第43話 境界杭が迎えたのは、手紙より早い薬師だった
境界杭を直した夜、白狼亭は少しだけ静かだった。
いや、正確には静かに見えた。
暖炉は燃えている。
井戸は水音を立てている。
厨房ではミラさんが翌朝の仕込みをしている。
二階ではサナさんとリリが眠り、セナは食堂の長椅子で大人しく寝かされている。
だが、宿の外側には新しい気配があった。
四本の境界杭。
玄関、井戸、裏庭、西の道。
それぞれが、かすかな鈴のような音を内側に抱えている。
見えない線が白狼亭を囲み、外と内を分けていた。
「……落ち着かない」
窓際でノアが言った。
「守りが戻ったのに?」
「戻ったばかりの森道みたい。ちゃんと通れるけど、まだ足元が慣れない」
「宿も慣れている途中なのか」
「たぶん」
完全に移っている。
もう指摘するのはやめた。
白狼は暖炉前で伏せている。
だが眠っていない。
目を閉じているだけで、耳は外の気配を追っていた。
俺は裏口の扉を見ていた。
昨夜、黒い獣に爪を立てられた扉だ。
ダリオさんが応急補修をしてくれたが、木に残った傷は深い。
扉はまだ痛がっている。
そういう言い方をすると、前の俺なら自分で自分を変だと思ったかもしれない。
でも今は、自然にそう感じる。
白狼亭の扉は、客を迎えるためにある。
それなのに、昨夜は入れてはいけないものを拒むために踏ん張った。
よく頑張ったと思う。
「ルカさん」
ミラさんの声がした。
「はい」
「扉を見ているだけですよね?」
「はい」
「光ってませんよね?」
「光ってません」
「手も当てていませんよね?」
「当ててません」
「よろしいです」
完全に監視されている。
ただ、その監視は少し温かい。
王宮では、壊れたら呼ばれた。
ここでは、壊れる前に止められる。
たぶん、俺自身も少しずつ修復されている。
そんなことを考えていた時だった。
ちりん。
外で、鈴の音がした。
全員が動きを止めた。
境界杭だ。
ノアがすぐに窓へ駆け寄る。
白狼も目を開けた。
ミラさんは火を弱め、エリスは宿帳の横に置いていた短いペンを握る。
なぜペンを握るのかと思ったが、彼女にとっては武器なのだろう。
「西じゃない」
ノアが耳を澄ませる。
「玄関側。敵の匂いじゃない。でも、強い薬草の匂い」
「薬草?」
俺が言った瞬間、もう一度鈴が鳴った。
ちりん。
今度は拒絶ではなく、知らせる音だった。
玄関の外から、低い女性の声がした。
「夜分にすまないね」
その声は年老いていた。
だが、不思議とよく通る。
「白狼亭は、病人と怪我人を泊めていると聞いた。薬師マーレンだ。まだ入ってもいい宿かい?」
エリスが息を呑んだ。
「マーレン……」
「手紙の宛先の?」
「ええ。でも、まだ届いていない」
つまり、手紙より先に本人が来た。
ミラさんが玄関へ向かった。
白狼も立ち上がる。
扉を開ける前に、ミラさんは一度深く息を吸った。
「白狼亭の女将、ミラです。お客様なら、お迎えします」
扉が開いた。
外に立っていたのは、小柄な老婆だった。
背は低いが、背筋はまっすぐ。
灰色の髪を後ろで束ね、肩には薬草の匂いが染みついた外套。
腰には小瓶がいくつも吊られ、背負い袋からは乾燥草がはみ出している。
年齢はかなり上だろう。
だが目が強い。
森の奥の水みたいに、濁っていない目だった。
老婆は白狼を見た瞬間、ゆっくり膝をついた。
「……お戻りでしたか、白狼様」
白狼は静かに彼女を見た。
「三十年ぶりです。あの時は、私の師匠を湯殿まで運んでくださいましたね」
白狼が鼻を鳴らした。
覚えているのかもしれない。
ミラさんは驚いた顔で老婆を見た。
「マーレンさんは、白狼亭に?」
「昔、世話になったよ。まだ先代の頃さ。薬師の師匠と旅をしていて、森で毒草に当たってね。白狼亭の湯と水に助けられた」
彼女は立ち上がり、玄関の内側を見た。
「それで、境界杭が鳴った。白狼亭が本当に目を覚ましたんだね」
「境界杭の音がわかるんですか?」
俺が聞くと、マーレンは俺をじろりと見た。
「そっちは?」
「ルカです。修繕士です」
「ああ、なるほど。杭に無理をさせた匂いがする」
「無理は……少しだけです」
白狼、ノア、ミラさんが同時にこちらを見た。
「本当に少しです」
マーレンは、ふん、と鼻で笑った。
「少しだけ無理をする人間が一番危ない。薬師の敵だよ」
初対面なのに刺さる。
この宿、俺を叱る人がどんどん増えている。
ミラさんはマーレンを食堂へ招き入れた。
「怪我人と病人がいます。診ていただけますか?」
「そのために来た。白狼亭の水が戻ったと聞いた時点で、嫌な予感がしたからね」
「嫌な予感?」
「良い水が戻る時は、悪いものも動く」
マーレンは食堂を見回した。
長椅子で眠るセナ。
二階にいるサナさんとリリ。
暖炉前の白狼。
窓際のノア。
帳場の奥にいるエリス。
彼女の視線がエリスで一瞬止まった。
だが何も言わなかった。
言わない方がいいことを、ちゃんと知っている人の目だった。
