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第40話 廃橋の下で、早馬使いは二通の手紙を抱いていた

 西の道は、森とは違う怖さがあった。


 森は息をしている。


 木々が揺れ、水が流れ、土が沈み、獣の気配がある。

 危険でも、そこには生き物の理屈があった。


 だが夜の街道は違う。


 静かすぎる。


 月明かりに照らされた轍。

 雨上がりの泥。

 倒れた枝。

 遠くに見える黒い丘。


 人が通るために作られた道なのに、今はまるで誰かが息を潜めて待っているようだった。


 白狼は先頭を歩いていた。


 森の中ほど自然ではないが、それでも足音はほとんどない。


 ノアはその横。


 耳を立て、鼻を動かし、道の匂いを読んでいる。


 俺とガランさん、バートは少し後ろを進んだ。


「セナは、本当に生きてるんだな」


 バートが低く聞いた。


「ノアはそう言っていた」


「なら、急がねぇとな」


 彼の声には焦りがあった。


 ルグラン商会にいた頃の彼なら、他人のためにここまで顔色を変えただろうか。


 たぶん、変えなかった。


 白狼亭に来てから、バートは少しずつ変わっている。


 いや、変わったというより、元に戻っているのかもしれない。


 使い捨てられる場所で身につけた棘が、少しずつ抜けてきている。


「バート」


「何だよ」


「無茶はするなよ」


「お前に言われたくねぇ」


「それは、そうだな」


 ガランさんが横で鼻を鳴らす。


「白狼亭の連中、全員それ言う資格が怪しいぞ」


「ガランさんもですよ」


「俺は大工だ。大工は無茶じゃねぇ。段取りだ」


「手斧を術師に投げた人の言葉とは思えません」


「あれも段取りだ」


 強い。


 大工の定義がかなり広い。


 ノアが前で手を上げた。


 全員が止まる。


「ここ」


 道の端に、黒い金具が落ちていた。


 さっきリュカの鞍についていたものと同じ、黒い羽の形。


 灰羽の印。


 バートが拾おうとした瞬間、ノアが止める。


「触らない」


「罠か?」


「匂いが残ってる。追跡具。触ると、こっちの場所が伝わる」


 俺はしゃがみ込み、金具を見た。


 魔力の流れがある。


 細い糸のようなものが、道の奥へ伸びている。


 確かに、これは持ち主へ位置を返す道具だ。


「壊せるか?」


 バートが聞く。


「壊すと反応するかもしれない」


「面倒くせぇな」


「直す」


「は?」


 俺は金具の横に手をかざした。


「本来は荷物を追うための道具だ。追跡そのものが悪いわけじゃない。問題は、向こうへ知らせる流れ」


「つまり?」


「知らせる相手を、少しずらす」


 俺は金具に直接触れず、地面に落ちた雨水へ修復の光を流した。


 水に映った黒い羽の像が揺れる。


 追跡具が返している位置情報を、ほんの少し横へ逸らす。


 道の東側に、古い獣道がある。


 そちらへ。


「戻れ、ではなく……迷え」


 金具の光が一瞬だけ乱れた。


 細い糸の向きが変わる。


 ノアが耳を動かした。


「匂いが逸れた。東へ行ったみたいに見える」


「よし」


「今の、森じゃないから許す」


「許可制、継続なんだな」


「継続」


 ノアは真面目な顔で頷いた。


 ガランさんが感心したように笑う。


「兄ちゃん、悪知恵も働くようになったな」


「褒めてます?」


「褒めてる」


「じゃあ受け取ります」


 バートは黒い羽を睨んだ。


「灰羽の連中、こういう罠をいくつも置く。昔、逃げた下働きがこれで見つかった」


「……その人は?」


 バートは答えなかった。


 答えないことが答えだった。


 ノアの顔が少し険しくなる。


「急ぐ」


 俺たちは再び走った。


 道はだんだん荒れていく。


 昔は使われていたのだろうが、今は草が伸び、石畳も割れている。

 白狼亭の宿帳にあった西方への道。


 そこもまた、少しずつ忘れられ、壊れていた。


 やがて、前方に石橋が見えた。


 廃橋。


 村長が言っていた通り、半分崩れかけている。


 下には浅い谷と、細い川。

 雨上がりで水は少し増えているが、流れは弱い。


 橋の手前に、黒い馬車が一台止まっていた。


 銀鷲ではない。


 黒い羽の紋。


 灰羽の配下だ。


 周囲には男が三人。

 短剣と弩を持っている。


 そして橋の向こう側には、細い外套の男が一人。


 顔はフードで見えない。


 灰羽本人ではなさそうだが、同じ黒い外套を着ている。


