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第32話 監査官が去ったあと、宿札は勝手に裏返った

 王都商業監査局の黒塗り馬車が見えなくなってからも、白狼亭の前にはしばらく沈黙が残っていた。


 雨上がりの土道に、馬車の轍だけがくっきり残っている。


 それを見ていると、まるで王都の指が、白狼亭の玄関先まで伸びてきたようだった。


「……嫌な人だった」


 ノアがぽつりと言った。


 かなり素直な感想だった。


「同感です」


 俺も答える。


「笑ってたけど、笑ってなかった」


「そういう人間、森では一番危ない」


「王都でも危ない」


 エリスが食堂の入口から言った。


 さっきまで隠れていた彼女は、もういつもの冷静な顔に戻っている。


 だが、目だけは鋭かった。


「セドリック・モーン。名前は聞いたことがあるわ」


「知っているんですか?」


「王都商業監査局の中でも、商会寄りの案件を多く扱う監査官よ。表向きは規則に厳格。裏では、大商会に有利な判断をすることで有名だった」


「つまり、ルグラン商会とつながっている可能性が高い?」


「高いわね」


 エリスは井戸の立て札を見た。


「今日の目的は二つ。白狼亭の水を採取すること。失敗した場合でも、こちらの対応を見て報告すること」


「水を汚すつもりだったのかもしれない」


 ノアの耳が伏せる。


「あの瓶、黒い粉の匂いがした」


「もしあの瓶で水を採っていたら?」


 ミラさんが青ざめた顔で尋ねる。


 ノアは井戸を覗いた。


「水が怒ったと思う。少なくとも、井戸がまた濁る可能性があった」


「そんな……」


 ミラさんは胸元を押さえた。


 せっかく戻った白狼の水。


 それを、正式な検査という名目で汚されかけた。


 その事実は、俺が思っていた以上に重かった。


 セドリックは剣を抜かなかった。


 魔物も連れていなかった。


 でも、銀瓶一つでこの宿の心臓に触れようとしたのだ。


「白狼亭を潰す方法はいくらでもあるってことね」


 エリスが言った。


「水を汚す。未登録営業で止める。危険な獣を飼っていると訴える。逃亡者を匿っていると疑う。税をかける。商会取引を止める。村へ圧力をかける」


「多すぎません?」


 俺が言うと、エリスは淡々と頷いた。


「多いわ。だから一つずつ潰すの」


「潰す」


「守る、と言い換えてもいいわ」


 物騒さが消えない。


 だが、彼女の言うことは正しい。


 灰羽や黒牙のように、目に見える敵ばかりではない。


 規則。

 帳簿。

 許可。

 税。

 噂。


 宿を壊すものは、雨漏りや瘴気だけではないのだ。


 ミラさんはしばらく井戸を見ていた。


 そして、ゆっくり顔を上げた。


「エリスさん」


「何?」


「私、勉強します」


 エリスが少し目を見開く。


「勉強?」


「はい。宿の営業許可とか、水のこととか、税とか、契約とか。今まで夫や村の人に任せて、私は料理と掃除だけできればいいと思っていました」


 ミラさんは自分の手を見た。


 木べらを握ってきた手。

 鍋を混ぜ、パンを焼き、客を迎えてきた手。


「でも、白狼亭を守るなら、知らないままでは駄目なんですよね」


 その声は、弱くなかった。


 怖さはある。


 でも、逃げていない。


 エリスは少しだけ柔らかい顔になった。


「教えるわ。かなり厳しく」


「お、お手柔らかにお願いします」


「無理ね」


「無理なんですか」


「相手は王都と商会よ。手柔らかに学んだら、手柔らかに潰される」


 怖い。


 だが説得力が強すぎた。


 ミラさんは小さく息を呑み、それから真剣に頷いた。


「お願いします」


「任せなさい」


 この瞬間、白狼亭に女将教育が始まったらしい。


 白狼が井戸の横で鼻を鳴らした。


 どこか満足そうだった。


 食堂へ戻ると、空気はまだ張り詰めていた。


 ダリオは扉の前に立ち、さっきセドリックが触れた取っ手を布で拭いている。


 バートは腕を組み、険しい顔をしていた。


「監査局まで来るなら、商会は本気だな」


「やっぱり?」


「ああ。ルグラン商会は、欲しいものがある時、最初は笑って近づく。次に書類が来る。その次に借金か税か契約で縛る。最後に、逃げ場がなくなったところで買い叩く」


 バートの声には実感があった。


「俺がいた工房も、そうでした」


 ダリオが静かに言った。


「最初は良い取引先でした。次に大量発注。こちらが設備を増やしたところで急に値下げ要求。断れば取引停止。残ったのは借金だけ」


「典型的ね」


 エリスが言う。


「つまり次は、白狼亭に甘い契約か、妙な認可話を持ってくる可能性がある」


「水を王都へ卸せ、とか?」


「あり得るわ」


 ミラさんの顔が引き締まる。


「白狼の水は、売り物にしません。宿で使う分と、村で分ける分だけです」


「その方針を、文書にする必要があるわね」


 エリスはすぐ紙を取り出した。


「白狼の井戸管理規則。女将、村長、森の番人、白狼亭修繕士の立ち会いで改定。外部への持ち出し禁止。治療目的の提供は宿内に限る。大量採取禁止。監査・検査は現地確認のみ」


