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第35話 古い鍵束を直したら、白狼亭に地下の保管庫があった

 その夜、白狼亭の帳場で小さな音がした。


 かちり。


 最初は、薪が爆ぜた音かと思った。


 けれど暖炉の火は食堂の奥で静かに燃えている。

 扉も閉まっている。

 窓も、ダリオさんが直してくれたおかげで妙な音を立てない。


 もう一度。


 かちり。


「……預かり箱?」


 俺はランタンを持って帳場へ向かった。


 奥の棚に置かれた預かり箱が、淡く光っていた。


 昨夜、ダリオさんの親方が残した証拠を入れた箱だ。

 白狼亭が、客の秘密と証拠を預かるために目を覚ました古い箱。


 その蓋の白狼紋が、呼吸するように明滅している。


「おい、どうした」


 俺が声をかけると、背後で床板がきゅ、と鳴った。


 ノアだった。


「箱が起きてる」


「そう見えるな」


「外から、何か探してる匂いがする」


「外?」


 俺は玄関の方を見る。


 夜の白狼亭は静かだ。


 だが、ノアの耳はぴんと立っている。


「人じゃない。魔力。細い糸みたいなものが、箱を探してる」


 探知か。


 王都か、ルグラン商会か、灰羽か。

 誰かが、証拠の気配を探っている。


 預かり箱は、それに反応しているのだ。


「起こした方がいい人は?」


「エリス。あとミラ」


「白狼は?」


 その瞬間、暖炉前で寝ていた白狼が、すでに目を開けていた。


 完全に起きている。


 金色の瞳が帳場を見ていた。


「……起きてたな」


 白狼は鼻を鳴らした。


 当然だ、と言っているようだった。


 すぐにミラさんとエリスが降りてきた。


 エリスは寝間着の上に外套を羽織っただけなのに、なぜかすでに戦闘態勢の顔をしている。


「探知?」


「ノアがそう言っています」


「早いわね。昨日預けたばかりなのに」


「王都側も焦っている?」


「あるいは、セドリックが帰り道ですぐ報告したか」


 エリスは預かり箱へ近づいた。


「開けられる?」


 俺は箱に手を当てた。


 箱は拒まない。


 だが、ただ開けろと言っているわけでもない。


 もっと別のものを示している。


 預かり箱の底。


「……下?」


「下?」


 ミラさんが首をかしげる。


 俺は箱を慎重に持ち上げた。


 すると、箱の底板の一部に細い切れ目があるのに気づいた。


 昨日はなかった。


 いや、あったのに見えなかったのかもしれない。


 ダリオさんを起こすべきか迷っていると、本人が食堂へ降りてきた。


「今、扉が鳴りました」


「扉?」


「はい。帳場の棚の扉が、“職人を呼べ”という音を」


 すごいな、建具職人。


 扉が呼ぶのか。


 ダリオさんは預かり箱の底を見て、すぐに目を細めた。


「隠し底ですね。ですが、鍵ではなく、順番で開く仕組みです」


「順番?」


「この白狼紋の角、耳、尾。押す順番がある」


 ミラさんが小さく息を呑んだ。


「夫が、貴重品箱には“狼の挨拶”があるって言っていた気がします」


「狼の挨拶……?」


「耳、鼻、尾、足、だったような」


 白狼が非常に微妙な顔をした。


 それは本当に狼の挨拶なのか、と言いたげだ。


 ダリオさんが言われた通りに紋を押す。


 耳。

 鼻。

 尾。

 足。


 かちり。


 底板が外れた。


 中から出てきたのは、古い鍵束だった。


 大小さまざまな鍵が七本。

 どれも錆びている。

 だが一本だけ、白狼の形をした持ち手がついている。


 ミラさんは震える手でそれを取った。


「これ……夫がいつも腰に下げていた鍵束です」


「どこの鍵か、わかりますか?」


「全部はわかりません。でも、この白狼の鍵は……見たことがありません」


 白狼の鍵が、淡く光った。


 その瞬間、預かり箱の中に刻まれていた文字が少し変わった。


『預かりきれぬものは、地下へ』


 全員が黙った。


「地下?」


 俺が呟くと、ミラさんも困惑したように首を振る。


「地下室なんて、聞いたことありません」


 エリスの目が鋭くなる。


「あるわね。この宿なら」


「断言するんですね」


「むしろ、ない方がおかしいもの」


 たしかに。


 白狼亭は、星見の間も、湯殿も、風読みも、預かり箱も持っていた。


 森と旅人を守る宿なら、重要な物を保管する場所があっても不思議ではない。


 問題は、どこにあるかだ。


 その時、白狼が立ち上がった。


 静かに食堂を横切り、厨房の奥へ向かう。


 俺たちは顔を見合わせ、後を追った。


 厨房の奥。


 古い食材棚の横に、使っていない床板がある。


 何度も通った場所だ。


