第31話 王都の監査官は、白狼亭の水を瓶に詰めたがった
王都商業監査局。
その名を聞いた瞬間、食堂の空気が変わった。
正式営業初日。
宿札を掛け、宿帳に予約金を記し、ようやく白狼亭が「宿」として一歩を踏み出したその日に、王都から監査官が来た。
早すぎる。
エリスが呟いたその言葉が、すべてだった。
黒塗りの馬車から降りてきた男は、薄い笑みを浮かべたまま玄関前に立っている。
年は三十代後半くらい。
細身で、髪は綺麗に撫でつけられ、服には皺ひとつない。
胸元には王都商業監査局の銀章。
丁寧な物腰。
柔らかな声。
けれど目だけが、こちらを品定めするように冷たい。
「突然の訪問、失礼いたします。私は王都商業監査局所属、監査官セドリック・モーンと申します」
男は優雅に一礼した。
「このたび、ルベル村の旧白狼亭が営業を再開し、特殊水源を利用した飲食提供を始めたとの報告を受けまして」
「報告……」
ミラさんが小さく呟く。
俺は横目でトマを見た。
トマは目を逸らした。
半分くらい原因はトマだと思う。
だが、それだけではない。
村の中の噂が王都の監査局まで届くには、普通なら時間がかかる。
つまり誰かが流した。
白狼亭が動き出すのを待っていた誰か。
エリスは食堂の奥へ静かに下がった。
今、彼女が監査官の前に出るのは危険だ。
冤罪で追われている公爵令嬢。
王都側の人間に顔を見られれば、白狼亭そのものが匿った罪に問われる可能性がある。
ミラさんもそれを理解しているのか、すっと前へ出た。
「白狼亭の女将、ミラです。営業再開といっても、まだ一日一組だけの小さな宿です」
「ええ。承知しております」
セドリックは玄関横の宿札を見た。
『本日、一組まで宿泊可』
「ずいぶん慎ましい営業ですね。好感が持てます」
言葉だけなら褒めている。
だが、好感という言葉に温度がない。
「中を拝見しても?」
「お客様が休んでいます。大きな声や無理な立ち入りはご遠慮ください」
ミラさんは穏やかに、しかしはっきり言った。
セドリックの眉がほんのわずかに動く。
「もちろんです。監査局は、善良な営業者の味方ですから」
味方。
その言葉ほど信用できないものはない気がした。
ミラさんが扉を開ける。
セドリックが食堂へ入った瞬間、暖炉前の白狼がゆっくりと立ち上がった。
食堂の空気がさらに変わる。
セドリックの足が止まった。
「……これは」
「白狼様です」
ミラさんが当然のように言った。
「白狼亭の守り神であり、大切なお客様でもあります」
「お客様」
「はい」
白狼は金色の瞳でセドリックを見た。
ただ見ただけだ。
唸ってもいない。
牙も見せていない。
それなのに、セドリックの喉が小さく動いた。
「なるほど。噂は本当でしたか」
「噂より、白狼様は静かです」
ノアが窓際から言った。
セドリックはノアを見て、また少しだけ眉を動かす。
「獣人の方もいらっしゃる」
「森の番人です」
ノアの声は低い。
「白狼亭の水と森の水を見るためにいる」
「それは興味深い」
セドリックは薄く笑った。
「では、井戸の確認も必要ですね」
エリスが帳場の影から、俺に紙片を滑らせた。
俺はそれを拾って、視線だけで読む。
『水は販売していない。宿内提供と村内共有。持ち出し不可。聖域水源ではなく、旧宿付属井戸の復旧と主張』
さすが早い。
俺はその内容をミラさんのそばへ行き、小声で伝えた。
ミラさんは一瞬だけ頷く。
「監査官様」
「はい」
「白狼亭の井戸水は、販売品ではありません。宿の料理と湯、村の飲み水として、森に感謝しながら分け合っています。持ち出しも、女将である私の許可なく行っていません」
「しかし、特殊な効能があるとの話ですが」
「疲れた人が温まり、料理がおいしくなる水です」
「それを特殊効能と言います」
セドリックは微笑む。
「王都の規定では、魔力性を帯びた水源を営業利用する場合、登録、検査、採取量の申告、場合によっては利用税が必要です」
「利用税……」
ミラさんの表情が強張る。
白狼亭はまだ銅貨三十二枚を稼いだばかりだ。
そんな状態で税だの登録料だのを突きつけられれば、簡単に潰される。
セドリックはそれをわかっている顔をしていた。
「もちろん、正式な手続きを踏めば問題ありません。ただし、未登録の特殊水源を使って宿泊客に飲食を提供した場合、一時営業停止となることもありまして」
