第41話 黒羽の追手は、宿の扉を叩けなかった
白狼亭の扉が閉まった。
ダリオさんが直したばかりの扉だ。
すう、と滑るように動き、最後に低く、重い音を立てて収まる。
ただ閉まっただけではない。
今夜のそれは、外の闇と白狼亭の内側を分ける境界の音だった。
「セナさんを食堂の長椅子へ」
ミラさんの声が飛ぶ。
「ノアさん、薬草水を。ルカさん、清潔な布を。バートさんは腕を見せてください。ガランさん、玄関と裏口を確認。ダリオさん、扉と窓を内側から」
迷いがない。
さっきまで震えていた女将ではない。
帰ってきた者を迎え、傷を見て、宿を守る女将の声だった。
セナは白狼の尻尾に支えられたまま、苦笑した。
「すごいね……白狼亭、戦場みたい」
「宿です」
ミラさんは即答した。
「宿だから、怪我人を寝かせて、追手を入れません」
「うん……それ、強い宿だ」
セナはそう言って、少しだけ目を閉じた。
左腕の傷は深すぎない。
だが矢がかすめたらしく、血がにじんでいる。
さらに肩や膝にも擦り傷があった。
ノアが傷口を見て、眉をひそめる。
「毒はない。でも、黒羽の追跡油が少しついてる」
「追跡油?」
俺が聞くと、バートが顔をしかめた。
「灰羽の連中が使うやつだ。傷や服につくと、匂いで追われる」
「洗えば落ちる?」
「普通の水じゃ薄まるだけ」
「白狼の水なら落ちる」
ノアが断言した。
ミラさんはすぐに井戸水を取りに行こうとしたが、白狼が立ち上がった。
そして食堂の隅に置いてあった水桶へ近づき、ふっと息を吹く。
水面が淡く白く光った。
「白狼様、ありがとうございます」
ミラさんが頭を下げる。
白狼は鼻を鳴らした。
礼より早く使え、という顔だった。
俺は布を水に浸し、セナの傷の周りを拭いた。
黒い油のようなものが薄く浮き、布に染み込む。
嫌な匂いがした。
鉄と煙と、濡れた羽のような匂い。
「これで追跡されていたのか」
「道の上では強い」
ノアが言う。
「でも白狼亭の中なら、火と水で薄められる」
暖炉の火がぱちりと鳴った。
井戸の水音が、外からかすかに聞こえる。
白狼亭そのものが、セナについた追跡の匂いを洗い流しているようだった。
エリスは戻った二通の手紙を確認していた。
血で少し汚れていたが、封蝋は無事だ。
「法官オルディス宛、商業ギルドのベネディクト宛。どちらも破られていない」
「よかった……」
ミラさんが胸を撫で下ろす。
だが、エリスの顔は緩まなかった。
「安心するのは早いわ。敵は、この二通の重要性を知った。つまり次は、白狼亭そのものを狙う」
その時、宿札が外でかたんと鳴った。
誰も見に行かなくても、全員が意味を理解した。
今夜は、まだ終わっていない。
ダリオさんが玄関の扉から戻ってきた。
「扉は閉まっています。ただ……外から嫌な力が当たっています」
「扉でわかるんですか?」
「はい。誰かが遠くから、鍵穴を探るような魔術を流している。扉が嫌がっています」
扉が嫌がっている。
白狼亭では、もう普通の報告に聞こえるようになってきた。
「裏口は問題ねぇ」
ガランさんも戻ってきた。
「だが、西側の古い窓が弱い。ダリオ、あそこ補強できるか?」
「できます。板と楔を」
「バート、手伝え」
「わかった」
バートは腕に小さな擦り傷があったが、大きな怪我ではない。
それでもミラさんに布を巻かれてから、窓の補強に向かった。
「俺、これくらい平気なんだけど」
「平気な人ほど後で腫れます」
「女将って怖ぇな」
「よく言われます」
また俺の台詞だった。
だが今は、それどころではない。
白狼が玄関の前へ歩いた。
静かに伏せる。
ただし、眠る姿勢ではない。
いつでも立てる姿勢。
ノアがその横に座る。
「来る」
