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第39話 戻ってきたのは、早馬使いではなく馬だけだった

 白狼亭の夜は、静かだった。


 静かすぎた。


 食堂の暖炉はいつも通り燃えている。

 井戸の水音も聞こえる。

 二階ではサナさんとリリが眠っている。

 ダリオさんは食堂の扉を最後に一度だけ確認し、バートは水桶を片付け、ミラさんは翌朝の仕込みをしていた。


 けれど、誰も完全には落ち着いていなかった。


 昼に送り出した五通の手紙。


 それが今、道の上にある。


 セナという早馬使いが、白狼亭の火と白狼の道守りを背負って走っている。


 届くかどうかは、まだわからない。


 エリスは平然と書類を整理していたが、ペンの動きがいつもより少し速かった。


「気になるなら、気になるって言ってもいいんですよ」


 俺が言うと、エリスは顔を上げずに答えた。


「気になるわ」


「素直ですね」


「素直に言ったところで、便りが早く届くわけではないもの」


「それはそうです」


「だから、次の手を考える」


 彼女の前には、白狼亭の宿帳と、五通の手紙の写し。


 さらに、別便の候補まで書き出されている。


 本当に止まらない人だ。


 ミラさんが厨房から香草茶を持ってきた。


「エリスさんも少し休んでください」


「座っているわ」


「それは休んでいません」


「最近、みんなにそれを言われるわね」


「みんな正しいです」


 ミラさんが微笑む。


 エリスは少しだけ不満そうにしながらも、香草茶を受け取った。


 白狼は暖炉前で伏せている。


 けれど、耳はずっと西の道へ向いていた。


 ノアも同じだ。


 窓際に座ったまま、外を見ている。


 手にはパン。


 でも、いつものようには減っていない。


「ノア」


「何」


「食べないのか?」


「食べてる」


「減ってない」


「……道が変」


 食堂の空気が変わった。


 ノアはパンを置き、耳を澄ませた。


「西の道から、馬の匂い。早い。でも、人の匂いが薄い」


「セナか?」


「馬はセナの馬。けど、セナの匂いが弱い」


 嫌な予感がした。


 白狼が立ち上がる。


 その瞬間、宿札が外でかたんと鳴った。


 ミラさんがすぐに玄関へ向かう。


 俺たちも続いた。


 外は夜。


 白狼亭の灯りが、土道を淡く照らしている。


 遠くから蹄の音が近づいてきた。


 速い。


 かなり速い。


 やがて暗闇の中から、一頭の栗毛の馬が飛び込んできた。


 セナの馬――リュカだ。


 馬は白狼亭の前で止まろうとして、足を滑らせかけた。


 俺とバートが慌てて駆け寄る。


「落ち着け!」


 バートが手綱を掴む。


 馬は荒く息を吐き、全身に汗を浮かべていた。


 鞍はある。


 しかし、セナはいない。


「セナさんは?」


 ミラさんの声が震えた。


 誰もすぐには答えられなかった。


 ノアが馬の周囲を嗅ぎ、顔を険しくする。


「血の匂い。少し。セナの匂いもあるけど、途中で消えてる」


「消えてる?」


「馬から降りた。いや、降りさせた。たぶん、馬だけ帰した」


「手紙は?」


 エリスの声が鋭くなる。


 俺は馬の革鞄を確認した。


 白狼が息を吹きかけた鞄。


 そこには、裂けた跡があった。


 だが完全には破られていない。


 革鞄の外側には、白狼紋がまだ淡く残っている。


「開けます」


 中を確認する。


 封書は――三通。


 五通あったはずだ。


「二通、ない」


 ミラさんが息を呑む。


 エリスがすぐに手を伸ばした。


「残っているのは?」


「薬師マーレン宛、巡礼院アグネス宛、元王宮警備騎士ラウル宛です」


「法官オルディス宛と、商業ギルドのベネディクト宛がない」


 最重要の二通。


 偽造許可状や監査局の癒着に関する相談と、ルグラン商会の商取引不正。


 その二通だけがない。


「奪われた?」


 俺が言うと、エリスは封筒を確認した。


「違うわ。残った三通は白狼紋が外側にある。鞄の裂け方から見て、セナは途中で二通だけ取り出した可能性が高い」


「どうして?」


「囮か、分散ね」


 エリスの目が細くなる。


「敵に追われたから、重要な二通を自分で持ち、馬だけを白狼亭へ帰した。残り三通を守るために」


 バートが馬の鞍を見て、低く言った。


「これ、商会の追跡鈴だ」


「追跡鈴?」


「荷や馬車につける小さい魔導具だ。逃げた荷を追うために使う」


 彼は鞍の下から、小さな黒い金具を取り出した。


 鳥の羽の形。


 銀ではなく、黒い羽。


「銀鷲じゃない。灰羽の印だ」


