第34話 壊れた預かり箱は、客の秘密を覚えていた
白狼亭は、証拠まで預かる宿になった。
そう言うと格好いい。
けれど現実は、食堂のテーブルに危険な書類と銀の鳥の金具が広げられている状態だった。
「このまま置いておくのは、かなりまずいわ」
エリスが言った。
彼女の前には、ダリオさんの親方が残した書類。
ルグラン商会の内部発注書。
粗悪な建具を意図的に作らせた指示。
検査免除に関する署名。
そして、監査官セドリック・モーンの名。
これだけでも十分に危険だ。
しかも白狼亭には、森の違法採取、封じ石、黒牙、ディオンに関する記録まで集まり始めている。
宿というより、だんだん不正告発保管所になってきた。
「隠し場所が必要ですね」
俺が言うと、エリスは頷いた。
「ただ隠すだけでは駄目。火事、水濡れ、盗難、魔術探知。全部考える必要がある」
「宿の規模に対して、求められる防犯性能が高すぎませんか」
「敵が王都と商会だから仕方ないわ」
仕方ない、の範囲が広い。
ミラさんは宿帳を胸に抱えていた。
「昔、帳場に預かり箱があったはずです」
「預かり箱?」
「貴重品をお客様から預かるための箱です。夫が使っていました。今は……たぶん奥の棚に」
「見ましょう」
帳場の奥。
埃をかぶった棚をどかすと、そこに古い木箱があった。
大きさは膝くらいまで。
黒ずんだ木製で、四隅に金具。
蓋には白狼の小さな紋章。
ただ、鍵穴は錆び、蓋は歪み、底板も少し浮いている。
「これが預かり箱です」
ミラさんがそっと触れる。
「夫は、旅人の財布や手紙、大事な荷札なんかを預かる時に使っていました」
ダリオさんが近づいて、箱を見た。
「木はいいものです。かなり古いですが、まだ芯があります」
「魔導具でもありますね」
俺は箱の表面に手を近づけた。
普通の木箱ではない。
触れる前から、かすかな流れを感じる。
守るための流れ。
隠すためではなく、預かったものを持ち主へ返すための流れ。
「直せる?」
エリスが聞く。
「たぶん」
「今日はその“たぶん”で許すわ。慎重に」
許可が出た。
俺は箱の前に膝をつき、蓋に手を当てた。
記憶が流れ込む。
雨の日に財布を預ける商人。
大事な手紙を震える手で渡す兵士。
旅の楽師が小さな銀笛を入れる。
ミラさんの夫が箱に手を置き、静かに言う。
『白狼亭に預けたものは、白狼亭が守る。夜が明けたら、必ず持ち主へ返す』
いい言葉だった。
けれど、記憶はそこで少し濁った。
夫が亡くなった後、ミラさんが一度だけこの箱を開けようとしている。
しかし鍵が回らない。
蓋も開かない。
彼女は少し泣いて、結局そのまま棚の奥へしまった。
箱は、ずっと待っていた。
もう一度、何かを守る日を。
「……戻れ」
指先に淡い光が灯る。
錆びた鍵穴がきしみ、金具の歪みが整っていく。
浮いた底板が収まり、蓋の隙間が閉じる。
だが、完全に光を流し込もうとした瞬間、箱の奥から拒むような感覚が返ってきた。
「ん?」
「どうしたの?」
エリスが身を乗り出す。
「俺だけでは駄目みたいです」
「鍵が必要?」
「鍵というより……女将の許可が必要です」
全員の視線がミラさんへ向いた。
ミラさんは少し驚いたように自分を指差す。
「私ですか?」
「はい。この箱は、白狼亭の女将が預かるものを決める箱です」
ミラさんは一度深く息を吸った。
そして箱の前に膝をつき、両手を蓋に重ねる。
「白狼亭の女将、ミラです」
その声は静かだった。
「この証拠を預かります。お客様と、森と、白狼亭を守るために」
箱の白狼紋が淡く光った。
かちり。
鍵が、内側から開いた音がした。
ミラさんが蓋を持ち上げる。
中は、思ったより綺麗だった。
古い布が敷かれ、小さな仕切りがある。
底には白狼の紋様。
そして内側の蓋に、細い文字が刻まれていた。
『預かるは物にあらず。
その者の帰る道なり。』
ミラさんが、その文字を指でなぞった。
「帰る道……」
「白狼亭らしいわね」
エリスの声が少し柔らかくなる。
俺は箱の内側に手を当てた。
まだ術式が弱っている。
でも、女将の許可が入ったことで流れは戻った。
「これなら、探知除けくらいは働きます。火や水にも多少強い。ただ、王都の本格魔術に耐えるには補強が必要です」
「補強できる?」
「できます。ただし、今日は軽く」
ミラさんとノアと白狼の視線が刺さった。
「本当に軽く」
俺は付け加えた。
白狼が鼻を鳴らす。
どうやら許されたらしい。
エリスは書類を一枚ずつ整理した。
「証拠は三つに分けるわ。原本、写し、要約。原本はこの預かり箱。写しは別の場所。要約は私が持つ。全部一箇所に置くのは危険」
「戦みたいですね」
ミラさんが小さく言う。
「戦よ。剣ではなく紙の」
エリスは淡々と答えた。
ダリオさんは書類を見つめ、震える手で一枚を取った。
「これは、親方の字です」
「確認できる?」
「はい。発注書の端に、親方が書いた印があります。これは工房で使っていた寸法記号です。外部の人間にはわかりません」
エリスの目が鋭くなる。
「重要ね。それを証言に書いて」
「はい」
ダリオさんはペンを握った。
少し時間をかけて、証言を書き始める。