 だが、白狼はその床板の前で止まり、前脚で軽く叩いた。


 こつん。


 音が違う。


 空洞だ。


「ここか」


 ガランさんがいれば大喜びしそうだが、今は寝ている。

 起こすと絶対に「地下だと!?」と言いながら飛んでくるだろう。


 ミラさんが白狼の鍵を床板の隙間へ近づけると、木目の中に鍵穴が浮かび上がった。


「……本当にある」


 鍵を差し込む。


 回す。


 ごとん、と重い音がして、床板の一部が持ち上がった。


 下へ続く石の階段。


 冷たい空気が流れてくる。


 だが、嫌な空気ではない。


 湿気はある。

 古さもある。


 けれど、腐ってはいない。


「地下保管庫ね」


 エリスが低く言った。


「白狼亭、どこまで本格的なのよ」


「俺も知りたいです」


 ランタンを掲げ、俺が先に降りる。


 ミラさん、エリス、ノア、ダリオさんが続く。

 白狼は入口で待つかと思ったが、当然のように階段を降りてきた。


 体が大きいのに、なぜか通れる。


 この宿、白狼が通る前提で作られているのかもしれない。


 地下は、小さな石室だった。


 壁には棚。

 古い箱。

 布に包まれた書類。

 錆びた燭台。

 そして中央に、白狼紋のついた大きな石台がある。


 石台には文字が刻まれていた。


『白狼亭保管庫

 客の預かり物、森の記録、宿の誓約を守る場所』


 エリスが、息を呑むように言った。


「これは……証拠保管には最適ね」


「探知除けもあります」


 俺は壁に手を当てた。


 地下全体に、古い術式が通っている。


 外からの探知を逸らし、火と水から守り、許可のない者が開けようとすれば宿の火へ知らせる仕組み。


 弱ってはいるが、まだ生きている。


「少し直せば、預かり箱よりずっと強く守れます」


 ミラさんは地下室を見回していた。


「夫は、ここを知っていたんでしょうか」


「たぶん」


 俺は思わず言って、すぐ訂正する。


「……知っていたと思います」


 白狼の鍵が彼の鍵束にあったのだから。


 ミラさんは小さく頷いた。


「私には、言わなかったんですね」


 その声に少しだけ寂しさが混じる。


 だが、白狼がミラさんのそばへ寄り、鼻先で彼女の手を押した。


 ミラさんは白狼を見た。


 その時、地下室の奥の棚で、一冊の手帳が淡く光った。


 ミラさんがそれを手に取る。


 表紙には、彼女の夫の字でこう書かれていた。


『ミラへ

 白狼が戻り、君がもう一度この宿を開ける日に』


 ミラさんの手が震えた。


 誰もすぐには話さなかった。


 エリスでさえ、静かに目を伏せる。


「……読んでも、いいでしょうか」


 ミラさんの声は震えていた。


「もちろんです」


 俺が答えると、ミラさんは手帳を胸に抱えた。


「今は、ここではなくて……上で、読みたいです」


「そうしましょう」


 地下保管庫に、ダリオさんの親方が残した証拠を移すことにした。


 預かり箱ごと運び込み、石台の上に置く。


 ミラさんが手を置き、言った。


「白狼亭の女将として、この証を地下保管庫へ預けます」


 石台の白狼紋が光る。


 壁の術式が薄く目を覚ます。


 外から伸びていた探知の糸が、ぷつりと切れる感覚がした。


 ノアが耳を動かす。


「探してた匂い、消えた」


「守れた?」


「うん。今は」


 エリスがほっと息を吐いた。


「これで少なくとも、簡単には見つからないわ」


 地上へ戻ると、食堂の暖炉が強く燃えていた。


 まるで地下保管庫の目覚めを喜んでいるように。


 ミラさんはテーブルに座り、夫の手帳を前に置いた。


 皆が少し距離を取る。


 これは、彼女が最初に読むべきものだ。


 ミラさんはゆっくり表紙を開いた。


 そして、一行目を読んだ瞬間、目を見開いた。


「……そんな」


「ミラさん?」


 彼女は唇を震わせながら、手帳の文字を見つめている。


「夫は……自分が事故で死んだんじゃないかもしれないって、書いています」


 食堂の空気が凍った。


 白狼が低く唸る。


 エリスの顔から表情が消えた。


 ミラさんは、震える声で続けた。


「三年前、銀鷲の商隊が来た夜。夫は、地下保管庫に何かを隠した……そして、その翌日に……」


 手帳のページが、暖炉の光に揺れる。


 ルグラン商会。


 黒牙。


 ディオン。


 エリスの父の死。


 そして、ミラさんの夫の死。


 また一本、線がつながろうとしていた。


 白狼亭は、証拠を守る場所を取り戻した。


 けれど同時に、女将がずっと抱えてきた悲しみの奥にも、まだ壊れた真実が眠っていることを知ってしまった。

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