「俺も入るんですか?」


「修繕士として水脈と井戸の状態を見られるのは、あなたでしょう」


「そうですが」


「責任者の一人よ」


 責任者。


 その言葉に少しだけ背筋が伸びた。


 王宮では責任だけ押しつけられ、権限はなかった。


 でもここでは違う。


 守るために名前を置く。


 それは少し怖くて、少し誇らしかった。


 ミラさんが宿帳を持ってきた。


「この宿帳にも、今日のことを書いておきます」


「ええ。かなり重要な記録よ」


 エリスが頷く。


 ミラさんは新しいページを開き、ゆっくり書き始めた。


『王都商業監査局 セドリック・モーン来訪

白狼の井戸水について確認

銀瓶による採取を求められるも、森の番人ノアが異臭を指摘

現地確認のみで一時停止命令なし

今後、正式検査の可能性あり

井戸水の持ち出し制限を再確認』


 書き終えた時、宿帳は光らなかった。


 けれど、紙の上に文字がしっかりと残った。


 それだけで十分だった。


 証拠は、派手に輝かなくてもいい。


 残ることが大事なのだ。


「ミラさん、字が少し強くなりましたね」


 俺が言うと、彼女は照れたように笑った。


「強く書いたつもりはないんですけど」


「いい字よ」


 エリスも言った。


「女将の字になってきたわ」


「女将の字……」


 ミラさんはまた少し嬉しそうにした。


 その時、玄関の外で、かたん、と音がした。


 全員が振り返る。


 風かと思った。


 だが違った。


 玄関横に掛けていた宿札が、勝手に裏返っていた。


「え?」


 ミラさんが外へ出る。


 俺たちも続いた。


 さっきまで表には、


『本日、一組まで宿泊可』


 と書かれていた。


 だが裏返った札には、別の文字が浮かんでいた。


『本日、守るべき客あり』


 誰も声を出さなかった。


 宿札が、勝手に文字を変えた。


 白狼亭では、もう驚くべきではないのかもしれない。


 でも、これは少し重かった。


「守るべき客……」


 ミラさんが呟く。


 その瞬間、二階から小さな咳が聞こえた。


 朝焼けの部屋。


 サナとリリが休んでいる部屋だ。


 ノアの耳が立つ。


「リリじゃない。サナの咳。熱が少し上がってる」


「行きます」


 ミラさんはすぐに二階へ向かった。


 俺も続こうとしたが、白狼が前に出た。


 金色の瞳が階段を見上げている。


 白狼も行くつもりらしい。


 朝焼けの部屋に入ると、サナが苦しそうに額に汗を浮かべていた。


 リリは母親の手を握り、不安そうにしている。


「女将さん……」


「大丈夫。薬草茶を持ってきます」


 ミラさんはすぐに動く。


 ノアがサナの呼吸を確認した。


「熱が戻った。体が悪い水を出そうとしてる。悪いことじゃないけど、体力が足りない」


「白狼の水は?」


「薄めて、少しずつ。あと、白狼様の守りがもう一度必要かも」


 白狼はベッドのそばへ静かに近づいた。


 サナは朦朧とした目で白狼を見た。


「……きれいな、狼……」


 白狼は答えない。


 ただ、ベッドの横で伏せた。


 その体から、淡い白い光が広がる。


 昨日、リリに分けたものより少し強い。


 サナの呼吸が、わずかに落ち着いた。


 だが同時に、白狼の脇腹の傷がまた淡く黒ずんだ。


「白狼様、無理してる」


 ノアの声に緊張が走る。