字は丁寧だが、ところどころ震えていた。
ミラさんがそっと温かい薬草茶を置く。
「急がなくて大丈夫です」
ダリオさんは小さく頷いた。
「ありがとうございます」
その横でバートが落ち着かない様子で立っていた。
「俺も、何か書いた方がいいのか?」
エリスが顔を上げる。
「もちろん。あなたはルグラン商会の内部にいた。灰羽の指示、黒い粉、荷の回収、商会の扱い。全部証言にする」
「字、汚いぞ」
「読めればいいわ」
「読めないかもしれねぇ」
「なら口述。私が書く。最後にあなたが確認して印を押す」
バートは気まずそうに頭をかいた。
「……頼む」
その声に、以前の刺々しさは少なかった。
自分が何かを変える側に回れるかもしれない。
そう感じ始めているのかもしれない。
昼過ぎまで、白狼亭は証言作成の場になった。
ダリオさんの工房。
親方の名。
ルグラン商会の量産建具。
監査局の査察。
セドリックの署名。
バートたち下働きの証言。
黒い粉。
灰羽。
封じ石。
エリスは全てを分類していく。
「これは建具不正。これは監査局癒着。これは森の違法採取。これは黒牙関連。これはディオンへつながる可能性あり」
「頭、疲れませんか?」
俺が聞くと、エリスは顔を上げずに答えた。
「疲れるわ。でも、こういうのは得意なの」
「公爵令嬢だから?」
「父に仕込まれたの。書類は剣より深く刺さることがある、と」
その父は、もういない。
そしてエリスは、その父を殺した罪を着せられている。
彼女が今、紙を武器に戦おうとしているのは、きっと父から受け継いだものなのだろう。
預かり箱に、最初の証拠が入れられた。
ミラさんが蓋を閉じる。
かちり。
鍵が閉まる音。
その瞬間、箱の白狼紋が淡く光った。
食堂の暖炉も、ぱちりと鳴る。
井戸からは、かすかな水音。
宿全体が、証拠を預かったことを認めたようだった。
「これで安全?」
ミラさんが尋ねる。
「絶対ではありません」
エリスが答える。
「でも、テーブルに置いておくよりはずっといいわ」
「絶対じゃないんですね」
「絶対は、だいたい嘘よ」
エリスらしい答えだった。
その時、二階からリリの声がした。
「白い狼さん、どこ?」
白狼が暖炉前で耳を動かす。
ミラさんがすぐに階段へ向かう。
「ここにいますよ。でも、リリちゃんはまだ寝ていないと」
「ちょっとだけ……」
白狼は面倒そうに立ち上がった。
そして当然のように二階へ向かう。
最近、白狼は完全に子供対応係になりつつある。
ノアがそれを見て、少し誇らしそうにしていた。
「白狼様は優しい」
「そうだな」
「でも、乗せない」
「トマには言っておく」
ちょうどその時、トマが玄関から顔を出した。
「何を?」
「白狼には乗るな」
「なんで俺だけ先に言われるの!?」
「実績があるから」
食堂に笑いが起きた。
重い証拠を預かった直後なのに、こうして笑いが戻る。
白狼亭らしいと思った。
夕方。
ダリオさんは食堂の扉をもう一度点検していた。
「少し音が変わりました」
「え?」
俺が近づくと、彼は扉をそっと動かす。
すう。
音は昨日よりさらに柔らかい。
「預かり箱が動いたからでしょうか。宿の内側の空気が変わっています。扉も、それに合わせて落ち着いた」
「扉でそこまでわかるんですか」
「ルカさんほどではありません」
「俺は扉の音までは」
「でも、記憶が見えるでしょう?」
そう言って、ダリオさんは少し笑った。
「職人にも、いろいろありますね」
「はい」
俺も笑った。
白狼亭には、少しずつ役割が増えている。
女将。
修繕士。
支配人のような公爵令嬢。
森の番人。
建具職人。
大工。
商人。
元商会下働き。
そして白狼。
変な宿だ。
でも、強い宿になりつつある。
夜、預かり箱は帳場の奥へ置かれた。
ただし、ただの棚ではない。
ダリオさんが棚の扉を直し、俺が軽く探知除けを補強し、ミラさんが白狼の水で拭いた。
最後にノアが森の香草を一束置く。
「これ、虫除けと悪い匂い除け」
「証拠箱に虫除け」
「紙を食べる虫、いる」
「それは大事だな」
エリスが真面目に頷く。
「紙の敵は人間だけではないわ」
戦う相手が増えた。
外では、宿札が静かに揺れていた。
『本日、守るべき客あり』
『預かるべき証あり』
その二つの文字は、日が暮れても消えなかった。
ミラさんはそれを見て、少し困ったように笑った。
「普通の宿札に戻る日は来るんでしょうか」
「来ると思います」
俺は答えた。
「でも、今日はこれでいい気がします」
「そうですね」
彼女は頷いた。
「今日は、守るものが多い日ですから」
その夜。
白狼亭の扉は、静かに閉じられた。
食堂の暖炉は燃え、井戸は水音を立て、二階ではサナさんとリリが眠っている。
帳場の奥には、預かり箱。
その中には、王都を揺らすかもしれない証拠。
白狼亭は、また一つ役目を取り戻した。
ただ泊めるだけではない。
客の荷を預かり、秘密を守り、帰る道をつなぐ宿。
その役目は、思っていたよりずっと重い。
でも、俺たちはもう知っている。
壊れたものは、一つずつ直せばいい。
重いものは、一人で持たず、みんなで支えればいい。
白狼亭の夜は、静かに深まっていった。




