだいたい何とかなるよ」


「卵は万能じゃないです」


 俺が言うと、ロザおばさんは真剣な顔で言った。


「万能に近い」


 強い信念だった。


 食後、宿札がかたんと鳴った。


 見に行くと、文字が変わっている。


『治すべき傷、今宵は眠る』


 その下に、もう一行。


『次に目指すは、水源』


 俺はそれを読んで、思わず息を吐いた。


「次の目的地が出ましたね」


 隣に来たミラさんが、少しだけ不安そうに頷いた。


「水源……森の奥なんですよね」


「はい」


「怖いですね」


「怖いです」


「でも、行くんですよね」


「準備してから」


 俺がそう言うと、ミラさんは少し驚いた顔をした。


 それから、嬉しそうに笑う。


「ちゃんと準備してから、ですね」


「マーレンさんにも言われましたし」


「私も言います」


「ノアも言うでしょうね」


「白狼様も、たぶん」


 たぶん。


 ミラさんまで移っている。


 俺は笑った。


 白狼亭には、次の目的ができた。


 水源。


 白狼の傷を眠らせ、井戸を完全に戻し、森の浅い水を助ける場所。


 そこへ行くには、まだ準備が足りない。


 けれど、急がない。


 白狼亭は今、夜を越えるための力を取り戻している途中だ。


 壊れたものを一つずつ直す。


 怪我人を寝かせる。


 薬湯を沸かす。


 手紙を守る。


 境界を整える。


 そして、次の朝を迎える。


 それが、この宿の戦い方だった。

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