第33話 守るべき客は、王都の証拠を持っていた
朝焼けの部屋は、静かに息をしていた。
昨日まで雨漏りの匂いが残っていた部屋だ。
床はまだ古く、壁紙もところどころ浮いている。
それでも今は違う。
窓の隙間風は止まり、壁に描かれた白狼の絵は淡く光り、部屋全体が薄い毛布のような温かさを抱いていた。
ベッドではサナさんが眠っている。
熱はまだ完全には下がっていない。
けれど、呼吸はさっきよりずっと穏やかだった。
その横で、リリは白狼の毛に手を埋めたまま、こくりこくりと船を漕いでいる。
白狼は動かない。
まるで巨大な白い毛布みたいに、ベッドのそばで伏せていた。
「白狼様、疲れていませんか?」
ミラさんが小声で尋ねる。
白狼は片目だけ開け、鼻を鳴らした。
大丈夫、というより、心配するな、に近い顔だった。
ノアは腕を組んで白狼を見ている。
「強がってる」
白狼の耳がぴくりと動く。
「でも、さっきより傷は落ち着いてる。部屋が支えてるから」
ノアは壁の白狼絵に視線を向けた。
「この部屋、客を守る部屋だったんだね」
「たぶん」
俺が言うと、ノアがこちらを見た。
「たぶんじゃなくて、そう」
「……そうだな」
朝焼けの部屋。
旅立つ客を見送る部屋であり、弱った旅人を休ませる部屋でもあった。
白狼亭の客室は、ただ寝るための箱じゃない。
誰かの夜を預かる場所だ。
「ルカさん」
ミラさんが俺の手を見た。
「痛みは?」
「少しだけです」
「少し、ですね」
「本当に少しです」
ミラさんは疑わしそうだったが、今回は追及しなかった。
たぶん、サナさんの看病を優先したのだろう。
その時、ベッドの上でサナさんの指がかすかに動いた。
リリがはっと顔を上げる。
「おかあさん?」
サナさんの目が薄く開いた。
焦点はまだ定まっていない。
けれど、意識は少し戻っている。
「リリ……」
「おかあさん!」
「静かにね」
ミラさんが優しく声をかける。
リリは慌てて口を押さえた。
サナさんは、ぼんやりと部屋を見回した。
白狼を見て、少しだけ目を見開く。
「夢……?」
「夢じゃないよ。白い狼さん、ずっといてくれたの」
リリが小さな声で言う。
サナさんの目から、涙が一筋こぼれた。
「そう……助けて、もらったのね……」
白狼は何も答えない。
ただ、静かに目を閉じた。
サナさんは次にミラさんを見た。
「あなたが……女将さん……?」
「はい。白狼亭のミラです」
「ありがとうございます……夫と娘を……」
「まだお礼は早いです。まずは元気になってください」
ミラさんはそう言って、薬草水を匙ですくった。
「少し飲めますか?」
「はい……」
サナさんは少しずつ薬草水を飲んだ。
喉が動くたび、リリの表情が明るくなる。
その光景を見ていると、胸の奥がじわりと温かくなった。
大きな陰謀も、王都の監査も、黒牙もある。
でも今は、この一口の水が何より大事だった。
「……ダリオは?」
サナさんが尋ねた。
「下で扉を直しています」
俺が答えると、サナさんは少しだけ笑った。
「あの人らしい……」
声は弱い。
でも、そこには確かに安堵があった。
「ずっと……仕事を失ってから、自分は役立たずだって……」
ミラさんが静かに首を振る。
「そんなことありません。ダリオさんのおかげで、食堂の扉も客室の扉も息を吹き返しました」
「息を……」
サナさんはゆっくり瞬きをした。
「そう言ってもらえたら……あの人、きっと泣きます」
「もう少しで泣きそうでした」
俺が言うと、リリが小さく笑った。
「おとうさん、すぐ泣くよ」
サナさんも弱く笑った。
部屋の空気が少し緩む。
その瞬間、サナさんの視線が自分の荷物へ向いた。
部屋の隅に置かれた、小さな旅行鞄。
「あれ……」
「鞄ですか?」
「中に……黒い布の包みが……」
その言葉で、ノアの耳が立った。
「黒い?」
俺も鞄を見た。
嫌な予感がする。
「王都を出る前……夫の工房の親方が、私に渡したものです」
「親方さんが?」
「もし白狼亭へ辿り着けたら……女将に渡してくれと……」
部屋の空気が変わった。
ミラさんが俺を見る。
俺は鞄へ近づいた。
「開けても?」
サナさんは小さく頷いた。
鞄の中には、着替えと布、そして底の方に黒い油布で包まれた小さな箱があった。
ノアが鼻を動かす。
「ルグラン商会の油の匂い。でも、黒牙の粉じゃない」
「危険は?」
「今すぐではないと思う」
俺は慎重に油布を開いた。
中から出てきたのは、細長い木箱だった。
鍵はかかっていない。
蓋を開けると、中には数枚の紙と、小さな金具が入っていた。
金具には、銀の鳥の刻印。
ルグラン商会。
ミラさんの表情が険しくなる。
「これは……」
俺は紙を取り出した。
文字が細かい。
王都の商業文書だろう。
俺には読めるが、細かい契約文は得意じゃない。
「エリスさんに見せましょう」
そう言った瞬間、サナさんが俺の袖を掴んだ。
「待って……」
「どうしました?」
「あの紙を……外に出す時は、気をつけて……親方は、それを持っていたせいで……工房を潰されたと……」
サナさんの手が震えている。
「ルグラン商会は、ただ安物を売ったんじゃない……古い工房の図面や技術を盗んで……わざと壊れやすい建具を作っていたって……」
ダリオの工房が潰された理由。
