第30話 古い宿札を直したら、白狼亭は正式に営業再開した
白狼亭には、まだ直していないものが山ほどあった。
屋根。
二階の客室。
湯殿の壁。
裏庭。
星見の間。
風読み。
井戸の奥の水源。
数えればきりがない。
けれど、食堂の扉が直った翌朝、エリスは宿帳を閉じて言った。
「そろそろ、正式に営業再開を宣言しましょう」
食堂が静かになった。
ミラさんは木べらを持ったまま固まった。
「えっ」
「営業再開よ」
「まだ早くありませんか?」
「完璧になるのを待っていたら、一生開けないわ」
エリスは淡々と言った。
「宿というのは、開けながら直すものよ。今の白狼亭には、使える食堂、使える井戸、使える厨房、泊められる部屋が一つ、応急の湯殿、白狼の水、そして女将の料理がある」
「でも、客室は一つだけです」
「だから一日一組限定」
「限定……」
ハーゲンがうなずいた。
「良い響きですな。希少性があります」
「希少性って、ただ部屋が足りないだけでは」
俺が言うと、エリスがこちらを見る。
「言い方で価値は変わるの」
「王都の人っぽい」
「褒め言葉として受け取るわ」
ミラさんはまだ戸惑っていた。
「本当に、白狼亭を開けてもいいんでしょうか」
その声には、嬉しさより怖さがあった。
当然だと思う。
白狼亭は、長く半分眠っていた宿だ。
看板は直った。
火も戻った。
水も戻った。
でも、正式に開けるということは、もう一度この宿の名前を外へ出すということだ。
客が来る。
金が動く。
噂が広がる。
期待も、失望も、危険も来る。
ミラさんにとっては、亡き夫と守ろうとして守りきれなかった宿を、もう一度世に出すということでもある。
俺は食堂の壁に掛けられていた古い札を見た。
木で作られた、小さな宿札。
そこにはかすれた文字で、こう書かれていた。
『本日、空室あり』
昔は玄関に出していたのだろう。
でも今は、端が欠け、紐も切れ、文字もほとんど読めない。
「ミラさん」
「はい」
「あの札、直してもいいですか?」
ミラさんは宿札を見た。
その瞬間、目が少し揺れた。
「……それ、夫が毎朝出していた札です」
「やっぱり」
「雨の日も、雪の日も、客が来ない日も。あの人は必ず玄関に掛けていました」
ミラさんはそっと札に触れる。
「私は、夫が亡くなってから一度も出せませんでした」
食堂が静かになる。
白狼も暖炉前で目を開けた。
俺はゆっくり頷いた。
「では、今日はそれを直しましょう」
宿札を作業台へ持っていく。
ダリオが横に立った。
「木札なら、私も見られます」
「お願いします」
二人で札を見る。
古い木だが、芯は生きている。
角は欠けているが、全部を綺麗にする必要はない。
雨風に耐えてきた時間は、この札の味だ。
ダリオは細い刃物でささくれを整え、俺は割れた部分に手を当てた。
記憶が流れ込む。
朝の玄関。
若いミラさんの夫が、札を掲げる。
『今日は来るかな』
『昨日もそう言ってた』
『宿はな、来ると思って待つから宿なんだ』
『来なかったら?』
『スープが余る』
『困るじゃない』
『俺が食べる』
『太るわよ』
『幸せ太りだな』
ミラさんが笑っている。
札は、その笑い声を覚えていた。
客が来ない日も。
雨で道が悪い日も。
冬の朝も。
この札は、ずっと外に出されるのを待っていた。
「戻れ」
俺は小さく言った。
淡い光が木札に広がる。
割れはつながり、紐を通す穴が整い、かすれていた文字が浮かび上がる。
ただ、文字は昔のままではなかった。
『本日、一組まで宿泊可』
エリスが覗き込んで、満足そうに頷いた。
「現状に合っているわね」
「札が勝手に変えた気がします」
「白狼亭の備品、どれも商才が出てきたのでは?」
「エリスさんの影響では」
「失礼ね。効率化よ」
ミラさんは木札を受け取り、両手で抱えた。
そして、泣きそうな顔で笑った。
「……一組まで」
「はい」
「今の白狼亭に、ぴったりですね」
白狼が鼻を鳴らした。
まるで、さっさと出せと言っているようだった。
玄関へ向かう。
ミラさんが先頭。
俺、エリス、ノア、ダリオ、ガランさん、ハーゲン、バート、村の人たちが後に続く。
朝焼けの部屋では、サナとリリがまだ休んでいる。
だから全員、声は抑えめだ。
玄関の外に出ると、朝の光が白狼亭の看板を照らしていた。
ミラさんは深く息を吸い、古い宿札を扉横の釘に掛けた。
かたん。
小さな音。
それだけだった。
でも、白狼亭全体が息を吸ったような気がした。
暖炉の火が、食堂の奥でぱちりと鳴る。
井戸から水音がする。
屋根の風読みが、微かに揺れる。
そして白狼が玄関前へ出てきた。
白い毛並みを朝日に光らせながら、札の下に静かに座る。
完全に看板狼だった。
「白狼様、それは宣伝効果が高すぎるわ」
