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第38話 手紙を運ぶ早馬使いは、白狼亭の火を借りて走る

 白狼亭から出す五通の手紙は、食堂の中央に並べられていた。


 巡回法官オルディス宛。

 西方商業ギルドのベネディクト宛。

 薬師マーレン宛。

 元王宮警備騎士ラウル宛。

 巡礼院の修道女アグネス宛。


 どれも薄い紙束だ。


 けれど中身は軽くない。


 ルグラン商会の不正。

 監査官セドリックの署名。

 偽造許可状。

 黒牙の毒草。

 封じ石。

 白狼亭の再開。


 下手に扱えば、白狼亭どころか、この村ごと王都の大商会に睨まれる。


 ミラさんは、封をした手紙をじっと見つめていた。


「本当に、出すんですね」


 その声には、緊張があった。


 昨日まで白狼亭は、受け入れる宿だった。


 客を迎える。

 水を出す。

 スープを作る。

 怪我人を寝かせる。


 でも今日は違う。


 初めて、こちらから外へ助けを求める。


 宿の火を、外の世界へ伸ばす日だった。


「出すわ」


 エリスが静かに言った。


「ここに置いておくだけでは、証拠は証拠にならない。届いて、読まれて、動く人がいて、初めて力になる」


「怖いですね」


「ええ。怖いわ」


 エリスは隠さなかった。


「でも、怖いから出さないなら、灰羽やセドリックの思う壺よ」


 ミラさんは小さく頷いた。


 その時、玄関の外から馬のいななきが聞こえた。


 軽い蹄の音。


 荷馬車ではない。


 速く走るための、引き締まった音だった。


「来たようじゃな」


 村長が杖をついて立ち上がる。


「早馬使いのセナじゃ」


 玄関の扉を開けると、雨上がりの道に一頭の栗毛の馬が立っていた。


 馬上にいたのは、思ったより若い女性だった。


 年は二十前後だろうか。


 短く切った黒髪に、旅用の革外套。

 腰には短剣。

 背には細長い筒型の革鞄。


 彼女は馬から軽やかに降りると、白狼亭の看板を見上げた。


 そして、一瞬だけ目を見開いた。


「本当に開いてる」


「久しぶりじゃな、セナ」


 村長が声をかけると、セナと呼ばれた早馬使いは軽く頭を下げた。


「村長さん。急ぎの便りがあるって聞いたけど」


「白狼亭からじゃ」


「白狼亭から?」


 セナは玄関横の宿札を見た。


『届けるべき便りあり』


 札を見て、彼女は少しだけ笑った。


「……なるほど。宿札まで働いてるなら、かなり急ぎだね」


「宿札が働くの、やっぱり普通じゃないんですね」


 俺が言うと、セナはこちらを見た。


「あんたが噂の修繕士?」


「たぶん」


「たぶんって何?」


「よく言われます」


「変な人だ」


 初対面でかなり正確に評価された。


 セナが食堂に入った瞬間、暖炉前の白狼が目を開けた。


 セナはぴたりと足を止める。


 その顔から、軽い笑みが消えた。


「白狼様……」


 彼女は迷わず片膝をついた。


 深く頭を下げる。


 食堂が静かになった。


 白狼は静かにセナを見ている。


「昔、祖母があなたに助けられたと聞いています」


 セナは頭を下げたまま言った。


「吹雪の山道で、白い狼が先導してくれたって。祖母は、その時に白狼亭で命を拾ったそうです」


 また一つ、縁が出てきた。


 宿帳を開けば、もしかすると彼女の祖母の名もあるのかもしれない。


 白狼は鼻を鳴らした。


 立て、という意味に見えた。


 セナは顔を上げ、少しだけ笑った。


「なら、今回の仕事は断れないね」


 エリスが封書を並べる。


「五通あるわ。行き先はそれぞれ違う。全部を一人で運ぶ必要はないけれど、最初の中継先までは確実に届けてほしい」


「中身は?」


「危険なものよ」


 エリスは隠さなかった。


「ルグラン商会と王都監査局の不正に関わる証拠、そして森の異変に関する助けを求める手紙」


 セナの目が細くなる。


「……ルグラン商会」


「知っているの?」


「道を買う連中だよ」


 セナは吐き捨てるように言った。


「宿、馬小屋、橋番、関所。金で縛って、自分たちの荷だけ早く通す。他の商人や旅人は後回し。早馬使いも何人か雇われたけど、戻ってこなくなった奴もいる」


 ハーゲンの表情が険しくなった。


「戻ってこない?」


「荷を運んだ後に消息不明。危ない便りだったんだろうね」


 セナは肩をすくめる。


 軽く言っているが、目は笑っていなかった。


「私はルグランの仕事は受けない。祖母の教えでね。銀の鳥には近づくなって」


「正しい教えね」


 エリスが頷いた。


 セナは五通の封書を見た。


「これは、銀の鳥に喧嘩を売る手紙?」


「喧嘩ではないわ」


 エリスは言った。


「壊されたものを、元に戻すための手紙よ」


 セナは少し黙った後、にやりと笑った。


「いいね。そういう言い方、嫌いじゃない」


 ミラさんが小さな包みを差し出した。


「道中で食べてください。焼きパンと干し肉、それから白狼の水を少し」


 セナの表情が変わった。


「白狼の水?」