安い量産品に負けただけではなかった。
技術を盗まれ、劣化品にされ、市場を壊された。
「その証拠か」
俺が呟くと、サナさんは小さく頷いた。
「親方は……王都で訴えようとした。でも、監査局に行った翌日、工房に査察が入って……」
監査局。
セドリックの顔が浮かんだ。
きれいに撫でつけられた髪。
薄い笑み。
銀瓶。
「ミラさん」
「はい」
「これは、かなり大事なものかもしれません」
ミラさんはすぐに頷いた。
「食堂へ。エリスさんとハーゲンさんにも見てもらいましょう」
「でも、サナさんは」
「私はここに残ります。ノアさん、白狼様と一緒にいてもらえますか?」
ノアは頷いた。
「いる」
白狼も静かに目を閉じた。
守るべき客あり。
宿札の言葉は、このことも示していたのかもしれない。
俺とミラさんは、木箱を持って食堂へ降りた。
食堂では、ダリオが扉の調整をしていた。
俺たちの顔を見て、すぐに手を止める。
「妻に何か?」
「意識が戻りました。今は落ち着いています」
ミラさんが答えると、ダリオの肩から力が抜けた。
「よかった……」
「ただ、サナさんから預かっていたものが」
木箱を見せると、ダリオの顔色が変わった。
「それ……親方の……」
「知っているんですか?」
ダリオはゆっくり頷いた。
「親方が最後まで隠していた箱です。王都を出る時、妻に渡していたなんて……」
エリスがすぐに席を立った。
「見せて」
木箱の中身をテーブルに広げる。
エリスの目が、文書を追うたびに鋭くなっていった。
ハーゲンも隣から覗き込み、表情を変える。
「これは……」
「何かわかりましたか?」
俺が尋ねると、エリスは一枚の紙を指で叩いた。
「ルグラン商会の内部発注書の写しよ。建具工房から入手した設計をもとに、材質を落とした量産品を作る指示がある」
ハーゲンが頷く。
「こちらには納入先。王都の下級貴族邸、商会倉庫、役所の一部。さらに……商業監査局の庁舎修繕分まであります」
「監査局も?」
ミラさんが息を呑む。
エリスは別の紙を見た。
「もっとまずいわ。ここに、検査免除の署名がある」
「誰の?」
エリスは冷たい声で言った。
「セドリック・モーン」
食堂の空気が凍った。
さっき来た監査官。
白狼亭の水を瓶に詰めたがった男。
彼は、ルグラン商会の粗悪品納入にも関わっていた。
ダリオが拳を震わせる。
「親方は……これを掴んだから……」
「おそらく潰された」
エリスは言った。
容赦ないが、誤魔化さなかった。
「でも、これはかなり強い証拠よ。ルグラン商会と監査局の癒着を示せる」
ハーゲンが慎重な顔をする。
「ただし、これだけで王都へ訴えるのは危険です。握り潰される可能性が高い」
「ええ。だから、証拠を増やす」
エリスの目が燃えていた。
「建具の件、水の件、森の違法採取、封じ石、ディオン、父の死。全部別々に見えていたけれど、根は同じかもしれない」
「ルグラン商会が、いろんな場所で同じことをしている?」
ミラさんが言うと、エリスは頷いた。
「価値あるものを見つける。奪う。劣化させて売る。邪魔者を潰す。監査局で合法に見せる」
バートが低く言った。
「商会のやり方、そのままだ」
ダリオは木箱の中の小さな金具を見つめていた。
銀の鳥の刻印。
彼の工房を潰した印。
「私に……何ができますか」
声が震えていた。
怒りと恐怖と、少しの希望が混じった声。
エリスはダリオを見た。
「まず、あなたの証言を記録する。工房の名前、親方の名前、取引経緯、査察の日付。次に、この文書が本物かどうか、あなたがわかる範囲で確認して」
「はい」
「それから、白狼亭の建具修繕を続けて」
ダリオは驚いた顔をする。
「それも?」
「ええ。あなたが直した扉や窓は、ルグラン商会の粗悪品と比べるための実例になる。良い職人の仕事が、どれだけ価値を持つかを示せる」
「私の仕事が……証拠になるんですか?」
「なるわ」
エリスはきっぱり言った。
「壊れにくいものを作る人間がいた。壊れやすいものを売る商会が、それを潰した。その構図を見せるの」
ダリオは唇を噛んだ。
そして、ゆっくり頭を下げた。
「やります」
その時、玄関の宿札がかたんと鳴った。
ミラさんが外を見る。
札はまた裏返っていた。
さっきまでの文字。
『本日、守るべき客あり』
その下に、新しい文字が薄く浮かび上がっていた。
『預かるべき証あり』
エリスが小さく息を吐いた。
「本当に、この宿は空気を読むわね」
「便利なのか怖いのかわかりません」
俺が言うと、白狼が二階から低く鳴いた。
まるで、余計なことを言うな、と言っているようだった。
ミラさんは宿札を見て、まっすぐ立った。
「では、白狼亭で預かります」
その声には、もう迷いがなかった。
「お客様も、証拠も。どちらも守ります」
食堂の暖炉が、ぱちりと鳴った。
井戸の水音が、外から静かに聞こえる。
白狼亭は、また一つ危険なものを抱え込んだ。
でも同時に、戦うための材料も手に入れた。
壊れた扉を直す音が、王都の不正を暴く証拠になる。
そんなことがあるのかと思う。
けれど、この宿ならあり得る。
白狼亭は、壊れたものを捨てない。
人も、物も、記録も、仕事も。
拾って、直して、もう一度役目を与える。
そして今度は、証拠まで預かる宿になった。