エリスが真顔で言った。
白狼は面倒そうに目を細めた。
けれど、退かない。
ノアが小さく呟く。
「白狼様も、宿を開ける気」
ミラさんは白狼を見て、深く頭を下げた。
「ありがとうございます」
白狼は尻尾を一度だけ地面に当てた。
どん。
トマが目を輝かせる。
「白狼亭、開いたんだな!」
ミラさんは少しだけ笑って、頷いた。
「はい。まだ一日一組だけですけど」
「すげぇ!」
「トマ、村で言いふらしすぎないでくださいね」
「……ちょっとだけにする!」
「ちょっとも危ないわ」
エリスが即座に言った。
昼前には、正式営業再開の最初の仕事が入った。
といっても、新しい客ではない。
ハーゲンが、朝焼けの部屋の予約金を払ったのだ。
「本来の宿泊は次の商隊帰路ですが、これは予約金として」
小さな革袋が、帳場に置かれる。
中には銀貨が入っていた。
ミラさんはそれを見て、目を丸くする。
「こんなに?」
「正式な予約ですから」
ハーゲンは笑う。
「それに、白狼亭の再開一号予約客という肩書きは、私にとって価値があります」
「商人って本当に不思議ですね」
「よく言われます」
また取られた。
エリスは宿帳の新しいページを開いた。
「ミラ。記帳して」
「はい」
ミラさんは慎重にペンを持つ。
『営業再開
一日一組限定
朝焼けの部屋 予約金受領
ハーゲン商隊』
書き終えた瞬間、宿帳の紙がふわりと淡く光った。
「えっ」
ミラさんが驚く。
俺も宿帳を覗いた。
光はすぐ消えた。
でも、宿帳そのものが少しだけ軽くなったように感じる。
白狼亭の記録が、過去から未来へつながったのだ。
エリスが静かに言った。
「宿帳が認めたのかもしれないわね」
「宿帳も認めるんですか」
「この宿ならあり得るでしょう?」
否定できない。
その日の午後、白狼亭は本当に宿らしく動いた。
ダリオは朝焼けの部屋の窓を調整し、ガランさんは外階段の補強をした。
バートは水運びをして、カイルは皿洗いを覚え始めた。
ノアは森側の見張りと薬草の選別。
エリスは料金表と契約書。
ミラさんは厨房と帳場を行き来しながら、女将として全体を見ている。
俺は、玄関横の宿札を何度も見てしまった。
本日、一組まで宿泊可。
たったそれだけの文字なのに、胸が少し熱くなる。
白狼亭は、開いたのだ。
まだ不完全で、危なっかしくて、問題だらけで。
それでも、開いた。
夕方。
最初の正式営業日の食事として、ミラさんは少し豪華なスープを作った。
白狼の水。
森の香草。
ロザおばさんの卵。
ハーゲンの持ち込んだ乾燥果実を少し。
スープに卵が落とされ、ふわりと白く広がる。
「卵、強いね」
ロザおばさんが満足そうに言う。
「確かに強いです」
ミラさんも笑った。
食堂に集まった者たちで、そのスープを食べた。
静かで、温かい時間だった。
リリも二階から少しだけ降りてきて、柔らかいパンを食べた。
白狼のそばに座りたがったが、ミラさんに「まだ無理しない」と止められた。
白狼は自分から少し近くへ寄り、リリの手が届く場所で伏せた。
神狼、意外と子供に甘い。
食後、エリスがふいに言った。
「このまま順調にいけば、白狼亭はかなり強い宿になるわ」
「かなり?」
ミラさんが聞き返す。
「ええ。水、火、料理、白狼様、森とのつながり、修繕班、商人の定宿化。普通の辺境宿ではない」
「嬉しいような、怖いような」
「怖いのは正しいわ。目立てば敵も来る」
エリスの表情が変わる。
「灰羽も、ディオンも、ルグラン商会も、白狼亭を放っておかないでしょうね」
その時、外で馬の音がした。
食堂の空気が一瞬で引き締まる。
白狼が顔を上げる。
ノアの耳が立つ。
バートは反射的に腰へ手を伸ばし、そこに武器がないことを思い出して気まずそうにした。
玄関の外に、馬車が止まった。
ハーゲンのものではない。
村人のものでもない。
黒塗りの小さな馬車。
扉には、王都の紋章。
王宮保安局ではない。
しかし、見覚えがある。
貴族や役人が使う、公的な訪問馬車だ。
ミラさんが静かに立ち上がる。
「お客様でしょうか」
エリスは顔を強張らせた。
「いいえ。たぶん違うわ」
馬車の扉が開く。
降りてきたのは、細身の男だった。
灰羽ではない。
だが、王都の匂いがする。
整えられた服。
丁寧な物腰。
薄い笑顔。
男は白狼亭の看板と、宿札を見た。
そして、にこりと笑う。
「営業再開、おめでとうございます」
彼は懐から一通の封書を取り出した。
「王都商業監査局より参りました。白狼亭の営業許可と水資源利用について、確認をさせていただきます」
食堂が静まり返った。
エリスが低く呟く。
「早すぎる」
白狼が、玄関の前で静かに立ち上がった。
正式営業初日。
白狼亭には、最初の客ではなく、王都からの監査官がやって来た。




