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第36話 夫の手帳には、白狼亭を閉じた本当の理由が書かれていた

 食堂の暖炉が、ぱちりと鳴った。


 誰も話さなかった。


 ミラさんは、夫の手帳を両手で持っている。


 その指先が震えていた。


 無理もない。


 亡くなった夫が残した手帳。


 そこに、自分の死が事故ではないかもしれないと書かれていたのだ。


 簡単に読めるものではない。


 けれど、閉じることもできない。


 ミラさんは深く息を吸った。


「……読みます」


 声は震えていた。


 でも、逃げなかった。


「一人で読まなくてもいいです」


 俺が言うと、ミラさんは小さく首を振った。


「いいえ。白狼亭に関わることなら、ここにいる皆さんにも知ってもらうべきです」


 エリスが静かに頷く。


「無理はしないで。途中で止めてもいいわ」


「ありがとうございます」


 ミラさんは手帳に視線を落とした。


 そして、ゆっくり読み始めた。


「『ミラへ。もしこの手帳を君が読んでいるなら、白狼亭はもう一度、火を灯したのだと思う』」


 その一文だけで、ミラさんの目に涙が浮かんだ。


 でも、彼女は続けた。


「『まず謝る。君に地下保管庫のことを話さなかった。話せなかった。白狼亭には、宿主が代々守ってきた役目がある。旅人を泊めること。森の異変を見張ること。そして、森と人の間で起きた争いの証を預かること』」


 エリスが小さく息を呑んだ。


「やっぱり……白狼亭は、昔からそういう場所だったのね」


 ミラさんは次の行へ進む。


「『銀鷲の商隊が来た。王都の商会、ルグランの者たちだ。彼らは森奥の薬草採取を希望した。村長は断った。俺も止めた。だが彼らは、レイヴェル家の許可状を持っていた』」


 エリスの顔が冷たくなる。


「ディオンの許可状ね」


「『許可状には、ディオン・レイヴェルの署名があった。しかし、俺はその署名に違和感を覚えた。正式な公爵家文書にしては、封蝋の押しが浅く、印章の縁がわずかに欠けていた』」


 エリスが目を見開いた。


「待って」


 ミラさんが顔を上げる。


「その記述、すごく重要よ。印章の欠けまで見ていたなら、偽造の可能性がある」


「偽造?」


「少なくとも、ディオン単独で出した私的文書か、公爵家の正式許可に見せかけた偽造文書。父が関与していない証拠になるかもしれない」


 レイヴェル公爵家。


 エリスの父。


 彼が森の違法採取を許したのではなく、ディオンが勝手に名前を使った可能性。


 また一つ、線が太くなった。


 ミラさんは手帳を読み進めた。


「『商隊の中に、銀の手袋をした男がいた。名は名乗らなかった。だが商隊の者たちは、彼を灰羽と呼んでいた』」


 白狼が低く唸った。


 暖炉の火が揺れる。


 灰羽。


 封じ石の前で笑っていた男。


 三年前にも、ここに来ていた。


「『灰羽は森を見て笑った。封じ石の場所を知っているようだった。白狼が何度も遠吠えした。俺は嫌な予感がして、夜に森へ入った』」


 ノアが身を固くした。


「その夜……白狼様が傷ついた夜」


 ミラさんは頷き、続ける。


「『森奥で、彼らが封じ石の周りを掘っているのを見た。薬草採取などではなかった。封じ石の根元から、黒い鉱石のようなものを取り出そうとしていた。灰羽は言った。“黒牙は封じられた災厄ではない。未利用資源だ”と』」