 白狼が低く唸った。


 ノアの耳が伏せられる。


「灰羽が道にいる」


 ミラさんの顔色が変わった。


「セナさんは……」


「まだ生きてる」


 ノアは即答した。


「血は少しだけ。死んだ匂いじゃない。馬を逃がす余裕があった」


 少しだけ、みんなの肩から力が抜ける。


 でも安心はできない。


 セナは今、どこかで追われている。


 しかも重要な二通を持って。


 その時、リュカが前脚で地面を掻いた。


 首を振り、白狼の方を見る。


 白狼が馬へ近づいた。


 リュカは怯えるかと思ったが、逃げなかった。


 むしろ、助けを求めるように鼻を鳴らした。


 白狼がリュカの額に鼻先を当てる。


 白い光が広がる。


 次の瞬間、俺の頭の中に景色が流れ込んできた。


 夜の道。


 倒れた木。


 黒い馬車。


 銀ではなく、黒い羽の紋。


 セナが手紙を鞄から抜き取り、リュカの首を叩く。


『白狼亭へ戻れ!』


 矢が飛ぶ。


 リュカが走る。


 セナは道脇の古い石橋へ飛び込む。


 その背後で、黒い外套の男たちが追う。


 そして、細い笛の音。


 視界が切れた。


「……見えた」


 俺は息を吐いた。


「セナは古い石橋の方へ逃げた。黒い羽の馬車に追われてる。灰羽本人かはわからないが、あの連中だ」


「古い石橋……」


 村長が顔を上げた。


「西の廃橋じゃ。昔は白狼亭から西方へ抜ける近道だったが、今はほとんど使われん」


 ノアが言う。


「森道とつながってる。白狼様なら追える」


 白狼はすでに玄関前へ出ていた。


 行く気だ。


 ミラさんが一歩前へ出る。


「待ってください」


 全員が彼女を見る。


「行くなら、準備を。今度は焦ってはいけません」


「セナが危ない」


 ノアが言う。


「わかっています。でも、こちらが倒れたら助けられません」


 ミラさんは震えていた。


 怖いのだ。


 でも、声はしっかりしていた。


「薬草水、布、灯り、縄。リュカの手当ても必要です。残った三通は地下保管庫へ。二通を追う人と、宿を守る人を分けます」


 エリスが頷いた。


「正しいわ。今回は敵が道にいる。宿を空にするのも危険」


「私が宿に残ります」


 ミラさんが言った。


「白狼亭の女将として、残った手紙とお客様を守ります」


 白狼がミラさんを見た。


 そして、静かに鼻を鳴らした。


 認めたようだった。


 エリスはすぐに指示を出す。


「ルカ、ノア、白狼様、バート、ガランさん。この五人で追跡。私は残って情報整理と防備。ハーゲンさんは別便の準備。ダリオさんは扉と地下保管庫の確認。ミラは全体管理」


「俺も行くのか」


 バートが喉を鳴らした。


「商会の追跡具を見分けられるのは、あなたでしょう」


「……わかった」


 バートは黒い羽の金具を握りしめた。


「セナには借りがある。白狼亭の便りを持って走ってくれた」


「それに、灰羽の連中のやり方も知っている」


「知ってる。嫌ってほどな」


 彼の目に、以前とは違う光があった。


 逃げる側ではなく、追う側に立つ覚悟。


 俺は工具巻きを腰に下げた。


 ミラさんが包みを差し出す。


「蜂蜜入りのパンです。今度こそ、途中で食べてください」


「はい」


「本当に」


「本当に」


「あと、無理に全部直さないでください」


「それも本当に」


 ノアが横から言う。


「ルカは約束を破る」


「破ってはいない」


「曲げる」


「……気をつける」


 白狼が鼻を鳴らした。


 完全に信用されていない。


 だが、その方がいいのかもしれない。


 誰かに止められることで、俺は少しずつ壊れた働き方を直されている。


 出発前、リュカの鞍から残った三通を取り出し、地下保管庫へ移した。


 預かり箱が光り、証拠と手紙を受け入れる。


 宿札が外でかたんと鳴った。


 見に行くと、文字が変わっていた。


『届けるべき便りあり』

『帰るべき道もあり』

『迎えに行くべき客あり』


 ミラさんはその札を見て、静かに頷いた。


「はい。迎えに行ってください」


 白狼が森ではなく、西の道へ向かって歩き出す。


 ノアが続く。


 俺、バート、ガランさんも後を追う。


 背後では、白狼亭の灯りが強くなった。


 帰るべき道を示すように。


 セナはまだ生きている。


 重要な二通の手紙も、まだ敵の手には落ちていないはずだ。


 夜の道は冷たい。


 だが、白狼亭の火は背中にある。


 今度は、森ではなく道の上での戦いになる。

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