食堂が静まり返る。
バートが奥で拳を握った。
ダリオも顔色を変える。
ガランさんは眉間に皺を寄せている。
白狼は静かにセドリックを見ている。
この男は、剣も杖も持っていない。
だが、書類と規則で宿を止めようとしている。
灰羽とは別の厄介さだった。
「一つ確認させてください」
俺は口を開いた。
セドリックがこちらを見る。
「あなたは?」
「ルカ・フェルド。白狼亭で修繕をしています」
「元王宮修繕士の?」
「はい」
「なるほど。こちらも噂通り」
やはり知っている。
灰羽と同じだ。
王都側には、もう俺の名前も白狼亭の名前も流れている。
「この井戸は、もともと白狼亭に付属していた古い井戸です。新しく掘ったものではありません。宿の旧設備を復旧した場合でも、特殊水源登録が必要ですか?」
セドリックは笑みを崩さなかった。
「状態によります」
「状態を見るための監査ですか?」
「ええ」
「では、まず宿帳と過去記録を見てください。この井戸が昔から白狼亭で使われていたことは、記録に残っています」
エリスの目が、帳場の影でわずかに動いた。
セドリックは少し黙る。
たぶん、こちらがそこまで用意しているとは思っていなかったのだろう。
「拝見しましょう」
宿帳が食堂のテーブルに置かれた。
ミラさんが、震えない手で古いページを開く。
白狼の水。
旅人のスープ。
湯殿。
井戸水の濁り。
三年前の銀鷲商隊。
すべてが残っている。
セドリックはページをめくりながら、目だけを細めた。
「非常に古い記録ですね」
「白狼亭の記録です」
ミラさんが答える。
「この井戸は、宿と共にありました。私たちは、それを直して使っているだけです」
「直した、ですか」
セドリックの視線が俺に向く。
「ルカ・フェルド殿が?」
「はい」
「王宮を追われて、辺境宿の井戸を直す。ずいぶん変わったご経歴だ」
「俺としては、今の方が向いています」
白狼が鼻を鳴らした。
同意なのか、余計なことを言うななのかはわからない。
セドリックは宿帳を閉じた。
「記録は確認しました。ただし、現行法上の判断には水質検査が必要です」
「検査は構いません」
エリスの紙片がまた滑ってきた。
『瓶詰め持ち出しは拒否。現地検査のみ可。採取封印には女将・村長・森の番人立会い』
俺はそのままミラさんへ伝える。
ミラさんはセドリックを見た。
「検査は構いません。ただし、井戸の水は森とつながる大切な水です。瓶詰めして王都へ持ち出すことはできません。現地で確認してください」
セドリックの笑みが、初めて少し硬くなった。
「通常、水質確認には採取瓶での持ち帰りが必要です」
「通常の水ではありません」
ノアが言った。
「持ち出すと水が嫌がる」
「獣人の感覚を法的根拠にはできませんね」
「森を壊した人間の法だけでは、この水は守れない」
ノアの目が鋭くなる。
空気が張り詰めた。
ミラさんが一歩前へ出る。
「ノアさんの言葉は、白狼亭として尊重します。それに、村長も立ち会います。必要であれば、王都へは現地確認の記録を提出します」
「困りましたね」
セドリックは困っていない顔で言った。
「拒否とみなされる可能性がありますよ」
「乱暴な採取を拒否します。検査を拒否しているわけではありません」
ミラさんは静かに言った。
その声は震えていなかった。
俺は少し驚いた。
昨日まで、料金を取ることにも戸惑っていた人だ。
それが今、王都の監査官を前に、白狼亭の水を守ると言っている。
女将は、強くなるのが早い。
セドリックはしばらくミラさんを見た後、薄く笑った。
「では現地確認としましょう」
井戸へ向かうことになった。
立ち会いはミラさん、俺、ノア、村長、そして白狼。
白狼が立ち会う必要があるのかはわからないが、セドリックが何も言わなかったので、そのままついてきた。
井戸のそばに立つと、水面が静かに光っていた。
立て札もある。
『白狼の井戸
この水は森と白狼亭をつなぐ恵みです。
飲み水として分け合い、無理に汲みすぎず、森へ感謝して使うこと。
持ち出しは女将に相談してください。』
セドリックはそれを読んで、微笑んだ。
「宗教的な装飾ですか?」
「約束です」
ミラさんが答える。
「この水を奪い合わないための」
「なるほど」
セドリックは持参した銀の小瓶を取り出した。
ノアの耳が立つ。