「未利用資源……」


 俺は思わず呟いた。


 吐き気がした。


 黒牙を、森を腐らせる災厄ではなく、利用できる資源として見ていた。


 だから封じ石を壊した。


 白狼を傷つけた。


 水脈を濁らせた。


 ノアの拳が震えている。


「人間は……本当に……」


 怒りで声が途切れていた。


 ミラさんは、涙をこらえながら読んだ。


「『白狼が飛び込んだ。灰羽は銀の手袋で黒い楔を封じ石に打ち込んだ。白狼はそれを止めようとして傷を負った。俺は白狼を助けようとしたが、灰羽に見つかった』」


 食堂が静まり返る。


「『灰羽は俺を殺さなかった。代わりに言った。“宿主なら、宿に戻って火を守れ。どうせすぐに火は弱る。森も宿も、人の欲には勝てない”と』」


 白狼が喉の奥で低く鳴った。


 悔しさの混じった声だった。


 ミラさんの声が震える。


「『俺は地下保管庫に、彼らが落とした金具と、偽造許可状の写しを隠した。翌朝、井戸が濁った。湯殿の火が弱った。白狼は姿を消した。ミラには言えなかった。言えば、君は森へ行こうとしただろう』」


「……行きました」


 ミラさんは手帳から顔を上げずに言った。


「きっと、行きました」


 誰も否定しなかった。


 彼女はそういう人だ。


 困った客を放っておけない。


 傷ついた白狼を放っておけない。


 森で何かが起きていると知れば、きっと止めても行っただろう。


「『俺は証拠を王都へ送ろうとした。だが、その前に監査局の者が来た。名はセドリック・モーン。彼は白狼亭の営業記録と井戸の状態を確認し、“この宿は危険な水源を管理できていない”と言った』」


 エリスの目が細くなる。


「セドリック……三年前から関わっていた」


「『彼は丁寧な声で言った。“この件を騒げば、白狼亭は営業停止になる。女将にも責任が及ぶ”と。俺は証拠を出せなかった。情けない。だが、君を守りたかった』」


 ミラさんの涙が、手帳の上に落ちそうになった。


 彼女は慌てて顔を上げ、袖で拭った。


「『その後、俺は何度か森へ入った。白狼を探した。井戸の水脈も見た。黒牙の霧は、少しずつ宿へ近づいていた。俺の体にも、黒い痣が出始めた』」


「黒牙の霧に触れすぎたんだ」


 ノアが低く言った。


「人間の体では、長くもたない」


 ミラさんは唇を噛んだ。


「夫は……病気じゃなかった……?」


 彼女の夫は亡くなったと聞いていた。


 けれど詳しい死因は、今まで語られていなかった。


 おそらく、突然倒れたのだろう。


 宿の疲労や病と片付けられた。


 でも本当は、黒牙の霧に侵されていた。


 その原因を作ったのは、灰羽とルグラン商会。


 ミラさんは震える声で、最後のページへ進んだ。


「『もし俺に何かあったら、白狼亭を閉じてもいい。君は自由に生きていい。宿に縛られなくていい』」


 ミラさんの手が止まった。


 そこだけ、読むのに時間がかかった。


「『でも、もし君がもう一度この宿を開けたいと思ったなら、地下保管庫を探してくれ。白狼の鍵は預かり箱の底に隠した。証拠は地下にある。白狼が戻り、宿の火が戻り、君が笑っているなら、その時こそ白狼亭は本当の役目を取り戻す』」