「いた」


 ノアが低く言った。


「セナは?」


「橋の下。水の近く。血の匂いが少し」


 白狼が静かに身を低くした。


 今にも飛び出しそうな気配。


 俺は咄嗟に白狼の首元に手を伸ばしかけ、途中で止めた。


 白狼を止めるとか、恐れ多すぎる。


 でも白狼は、俺の気配に気づいたのか、こちらを見た。


「正面から行くと、セナを人質にされるかもしれない」


 俺が小声で言うと、白狼は鼻を鳴らした。


 わかっている、という顔だ。


 バートが道の脇を指差す。


「俺、あの馬車に近づける。商会の下働きっぽく歩けば、少しはごまかせるかもしれない」


「危険だ」


「わかってる。でも俺が一番顔を隠しやすい。ルグランにいた頃の合図も少し知ってる」


 ガランさんが眉をひそめる。


「無茶するなって、さっき言われてたばかりだぞ」


「段取りだろ、大工の親方」


「生意気言うようになったな」


 バートは少しだけ笑った。


 緊張で引きつった笑みだったが、逃げる顔ではない。


「俺が馬車側の注意を引く。白狼様とノアは橋の下へ。ルカは……」


「橋を見ます」


「橋?」


「崩れかけている。もし戦いになって橋が落ちれば、セナも手紙も危ない。支えられる場所を見たい」


 ノアが俺を見る。


「触る?」


「必要なら」


「先に聞いて」


「橋にも?」


「橋にも」


 もう、だいぶ徹底されている。


 俺は小さく頷いた。


 作戦は雑だった。


 でも時間がない。


 白狼が橋の下へ回る。

 ノアがそれに続く。

 俺とガランさんは橋の支柱側へ。

 バートは正面から近づく。


 バートは深く息を吸い、黒い羽の金具を手に持った。


 そして姿勢を少し変えた。


 驚いた。


 さっきまで白狼亭の水運びをしていた青年が、急に商会の下働きの顔になった。


 少し猫背で、目を合わせず、でも命令にはすぐ動けるような立ち方。


 そうやって生き延びてきたのだろう。


 彼は黒い馬車へ歩いていった。


「おい」


 見張りの男が弩を向ける。


 バートは怯えたように両手を上げた。


「灰羽の旦那からの伝令だ。追跡具が東に反応した。獲物が逃げたかもしれないって」


「東?」


 男たちが顔を見合わせる。


 効いている。


 さっき逸らした追跡具の反応だ。


 フードの男が橋の向こうから声を出した。


「誰の指示だ」


「灰羽の旦那だよ。黒羽の印、見りゃわかるだろ」


 バートは金具を見せた。


 フードの男の視線がそちらへ向く。


 その一瞬。


 白い影が橋の下へ消えた。


 ノアも続く。


 俺とガランさんは、橋の支柱へ走った。


 橋はひどい状態だった。


 石の隙間が開き、支えの一部が割れている。

 雨水が入り込み、苔と泥で滑る。


 だが完全には死んでいない。


 昔、この橋は多くの旅人を渡したのだろう。


 白狼亭へ向かう道として。


 俺は石に手を当てた。


 許可を取れと言われたが、橋にどう聞けばいいのかわからない。


「橋」


 俺は小声で言った。


「少しだけ支えてくれ。帰る道を守りたい」


 ガランさんが横で小さく笑った。


「今度は橋に話しかけてるのか」


「ノアに言われたので」


「素直でよろしい」


 石の奥で、低い振動が返ってきた。


 気のせいかもしれない。


 でも、この橋も白狼亭へ続く道だった。


 なら、少しは聞いてくれるはずだ。


 淡い光を流す。


 割れた石を完全に直すのではない。


 今だけ。


 崩れないように、踏ん張らせる。


「思い出せ。お前は、渡すための橋だ」


 石の隙間がかすかに締まった。


 ガランさんが手早く木の杭を打ち、支えを追加する。


「よし。これで少しは持つ!」


 その時、橋の下から声がした。


「いた!」


 ノアだ。


 俺は支柱の隙間から下を覗いた。


 セナがいた。


 浅い川のほとり、崩れた石の影に身を隠している。


 左腕から血が出ていた。

 だが意識はある。


 胸元に、二通の封書を抱えている。


 法官オルディス宛。

 商業ギルドのベネディクト宛。


 守っていた。


 セナは白狼を見ると、弱く笑った。


「迎え……早いね……」


 ノアが駆け寄り、傷を見る。


「浅い。でも血が出てる。動ける?」


「走るのは無理。歩くなら、少し」


 白狼が伏せた。


 乗れ、ということだ。


 セナは目を丸くする。


「え、いいの?」


 白狼は面倒そうに鼻を鳴らした。


「光栄すぎて、祖母に自慢する……」


「しゃべらない。血が出る」