「持ち出しは原則禁止ですが、これは旅の途中で倒れないための分です。女将として許可します」


 ミラさんはまっすぐ言った。


「ただし、売ったり、他人に渡したりしないでください」


「もちろん。命綱として使う」


 セナは水袋を両手で受け取った。


 その瞬間、白狼が立ち上がった。


 食堂の空気が変わる。


 白狼はセナの前へ歩み寄ると、彼女の革鞄に鼻先を近づけた。


 五通の手紙を入れるための鞄だ。


 ふっと、白い息を吹きかける。


 革鞄の表面に、一瞬だけ白狼の紋様が浮かんだ。


 セナが目を見開く。


「これは……」


 ノアが静かに言った。


「白狼様の道守り。森の悪い匂いと、黒牙の霧を少し避ける」


「すごいね。祖母が聞いたら泣くよ」


 セナは白狼に深く頭を下げた。


「必ず届けます」


 その声には、もう軽さがなかった。


 ミラさんは封書を一通ずつ手渡した。


 封蝋には、白狼亭の小さな紋様。


 それぞれの封に、白狼の水をほんの少し混ぜた蝋が使われている。


 エリスが最後に言う。


「もし途中で危険を感じたら、手紙を守るより命を優先して」


「そういう依頼主、久しぶりに見た」


「手紙はまた書ける。でもあなたは一人しかいない」


 セナは少し驚いた顔をしてから、ふっと笑った。


「白狼亭、変な宿だね」


「よく言われます」


 今回はミラさんが答えた。


 もう完全に白狼亭の共通語になっている。


 セナが馬に乗るため外へ出ると、トマが駆け寄ってきた。


「早馬って速いの!?」


「速いよ」


「白狼様とどっちが速い!?」


 セナは一瞬、白狼を見た。


 白狼はじっと見返す。


「……森の中では白狼様。道の上なら、私が頑張る」


「すげぇ!」


「少年、噂を広げるなら正確にね」


 エリスが低い声で言った。


 トマはびくっとした。


「はい」


 セナが笑う。


「何したの、この子」


「白狼の水の噂を三倍くらいにして広げました」


「才能あるね」


「褒めないでください」


 ミラさんが困った顔で言うと、また少し笑いが起きた。


 出発の前、セナは馬の首を軽く叩いた。


「行くよ、リュカ。白狼亭の便りだ。遅れたら祖母に怒られる」


 馬が鼻を鳴らす。


 すると、宿札がかたんと揺れた。


『届けるべき便りあり』


 その文字の下に、薄く新しい文字が浮かぶ。


『帰るべき道もあり』


 セナはそれを見て、軽く息を呑んだ。


「……帰ってこいってこと?」


「白狼亭は、そういう宿です」


 ミラさんが答えた。


 セナは笑った。


「いいね。じゃあ、帰ってくる理由ができた」


 彼女は手綱を握り、馬を走らせた。


 蹄の音が、雨上がりの道に響く。


 最初はゆっくり。


 それから一気に速くなる。


 栗毛の馬と早馬使いの背中は、村道を抜け、西へ向かって小さくなっていった。


 俺たちは、その姿が見えなくなるまで見送った。


 ミラさんは胸の前で手を組んでいる。


「届くでしょうか」


「届かせるわ」


 エリスが言った。


「セナ一人に任せきりにはしない。ハーゲンさんの商隊経由でも写しを動かす。村の別便も準備する。一本の道が塞がれても、別の道で届くようにする」


「手紙にも保険をかけるんですね」


「証拠は一度失えば終わりよ。慎重すぎるくらいでいい」


 その日の白狼亭は、いつもより少し落ち着かなかった。


 手紙を出した後というのは、妙な空白がある。


 何かが動き始めたのに、結果はまだ見えない。


 自分たちの手を離れ、道の上に乗ったものを、ただ待つしかない。


 ミラさんは何度も玄関を見た。


 エリスは平然としているように見えて、ペンを持つ指が少し速い。


 ハーゲンは商隊の連絡網を書き出し、村長は別の便を手配する相談をしている。


 ノアは森の方を見ていた。


「悪い匂いは?」


 俺が尋ねると、彼女は首を振った。


「今はない。でも、道の方がざわついてる」


「道もざわつくのか」


「大事なものが走ってるから」


 そういうものなのかもしれない。


 白狼亭から出た手紙。


 それはただの紙ではなく、宿の火を外へ運ぶものだった。


 夕方、ミラさんはいつもより少し濃いスープを作った。


「待つ人用です」


「帰ってくる人用ではなく?」


「今日は、待つ人用です」


 それは、体を温めるだけでなく、不安を少し沈める味だった。


 食堂で皆がスープを飲む。


 白狼は暖炉前で目を閉じている。


 だが、その耳は西の道の方へ向いていた。


 夜が近づく。


 まだ便りは戻らない。


 当然だ。


 出したばかりなのだから。


 それでも、白狼亭の玄関には灯りがともされた。


 帰るべき道もあり。


 宿札の文字が、薄暗い中で淡く見える。


 俺はその札を見上げながら思った。


 壊れたものを直すには、時々、自分の手の届かない場所へ願いを送り出さなければならない。


 そして、戻ってくるのを待つ強さも必要なのだと。

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