「その瓶、嫌な匂いがする」
「検査瓶です」
セドリックは気にせず井戸に近づく。
その瞬間、白狼が前に出た。
ただ一歩。
それだけで、セドリックの動きが止まる。
白狼は唸っていない。
けれど、金色の瞳が彼の銀瓶を見ていた。
ノアが低く言う。
「その瓶、ルグラン商会の薬瓶と同じ油の匂い」
場の空気が凍った。
セドリックの笑みが、ほんのわずかに揺れる。
「言いがかりですね」
「森の匂いは嘘つかない」
俺は銀瓶を見た。
普通の検査瓶に見える。
だが、近づくと確かにかすかな油の匂いがある。
王宮でも似た匂いを嗅いだことがある。
魔力反応を固定するための保存油。
しかしそれに、別の匂いが混じっている。
黒い粉。
森で見つけた、あの毒草に似た匂い。
「その瓶を使う前に、こちらで確認しても?」
俺が言うと、セドリックは小さく笑った。
「監査官の道具を疑うのですか?」
「宿の水を守るためです」
「君は修繕士であって、監査官ではない」
「はい。だから、壊れているかどうかだけ見ます」
セドリックの目が冷えた。
その時、ミラさんが静かに言った。
「その瓶でなければ検査できませんか?」
「正式な瓶です」
「では、正式な瓶を村長立ち会いのもと、封を開けるところから確認させてください。すでに開封済みであれば、白狼亭としては使用を認められません」
セドリックは黙った。
村長が杖をつく。
「わしも、その瓶は見せてもらいたいのう」
白狼が一歩前へ出る。
ノアも井戸の縁に立った。
セドリックは、数秒だけ考えた。
そして銀瓶を懐へ戻した。
「……本日は現地確認のみとしましょう。正式な検査については、改めて通知いたします」
逃げた。
俺はそう感じた。
セドリックは井戸を見下ろし、別の紙に何かを書き込む。
「旧宿付属井戸の復旧。現時点では大規模販売なし。持ち出し制限あり。村内共有規則あり。白狼亭側に営業意思あり」
彼は顔を上げた。
「一時停止命令は、今日のところは不要と判断します」
ミラさんの肩から力が抜ける。
だが、セドリックは続けた。
「ただし、今後この水を広域販売した場合、あるいは特殊効能を宣伝した場合、監査対象となります。また、王都商業監査局は後日、正式な検査官を派遣する権限を有します」
「承知しました」
ミラさんが答える。
セドリックは最後に、俺を見た。
「ルカ・フェルド殿」
「はい」
「あなたの名も、報告に記載しておきます」
「ご自由に」
「王都は、あなたを忘れていませんよ」
それは脅しだった。
でも、俺は白狼亭の井戸の水音を聞いていた。
後ろにはミラさんがいる。
隣にはノアがいる。
白狼もいる。
王都にいた頃より、不思議と怖くなかった。
「俺はもう、王都の修繕士ではありません」
俺は答えた。
「白狼亭の修繕士です」
セドリックの笑みが少しだけ消えた。
白狼が鼻を鳴らす。
まるで、それでいいと言うように。
監査官は馬車に戻った。
最後に白狼亭の看板を見上げ、薄く一礼する。
「また伺います」
黒塗りの馬車が去っていく。
その姿が見えなくなるまで、誰も動かなかった。
やがてノアが言った。
「あの瓶、危なかった」
「水を汚すつもりだった?」
ミラさんが青ざめる。
「わからない。でも、森が嫌がってた」
エリスが食堂から出てきた。
隠れていたはずなのに、全て聞いていた顔だった。
「やはり、監査局にも手が入っているわね」
「ルグラン商会か」
「おそらく。水を採取するか、汚すか、どちらでも白狼亭を潰す口実にできる」
ミラさんは井戸の立て札を見た。
そして、小さく息を吸う。
「守れて、よかった」
「はい」
俺は井戸を見た。
水面は静かだった。
けれど、さっきより少し強く光っているように見える。
水も、わかっていたのかもしれない。
自分が奪われかけたことを。
白狼亭は正式営業初日から、王都に目をつけられた。
けれど、営業停止は免れた。
井戸も守った。
小さな勝利だ。
しかし同時に、はっきりした。
灰羽だけではない。
ルグラン商会だけでもない。
王都の仕組みそのものが、白狼亭へ手を伸ばし始めている。
ミラさんは宿札を見た。
『本日、一組まで宿泊可』
その札は、まだ玄関に掛かっている。
彼女は静かに言った。
「それでも、今日は開けます」
白狼が、井戸の横でゆっくり目を閉じた。
暖炉の火が、食堂の奥でぱちりと鳴った。