 ノアが叱る。


 その時、橋の上で怒号が上がった。


「貴様、偽の伝令か!」


 バートがばれた。


 男が弩を構える。


 バートは横へ飛ぶ。


 矢が泥に突き刺さった。


「ルカ! もういいか!」


 バートが叫ぶ。


「セナは見つけた!」


「なら逃げるぞ!」


 フードの男が杖を掲げた。


 黒い羽の形をした魔力が、橋の上に広がる。


「手紙を渡せ。白狼亭に届く前に燃やす」


 冷たい声。


 灰羽本人ではない。


 だが同じ匂いがした。


 セナは白狼の背に乗せられながら、封書を胸に抱きしめた。


「やだね。白狼亭の便りだ」


 フードの男が杖を振る。


 黒い火が橋の下へ飛ぶ。


 俺はランタンを掲げた。


 白狼亭の火ではなく、今回は普通の携帯灯だ。

 だが、ミラさんがくれた火種から移したもの。


 小さいが、白狼亭の火を含んでいる。


「燃やさせない」


 火を前へ出す。


 黒い火とぶつかる。


 押される。


 封じ石の時ほど強い火ではない。


 だが、橋が震えた。


 俺がさっき修復した石の隙間から、白い光が走る。


 この橋も、白狼亭へ続く道だった。


 道が、便りを守ろうとしている。


「ガランさん!」


「任せろ!」


 ガランさんが橋の支えを手斧で叩いた。


 崩すのではない。


 橋に溜まった泥と水を落とし、光の通り道を作る。


 黒い火が少し逸れた。


 ノアが短剣を投げる。


 短剣はフードの男の足元に刺さり、男が一瞬退く。


「今!」


 白狼が走った。


 セナを背に乗せたまま、橋の下から斜面を駆け上がる。


 速い。


 傷ついた白狼とは思えない。


 バートは男たちの間をすり抜け、こちらへ転がるように戻ってきた。


「撤退!」


 俺たちは走った。


 後ろから矢が飛ぶ。


 ガランさんが木板を盾にして弾く。


「大工道具万能すぎません?」


「だから段取りだって言ったろ!」


 フードの男が追ってくる。


 だが橋の手前で、彼の足が止まった。


 石橋が、ぎしりと鳴る。


 俺は橋に触れた時、少しだけお願いしていた。


 帰る者は通してくれ。


 追う者は、少し止めてくれ。


 橋の石がずれ、男の足元だけが沈む。


「貴様……!」


「すまん、橋が嫌がってる」


 俺が叫ぶと、ノアが横で言った。


「橋にも好かれた?」


「たぶん」


「便利」


 バートが息を切らしながら叫ぶ。


「会話してる場合か!」


 その通りだった。


 白狼亭へ向かう道を走る。


 背後で笛の音がした。


 灰羽の配下が、黒い獣を呼ぼうとしている。


 しかし、すぐには来ない。


 白狼の道守りが効いているのか、橋が時間を稼いでいるのか。


 わからない。


 とにかく走った。


 やがて遠くに、白狼亭の灯りが見えた。


 宿札が揺れている。


 玄関前にはミラさんが立っていた。


 エリスも、ハーゲンも、ダリオさんもいる。


 白狼亭の火が、窓から道へ向かって伸びているように見えた。


「帰ってきた!」


 トマの声がした。


 白狼が玄関前へ滑り込む。


 セナを背から降ろす。


 ミラさんがすぐに駆け寄った。


「セナさん!」


「手紙……無事……」


 セナは胸元の二通を差し出した。


 血で汚れていたが、封は破れていない。


 エリスがそれを受け取り、目を閉じる。


「よく守ってくれたわ」


「白狼亭の便りだからね……」


 セナはそう言って、力が抜けたように倒れかけた。


 俺が支えようとしたが、その前に白狼の尻尾が彼女を受け止めた。


 最近、この尻尾は救護具みたいになっている。


 ミラさんが即座に指示を出した。


「食堂へ。傷を洗います。ノアさん、薬草を。ルカさんは座る前にセナさんを運ぶのを手伝ってください。でもその後は座る。バートさんも傷を見ます。ガランさんは扉を閉めて、追手に備えて」


 女将の指示が、迷いなく飛ぶ。


 白狼亭は、迎えに行くべき客を迎えた。


 そして、届けるべき便りも取り戻した。


 宿札が、かたんと鳴る。


 そこには新しい文字が浮かんでいた。


『帰るべき者、帰還』


 その下に、もう一行。


『されど、追う影あり』


 俺は西の道を振り返った。


 遠くの闇に、黒い羽の気配が残っている。


 セナは戻った。


 手紙も戻った。


 だが、敵もまた、白狼亭の火をはっきり見つけたのだ。

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