 暖炉の火が、静かに揺れた。


 ミラさんの声は、涙でほとんど消えそうだった。


「『ミラ。君が笑っている時、この宿は一番いい宿になる。俺は建物を直す。君は人を迎える。そう言った約束を、俺は最後まで守れなかった』」


 彼女はそこで一度、目を閉じた。


「『すまない。でも、もし次にこの宿を直してくれる者が現れたなら、その者を信じてほしい。白狼亭は、きっとまだ終わっていない』」


 最後の一文。


 ミラさんは、震える声で読んだ。


「『君がもう一度、ただいまと言える宿でありますように』」


 手帳が閉じられた。


 誰も話せなかった。


 暖炉の火だけが、ぱち、ぱち、と音を立てている。


 白狼がミラさんのそばへ歩いてきた。


 そして、静かに頭を下げた。


 まるで謝るように。


 自分が守りきれなかったことを、ずっと悔いていたのかもしれない。


 ミラさんは白狼の首に腕を回した。


 声を殺して泣いた。


「あなたは……ずっと一人で守ってくれていたんですね……」


 白狼は動かない。


 ただ、ミラさんの涙を受け止めていた。


 ノアは拳を握りしめ、俯いている。


 エリスは静かに目を閉じた。


 ダリオさんも、バートも、ガランさんも、何も言わない。


 これは、ただの証拠ではなかった。


 白狼亭が閉じた理由。


 ミラさんが一人で苦しんできた理由。


 白狼が森へ消えた理由。


 井戸が濁り、湯殿の火が弱り、宿が壊れていった理由。


 その全部が、ようやく言葉になった。


「地下保管庫にあるはずです」


 エリスが静かに言った。


「偽造許可状の写しと、商会が落とした金具。ミラの夫が命がけで残した証拠が」


 ミラさんは涙を拭った。


「探します」


「今すぐでなくてもいい」


 俺が言うと、彼女は首を振った。


「いいえ。今、探します」


 その目は泣き腫らしていた。


 でも、弱くなかった。


「夫が隠してくれたものを、これ以上眠らせたくありません」


 地下保管庫へ降りた。


 今度はガランさんも、ダリオさんも、エリスも、ノアも一緒だ。


 ミラさんは夫の手帳を胸に抱いている。


 白狼も静かに後ろからついてきた。


 地下の石室。


 預かり箱を置いた石台の奥に、古い棚がある。


 ミラさんが白狼の鍵を近づけると、棚の底板がわずかに光った。


「ここだ」


 俺は手を当てる。


 隠し棚だ。


 ただ、錆びついて開かなくなっている。


「ダリオさん」


「はい」


 ダリオさんが金具を見る。


「開けられます。ただ、無理にこじると中身を傷めます」


「ゆっくりやりましょう」


 俺は金具の記憶を少しだけ戻す。


 ダリオさんが細い針で留め具を外す。


 ガランさんが棚を支える。


 ミラさんが鍵を回す。


 かちり。


 隠し棚が開いた。


 中には、油布に包まれた薄い束と、小さな金属片があった。


 油布を開く。


 まず出てきたのは、銀鷲の刻印入り金具。


 ルグラン商会のもの。


 そして、封蝋の写しが残る許可状。


 そこには、ディオン・レイヴェルの署名。


 しかし、エリスが見た瞬間に言った。


「これは父の家印ではない」


「わかるのか?」


「ええ。似せているけれど違う。月桂樹の葉の数が一枚足りない。公爵家の正式印なら、こんな間違いはあり得ない」


 つまり、偽造。


 ディオンが父の権威を使って、ルグラン商会に森へ入る口実を与えた証拠。


 エリスの父が森を壊したのではない。


 むしろ、彼は後からそれを調べ、殺された可能性が高い。


 ミラさんの夫が命がけで残した証拠は、エリスの冤罪にもつながる鍵だった。


 エリスの手が震えていた。


「父は……やっぱり関わっていなかった」


 声は小さかった。


 でも、その中には深い安堵と怒りが混じっていた。


 ミラさんは証拠を見つめた。


「夫は、これを守って……」


「はい」


 俺は静かに言った。


「白狼亭の宿主として、守ったんだと思います」


 ミラさんは涙をこぼしながら、少しだけ笑った。


「最後まで、宿主だったんですね」


 白狼が低く鳴いた。


 その声は、悲しみと誇りを両方含んでいるようだった。


 地上へ戻り、証拠は預かり箱へ移された。


 ミラさんが両手を置く。


「白狼亭の女将として、この証を預かります」


 箱の白狼紋が、今までで一番強く光った。


 そして、宿札が外でかたんと鳴る。


 誰かが見に行くと、文字が変わっていた。


『守るべき客あり』

『預かるべき証あり』

『果たすべき約束あり』


 ミラさんはその札を見て、涙の跡が残る顔で笑った。


「はい」


 彼女は小さく答えた。


「約束を、果たします」


 白狼亭が閉じた本当の理由は、悲しいものだった。


 でも、同時にそれは終わりではなかった。


 夫が残した証拠。


 白狼が守った森。


 ミラさんがもう一度開けた宿。


 その全部が、今つながった。


 壊れた真実は、ようやく修復され始めたのだった。

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