「何人?」
エリスが聞く。
「三人。たぶん廃橋にいた黒羽の残り。あと……黒い獣、一匹」
食堂の空気が重くなった。
ミラさんは一瞬だけ目を閉じ、すぐに開いた。
「お客様は二階へ。サナさんとリリちゃんは朝焼けの部屋から動かさない方がいいですか?」
「動かさない方がいい」
ノアが答える。
「部屋が守ってる。動かすと体力を使う」
「では、二階の廊下に灯りを。ダリオさん、朝焼けの部屋の扉を内側から静かに補強できますか?」
「はい」
「音を立てすぎないように。リリちゃんが起きないように」
「わかりました」
こんな状況でも、リリを起こさないことを考える。
それが白狼亭だった。
エリスは手紙二通を預かり箱へ入れ、地下保管庫へ移す準備を始めた。
「ルカ、地下の保管庫を開けるわ」
「はい」
「あなたも来て。探知除けの状態を見て」
ミラさんが俺を見る。
「無理は」
「しません。見るだけです」
ノアが鋭く言う。
「本当に見るだけ」
「本当に」
白狼までこちらを見た。
「本当にです」
信用がここまでないと、逆に安心感がある。
地下保管庫へ降りる。
石の階段は冷たい。
だが以前より、空気は安定していた。
中央の石台に預かり箱を置き、エリスが二通の手紙を入れる。
封蝋の白狼紋が淡く光った。
俺は壁に手を近づける。
外から細い黒い糸のようなものが、保管庫の周囲を探っていた。
セドリックの時とは違う。
もっと乱暴で、もっと焦っている。
灰羽の配下だろう。
「探られている」
「防げる?」
「今の状態なら防げます。ただし、向こうが近づきすぎると、地下の位置まではわからなくても、宿のどこかにあるとは感づかれるかもしれない」
「なら、宿全体で誤魔化す必要があるわね」
エリスは即座に言った。
「できる?」
「……たぶん」
エリスがじっと見る。
「今のたぶんは?」
「できます。ただ、少し宿に協力してもらいます」
俺は石台へ手を置いた。
「白狼亭」
声に出すと、少し恥ずかしい。
でも最近は、こういう方が通じる。
「預かったものを守りたい。地下だけじゃなく、宿全体に気配を散らしてくれ」
石台の白狼紋が光る。
暖炉のある方から、低く温かい気配が流れてきた。
井戸の水音も応える。
地下保管庫、暖炉、井戸、星見の間、預かり箱。
それぞれの気配が、細い線でつながる。
証拠の位置を隠すのではなく、宿全体が「ここにある」と言っているような状態にする。
どこにあるかわからない。
でも、白狼亭全体が預かっている。
そういう守り方だ。
「……よし」
俺は手を離した。
少しふらついたが、倒れはしない。
エリスがすぐに見た。
「大丈夫?」
「はい」
「今のは本当に大丈夫?」
「本当に」
「ならいいわ」
地上へ戻ると、食堂の空気が変わっていた。
暖炉の火が強くなっている。
井戸の水音も大きい。
玄関の扉には、ダリオさんが追加した横木。
白狼亭が守りの姿勢に入っている。
そして、外から声がした。
「白狼亭の者へ」
低い男の声。
ミラさんが玄関の内側に立つ。
俺たちも後ろに控えた。
白狼は扉の前で伏せたまま、金色の目を開いている。
「夜分に失礼する。早馬使いセナが、我らの荷を盗んだ。中に危険文書が含まれている。宿に逃げ込んだなら、引き渡してもらいたい」
嘘だ。
全員がそう思った。
エリスが小声で言う。
「返答は短く。中に入れないで」
ミラさんは頷いた。
「ここは白狼亭です。怪我人を引き渡すことはできません」
「盗人を匿うのか」
「怪我人です」
「その女は、王都商会の重要文書を持ち逃げした」
「持ち主を確認できない文書を、夜中に渡すことはできません」
ミラさんの声は落ち着いていた。
すごい。
王都の監査官にも、黒羽の追手にも、もう怯えて下がらない。