「まず早馬の娘だね」
マーレンはセナのそばへ行き、傷を見た。
薬草布を外し、匂いを嗅ぎ、眉を寄せる。
「黒羽の追跡油。古い嫌なものを使うね」
「落ちていますか?」
ノアが尋ねる。
「白狼の水でだいぶ落ちている。だが、傷の奥に少し残っている。明日熱が出るよ」
セナが片目を開けた。
「……出る前提で言わないでほしいな」
「出るものは出る。走った分、体が怒ってる」
「体も怒るんだ」
「怒るよ。持ち主が馬鹿をするとね」
セナは苦笑した。
「白狼亭、私を叱る人が多い」
「怪我人が言い返すんじゃない」
ミラさんと同じ系統の強さだった。
マーレンは小瓶を取り出し、ノアの薬草布に数滴垂らす。
「森の番人、薬草の選びはいい。ただ少し若い。追跡油には苦根草を混ぜる」
「苦根草は匂いが強い。白狼様が嫌がる」
「だから薄めるんだよ」
「……なるほど」
ノアが素直に頷いた。
珍しい。
マーレンは次に二階へ上がった。
朝焼けの部屋に入ると、壁の白狼絵を見て少し目を細めた。
「この部屋も戻ったのか」
「まだ応急です」
俺が言うと、マーレンは壁に手を近づけた。
「応急にしてはよく休める部屋になっている。やったのはあんたかい?」
「少しだけです」
「また少しだけかい」
もう信用がない。
サナさんを診たマーレンは、思ったよりすぐに頷いた。
「熱は怖いが、悪い熱じゃない。体が毒を追い出している。白狼の水と休みが効いてるね」
「助かりますか?」
ダリオさんが震える声で尋ねた。
マーレンは彼を見た。
「助けるんだよ。助かるかどうかを聞いている暇があったら、湯を沸かしな。汗を拭く布もいる」
「は、はい!」
ダリオさんは慌てて走った。
マーレンはリリも診た。
「この子はもう大丈夫。ただ、白狼様の毛に頼りすぎると寝癖がつく」
「寝癖?」
リリが寝ぼけながら聞く。
「心の寝癖だよ。安心しすぎると白狼様から離れられなくなる」
リリは白狼を見た。
「それはちょっといいかも」
白狼が非常に困った顔をした。
全員が少し笑った。
食堂へ戻ると、マーレンは白狼の脇腹も診た。
その時だけ、空気が変わった。
「これは……古い黒牙の傷だね」
白狼は動かない。
マーレンは表情を険しくし、傷の周囲に手をかざした。
「ずいぶん深い。よく動いている」
「治せますか?」
ノアの声が硬い。
「完全には無理だ。黒牙の楔がまだ森に残っている限り、この傷も引っ張られる。でも、痛みを薄めて、広がりを抑えることはできる」
「本当?」
「薬師は、できることとできないことを分ける仕事だよ」
その言葉は重かった。
修繕士にも刺さる。
俺も、直せるものと直せないものを分けなければならない。
全部を直せるふりをすると、たぶん壊す。
マーレンは白狼の傷に薬草を当て、白狼の水を一滴垂らした。
そしてミラさんに言った。
「白狼様のための湯を、毎晩用意しな。ぬるめ。薬草は私が配合する」
「毎晩ですか?」
「毎晩だ」
白狼が明らかに嫌そうな顔をした。
「嫌でもだよ」
マーレンは白狼に向かって平然と言った。
神狼にその口を利ける人間、なかなかいない。
白狼はしばらくマーレンを見ていたが、最後に諦めたように鼻を鳴らした。
負けた。
白狼が薬師に負けた。
ノアが少し感動したような顔をしている。
その後、マーレンは食堂の席に座り、ミラさんのスープを一口飲んだ。
目を閉じる。
「……戻ってるね」
「味が、ですか?」
「水と火と女将の手だよ。昔の白狼亭とは違う。でも、白狼亭の味だ」
ミラさんは胸に手を当てた。
「ありがとうございます」
「礼はいい。金は取るよ」
「はい」
エリスがすぐに反応した。
「診療費として記帳しましょう」
「いいね。ちゃんと金を動かす宿は長生きする」
マーレンはエリスを見た。
「お嬢さん、帳簿係かい?」
「ただの客です」
「嘘が下手だね」
エリスは一瞬だけ黙った。
マーレンは笑った。
「詮索はしないよ。白狼亭の中で守られているなら、今は客だ」
ミラさんが静かに頷いた。
「はい。白狼亭のお客様です」
エリスは少しだけ目を伏せた。
「……ありがとう」
その夜、マーレンは白狼亭に泊まることになった。
部屋はない。
だから食堂の長椅子だ。
「床でも寝られる」
「薬師さんを床には寝かせません」
ミラさんが言うと、マーレンは面白そうに笑った。
「いい女将になってきたね」
宿札が外でかたんと鳴った。
見に行くと、文字が変わっていた。
『迎えるべき薬師あり』
そして、その下にもう一行。
『治すべき傷、深し』
白狼がそれを見て、面倒そうに目を閉じた。
毎晩の薬湯が確定したからだろう。
俺は少し笑った。
手紙はまだ届いていない。
味方が動くかもわからない。
敵はすぐそこまで来ている。
でも、白狼亭には薬師が来た。
病人を診て、怪我人を叱り、白狼の傷を見抜いた。
宿が少しずつ、必要な人を呼び寄せている。
直すべきものがある場所には、直せる人が集まるのかもしれない。
白狼亭は、また一人、強い味方を迎えた。