「白狼!」


 俺が近づくと、白狼は目だけでこちらを制した。


 やめない。


 そう言っているようだった。


 守るべき客あり。


 宿札の文字が頭に浮かぶ。


 白狼亭は、今日この家族を守ると決めたのだ。


 なら、俺にできることは何か。


 サナの体を直接直すことはできない。

 人間は物ではない。


 でも、部屋なら。


 朝焼けの部屋そのものを、病人が休めるよう整えることはできる。


 俺は壁に手を当てた。


 ミラさんに怒られるかもしれない。


 だが今は必要だ。


「部屋の空気を整えます。大きな修復はしません」


 ノアが俺を見る。


「本当?」


「本当」


 白狼も目を向ける。


「本当に」


 俺は深く息を吸った。


 壁、床、窓、扉。


 朝焼けの部屋が覚えているのは、旅立つ客だけではない。


 熱を出した子供。

 怪我をした商人。

 出産前に休んだ旅の女性。

 嵐で動けなくなった老人。


 この部屋は、何度も弱った人を寝かせてきた。


 なら、その記憶を少し戻す。


「思い出せ。ここは休む部屋だ」


 淡い光が壁の中を走った。


 窓の隙間が整い、冷たい風が止まる。

 床下の湿気が少し抜ける。

 扉の音が柔らかくなる。

 壁に残っていた白狼の絵が、ほんの少し明るくなる。


 部屋の空気が変わった。


 冷たさが消え、暖炉のない部屋なのに、どこか温かい。


 サナの呼吸が少し楽になる。


 ノアが驚いたように耳を動かした。


「部屋が、守ってる」


「昔の客室の記憶を少し戻しただけだ」


「それがすごい」


 珍しく、ノアが素直に言った。


 白狼は目を細め、ゆっくり息を吐いた。


 サナへ注いでいた光が少し穏やかになる。


 負担が減ったらしい。


 ミラさんが薬草茶を持って戻ってきた。


 部屋の空気に気づき、目を見開く。


「ルカさん」


「大きな修復ではありません」


「……怒るのは後にします」


「はい」


 後で怒られるのは確定らしい。


 ミラさんはサナへ薬草茶を少しずつ飲ませた。


 リリは白狼の毛にそっと触れながら、母親を見ていた。


「おかあさん、だいじょうぶ?」


 サナは弱く微笑んだ。


「ええ……あったかいわ」


 リリの目に涙が浮かんだ。


 ミラさんが優しく頭を撫でる。


「今日はこの部屋でゆっくり休みましょう。白狼亭が守ります」


 その言葉に、部屋の壁絵がかすかに光った。


 俺は気づいた。


 白狼亭は、ただ営業再開しただけではない。


 客を泊めるということは、その人の夜を預かるということだ。


 宿札は、それを思い出させたのだ。


 本日、守るべき客あり。


 外では王都が動いている。


 監査官も、商会も、灰羽も、きっとまた来る。


 でも今、この部屋で一番大事なのは、熱に苦しむ母親と、不安そうに手を握る小さな娘だった。


 白狼亭は大きな陰謀の拠点になりつつある。


 それでも、宿の本分は変わらない。


 疲れた人を寝かせる。


 冷えた人を温める。


 怖がる子供に、大丈夫だと伝える。


 そのために、俺たちはここにいる。


 階下で、宿札がもう一度かたんと鳴った。


 たぶん、風ではない。


 白狼亭が、自分の仕事を思い出した音だった。

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