「ならば、明朝、監査局へ通報する」
「どうぞ。白狼亭では、夜の怪我人を保護した記録を宿帳に残します」
エリスが小さく笑った。
完璧な返しらしい。
外の男は少し黙った。
そして声の温度が下がる。
「後悔するぞ」
その瞬間、白狼が立ち上がった。
扉を開けたわけではない。
だが、白狼の気配が玄関を越えて外へ広がった。
低い唸り声。
食堂の床が震える。
外で馬が怯える音がした。
男の息遣いが一瞬乱れる。
ノアが冷たく言った。
「白狼様が、帰れって」
扉越しでも聞こえる声だった。
外の男は舌打ちした。
「……行くぞ」
足音が離れる。
馬の音。
だが、完全には遠ざからない。
ノアが耳を澄ませる。
「一人、残ってる。裏へ回った」
「裏口か!」
ガランさんが走る。
俺も続いた。
裏口には、ダリオさんが補強したばかりの扉がある。
その外側で、黒い獣の唸り声がした。
犬ではない。
黒牙に深く噛まれた獣。
扉に爪が当たる。
がり、と嫌な音。
ダリオさんが顔をしかめた。
「扉が痛がっています」
「開けるなよ」
ガランさんが手斧を構える。
「開けない方がいい。でも、外で暴れられると扉がもたない」
俺は扉に手を当てた。
中から支える。
大きな修復ではない。
扉に思い出させるだけだ。
「お前は、客を入れる扉だ。でも今は、入れてはいけないものがいる」
扉の木目が淡く光る。
ダリオさんが横木を押さえ、ガランさんが支えを足す。
外の獣が体当たりした。
どん!
扉が震える。
だが開かない。
もう一度。
どん!
俺の腕に衝撃が走る。
そこへ白狼が来た。
食堂から一直線に裏口へ。
白狼は扉の前で低く唸り、前脚で床を叩いた。
その瞬間、扉の下の隙間から白い光が外へ漏れた。
獣の悲鳴。
黒い煙が、隙間から少しだけ入ってすぐ消えた。
ノアが裏口横の小窓を開け、短い笛を吹く。
森の番人の笛。
鋭く、短い音。
外で何かが跳ねるような音がした。
「逃げた」
ノアが言う。
「黒い獣、白狼様の光を嫌がった。追手も下がった」
俺は扉から手を離した。
今度は本当に膝が少し笑った。
ミラさんが背後から言う。
「ルカさん」
「倒れてません」
「座ってください」
「はい」
もう反論しない。
食堂へ戻ると、セナが長椅子の上で目を開けていた。
顔色は悪いが、意識はある。
「ごめん……私のせいで、宿に……」
「違います」
ミラさんがすぐに言った。
「あなたは白狼亭の便りを守ってくれました。今度は、白狼亭があなたを守る番です」
セナは何か言おうとして、やめた。
代わりに、少しだけ笑った。
「祖母が言ってた通りだ。白狼亭は、変な宿だね」
「よく言われます」
ミラさんが答えた。
暖炉の火が、いつもより強く燃えていた。
宿札が外でかたんと鳴る。
ダリオさんが玄関から戻ってきて、文字を読んだ。
「変わっています」
「何て?」
ミラさんが尋ねる。
ダリオさんは少し笑った。
「『今宵、客を守りきる』と」
食堂に、静かな息が広がった。
白狼亭は、追手を入れなかった。
手紙も、怪我人も、守った。
だが敵は、もう宿の扉の前まで来た。
次はもっと強い手を使ってくるだろう。
それでも今夜だけは、白狼亭の勝ちだった。
俺は椅子に座らされ、ミラさんの蜂蜜入りのパンを手渡された。
「食べてください」
「今ですか?」
「今です」
断れなかった。
パンをかじる。
甘さと塩気が、疲れた体に染みた。
白狼が暖炉前へ戻り、静かに伏せる。
ノアは窓際で外を見張る。
ミラさんはセナの傷を確認し、エリスは宿帳に今夜の出来事を書き始めた。
白狼亭の夜は、まだ続く。
けれど、扉の内側には火があった。
守るべき客がいて、守るために動く者たちがいた。




