第37話 宿帳を開いたら、白狼亭の味方が名前で残っていた
その日の白狼亭は、いつもより静かだった。
夫の手帳。
偽造許可状。
銀鷲の金具。
灰羽。
セドリック。
そして、白狼亭を閉じた本当の理由。
あまりにも多くのものが、一晩で掘り起こされた。
食堂の暖炉は変わらず燃えている。
井戸は外で静かに水音を立てている。
白狼は暖炉前で伏せている。
でも、そこにいる全員が、昨日までとは少し違う顔をしていた。
特にミラさんは、朝からずっと黙って厨房に立っていた。
泣き腫らした目。
それでも手は止まらない。
鍋を火にかけ、白狼の水を注ぎ、野菜を切り、豆を入れ、木べらでゆっくり混ぜる。
その姿を見ていると、声をかけるべきか迷った。
迷っているうちに、ミラさんの方から口を開いた。
「ルカさん」
「はい」
「夫は、最後まで宿主だったんですね」
「はい」
「私は……ずっと、自分だけが残されたと思っていました」
木べらが鍋の中で静かに回る。
「宿も壊れて、井戸も濁って、白狼様もいなくなって。夫だけが先に行って、私は何も知らないまま置いていかれたんだって」
その声は静かだった。
涙はもう出ていない。
でも、泣き終えた後の深い痛みが残っている。
「でも、違ったんですね。あの人は隠していたんじゃなくて、守っていた。私を。宿を。証拠を。白狼亭の約束を」
「そうだと思います」
「……怒りたい気持ちもあります」
ミラさんは小さく笑った。
「どうして一人で抱えたの、って。どうして私にも言ってくれなかったの、って」
「はい」
「でも、もし私が同じ立場だったら……たぶん、同じことをしたかもしれません」
たぶん。
その言葉に、俺は少しだけ笑いそうになった。
でも今は茶化さなかった。
「大事な人を危険から遠ざけたいと思うのは、自然なことです」
「そうですね」
ミラさんは鍋を見つめた。
「でも、もう一人では守りません」
木べらを握る手に、力が入る。
「夫が残したものも、白狼様が守ってくれた森も、エリスさんの冤罪も、この宿も。全部、一人で抱えるには大きすぎます」
「はい」
「だから、みんなで守ります」
その言葉を聞いて、暖炉の火がぱちりと鳴った。
まるで、ようやくそれを言ったか、とでもいうように。
食堂では、エリスが証拠の分類を続けていた。
昨日見つかった偽造許可状の写しは、地下保管庫へ入れた。
ただし、内容の要約と写しはエリスが作っている。
彼女は、眠ったのかどうかわからない顔で紙を並べていた。
「エリスさん、休んでいますか?」
「座っているわ」
「それは休んでいることになりますか?」
「ならないわね」
素直だった。
エリスはペンを置き、こめかみを押さえた。
「でも、今は止まれない。証拠が出てきた以上、次に考えるのは提出先よ」
「王都へ送るのは危険なんですよね」
「ええ。監査局は汚染されている可能性が高い。公爵家へ直接送れば、ディオンに握り潰される。王宮保安局も信用できない」
「では、どこへ?」
「それを考えているの」
エリスは宿帳を引き寄せた。
「白狼亭は、ただの宿じゃない。昔から旅人、商人、騎士、巡礼者を迎えていた。つまり、過去の客の中に信用できる相手がいるかもしれない」
「過去の客?」
「ええ。白狼亭の宿帳には、名前と備考が残っている。命を救われた客。白狼に導かれた客。森の異変を知っている客。中には、今はそれなりの立場にいる人間もいるはずよ」
ハーゲンが隣で頷いた。
「私もその一人です。十年前はただの若い商人でしたが、今は西方との取引網があります。白狼亭の古い客の中には、もっと大きな力を持った者もいるでしょう」
「なるほど」
俺は宿帳を見た。
白狼亭の過去は、ただの思い出ではない。
今の味方になるかもしれない。
エリスは宿帳をぱらぱらとめくった。
「例えば、ここ」
彼女が指差したページには、十五年前の記録があった。
『巡回法官オルディス。森道で馬車破損。白狼が誘導。二泊。足を痛める。湯殿使用。宿主、夜に証書保管を手伝う』
「巡回法官?」
ミラさんが厨房から顔を出した。
「聞いたことがあります。王都直属ではなく、地方を回って争いや契約を見届ける法官だったような」
エリスが頷く。
「地方法官は、王都の監査局とは系統が違う。もし今も現役か、弟子が職を継いでいるなら、証拠を安全に届ける先になり得る」
ハーゲンが別のページを開いた。
「こちらも重要です」
『西方商業ギルド副組合長ベネディクト。吹雪にて足止め。白狼の水とスープを高く評価。商隊道の安全について村長と協議』
「西方商業ギルドなら、ルグラン商会と競合する立場です。王都商会の横暴を嫌っている者も多い」
「味方になり得る?」
「少なくとも、話を聞く価値はあります」
エリスの目に光が戻る。
「宿帳は、味方の名簿でもあるわね」
「名簿というと味気ないです」
ミラさんが少し困ったように言った。
「この宿に泊まってくれたお客様ですから」
「そうね」
エリスは少しだけ表情を柔らかくした。
「白狼亭の恩客一覧、と言うべきかしら」
「それなら良いです」
ミラさんは納得したようだった。
俺は宿帳に手を近づけた。
すると、ページの端がかすかに光った。
「ん?」
「どうしたの?」
「宿帳が、反応しています」
エリスが身を乗り出す。
光っていたのは、いくつかの名前だった。
巡回法官オルディス。
西方商業ギルドのベネディクト。
薬師マーレン。
元王宮警備騎士ラウル。
巡礼院の修道女アグネス。
どれも備考欄に、白狼亭に助けられた記録がある。
「宿帳が選んでいる?」
ミラさんが小さく言う。
「たぶん、白狼亭が覚えている客です」
俺が答えると、白狼が暖炉前で鼻を鳴らした。
今回は、否定ではない気がした。
エリスはすぐに紙を用意した。
「手紙を書くわ」
「誰に?」
「全員よ。ただし内容は変える」
彼女は筆を持つ。
「法官には、偽造許可状と監査官の不正に関する相談。商業ギルドには、ルグラン商会の粗悪建具と不正取引の情報。薬師には、黒牙の毒草について。騎士には、灰羽と黒い獣の情報。巡礼院には、白狼亭の水と病人保護について」
「一気に動かすんですか?」
「一気に種を撒くの。どれが芽を出すかわからないから」
エリスらしい判断だった。
ハーゲンも頷く。
「私の商隊で届けられるものもあります。急ぐものは、信頼できる早馬を使いましょう」
「お金は?」
ミラさんが不安そうに言う。
エリスが少しだけ笑った。
「白狼亭の正式経費よ」
「正式経費……」
「宿を守るための通信費。帳簿に残す」
ミラさんは真剣に頷いた。
「わかりました。書きます」
その言葉に、エリスが目を細めた。
「ええ。ミラ、あなたが書くべき手紙もある」
「私が?」
「女将として。白狼亭が再開したこと。過去に宿が受けた恩を覚えていること。そして今、助けを求めていること」
ミラさんは少し怯んだ。
「私、うまく書けるでしょうか」
「上手い必要はないわ。女将の言葉で書けばいい」
ミラさんは少し黙り、それから頷いた。
「やってみます」
その日の午後、白狼亭は手紙を書く宿になった。
エリスは要点を整理する。
ハーゲンは宛先と届け方を考える。
ダリオさんは自分の工房について証言を追加する。
バートは灰羽の指示について思い出せる限り話す。
ノアは黒牙の毒草を絵に描く。
これが意外とうまかった。
「ノア、絵が描けるんだな」
「森の薬草を間違えないため」
「わかりやすい」
「人間の字より正確」
「それは否定できない」
ノアは少しだけ得意げだった。
白狼は暖炉前で寝ているように見えたが、手紙の封をする時だけ目を開けた。
ミラさんが白狼の水を少し指先につけ、封蝋に触れる。
すると封蝋に白狼の小さな紋様が浮かんだ。
「これ……」
「白狼亭の封印ね」
エリスが言った。
「下手な貴族印より強いかもしれないわ」
「そんな大げさな」
ミラさんは戸惑ったが、白狼は静かに目を閉じた。
たぶん、許可したのだ。
俺はその横で、古い封筒入れを直していた。
細かい仕事だが、こういうものが整うと手紙が守られる。
紙が折れず、濡れず、届け先まで形を保つ。
情報もまた、修復が必要なものなのだと最近知った。
夕方までに、五通の手紙が完成した。
巡回法官オルディス宛。
西方商業ギルドのベネディクト宛。
薬師マーレン宛。
元王宮警備騎士ラウル宛。
巡礼院の修道女アグネス宛。
ミラさんは最後に、全ての手紙を前にして深く頭を下げた。
「どうか、届きますように」
暖炉の火が、ぱちりと鳴る。
井戸の水音が少し強くなった。
そして宿札が、かたんと揺れた。
外へ出てみると、札の文字が変わっていた。
『届けるべき便りあり』
エリスが小さく笑った。
「本当に働き者の札ね」
「便利ですが、少し忙しいですね」
俺が言うと、ミラさんは札を見上げて微笑んだ。
「でも、白狼亭らしいです」
その夜、ハーゲンの手配で、二通は西方へ向かう商人に託されることになった。
残り三通は、村長の知り合いの早馬使いへ。
白狼亭から、初めて外へ助けを求める便りが出る。
それはミラさんにとって、きっと大きな一歩だった。
夫は一人で証拠を抱えた。
白狼は一匹で森を守った。
でも今は違う。
白狼亭は、過去に救った客へ手を伸ばす。
助けてください、と。
力を貸してください、と。
宿帳に残っていた名前は、ただの過去ではなかった。
白狼亭がつないできた縁だった。
その縁が、今度は白狼亭を救うかもしれない。
俺は宿帳を閉じるミラさんを見ながら思った。
壊れたものを直すには、材料がいる。
この宿にとって、その材料は木材や金具だけではない。
人との縁もまた、修復の材料なのだ。




