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第29話 建具職人ダリオは、扉の音で宿を見抜いた

 翌朝、白狼亭の食堂には、いつもより少し静かな空気が流れていた。


 理由は簡単だ。


 二階の朝焼けの部屋に、病人が寝ているからだ。


 旅人ダリオの妻、サナ。

 そして娘のリリ。


 昨夜、白狼の守りを少し受けたおかげか、リリの顔色はかなり戻っていた。

 サナの熱も、ノアの薬草茶と白狼の水が効いたのか、夜中よりは落ち着いているらしい。


 とはいえ、まだ油断はできない。


 だから今朝の白狼亭は、いつものトマの声すら少し小さい。


「白狼様、おはようございます……」


 トマが暖炉前の白狼に小声で挨拶する。


 白狼は片目だけ開け、尻尾を一度だけ床に当てた。


 どん。


「音でかいよ!」


 トマが小声で叫ぶ。


 白狼は何も悪くないという顔で目を閉じた。


 朝食は、白狼の水で炊いた麦粥と、薄めの野菜スープだった。


 病人に合わせて、ミラさんが全体的に優しい味にしている。


 でも、薄いだけではない。

 胃に落ちた瞬間、体がほっとする味だ。


「これは……病人食としても売れるわね」


 エリスが真顔で言った。


「エリスさん、なんでも売ろうとしますね」


「価値のあるものは仕組みにする。それが宿を守る力になるのよ」


「でも、病人食って言い方はちょっと」


 ミラさんが困った顔をする。


「では、旅人の回復粥」


「それなら少し良いですね」


「料金は別枠ね」


「そこは変わらないんですね」


 エリスは当然のように宿帳へ書き込んだ。


 もう完全に白狼亭の収益管理係だ。


 本人は「私はただの客よ」と言い張っているが、誰も信じていない。


 食堂の隅では、ダリオが静かに粥を食べていた。


 昨日より顔色はいい。

 ただ、寝不足の気配がある。


 妻と娘のことが心配で、あまり眠れなかったのだろう。


「ダリオさん」


 ミラさんが声をかける。


「奥様とリリちゃんの様子は?」


「妻はまだ熱がありますが、昨夜より呼吸が楽そうです。娘は、朝に少し笑いました」


「よかった」


 ミラさんが胸に手を当てる。


 ダリオは深く頭を下げた。


「本当に、ありがとうございます。妻と娘があんなふうに眠れたのは、久しぶりです」


「白狼亭に来たお客様ですから」


 ミラさんはそう言って笑った。


 ダリオはその笑顔を見て、少しだけ泣きそうな顔になった。


 けれど、すぐに背筋を伸ばした。


「それで、女将さん。昨日の話ですが」


「はい?」


「宿代の一部を、建具の修理で返させてください」


 ダリオの声は真剣だった。


「もちろん、奥様の看病もありますから、無理のない範囲で」


 ミラさんがそう言うと、ダリオは頷いた。


「はい。ただ、じっとしているより、手を動かしていた方が落ち着くんです。それに……」


 彼は食堂の扉を見た。


 少し歪んだ、古い扉。


 開け閉めするたびに、ぎい、と重い音がする。


「この宿の扉は、ずっと我慢しています」


 その言葉に、俺は思わず顔を上げた。


「わかるんですか?」


 ダリオは少し照れたように笑った。


「ルカさんほどではありません。ただ、建具を触っていると、音で少しわかります。扉が怒っているのか、疲れているのか、拗ねているのか」


「扉も拗ねるんですか?」


 ミラさんが目を丸くする。


「拗ねます。特に、長く油を差されていない扉は」


「……すみません」


 ミラさんが扉に向かって謝った。


 この宿の女将は、椅子にも扉にも謝る。


 やっぱり白狼亭に向いている。


「じゃあ、まず食堂の扉から見てもらえますか?」


 俺が言うと、ダリオは嬉しそうに立ち上がった。


「はい。道具を借りても?」


「俺の工具でよければ」


「ありがとうございます」


 俺は工具巻きを開いた。


 ダリオは中を見て、目を細めた。


「いい道具ですね。使い込まれている」


「師匠にもらったものです」


「大事にされている音がします」


 音。


 その表現が面白かった。


 俺は物の記憶を見る。

 ダリオは、物の音を聞く。


 似ているようで違う。


 けれど、壊れたものを捨てる前に見るという点では同じだ。


 食堂の扉を外す作業は、思ったより丁寧だった。


 ダリオはまず、何度か扉を開け閉めした。


 ぎい。


 ぎぎ。


 ぎい。


 耳を澄ませる。


 次に蝶番を見て、扉の下の隙間を測り、枠の歪みを指でなぞる。


「扉そのものは悪くありません。木も生きています。ただ、蝶番が少し下がって、枠が湿気で膨らんでいる。無理に削るより、蝶番の位置を戻して、下を少しだけ調整すれば大丈夫です」


「同感です」


 俺が言うと、ダリオは少し驚いたようにこちらを見た。


「わかりますか?」


「触ると、たぶん」


「たぶん」


 ノアが窓際から即座に反応した。


 俺は少し咳払いした。


「今のは癖です」


 ダリオは小さく笑った。


 その笑い方は、昨夜よりずっと自然だった。


 作業を始めると、ダリオの手は見事だった。


 派手な魔法はない。


 俺のように光も出ない。


 だが、迷いが少ない。


 古い釘を抜く。

 蝶番を外す。

 曲がった金具を整える。

 枠の膨らみをほんの少し削る。

 必要以上に削らない。


 木を知っている手だ。


「すごいですね」


 ミラさんが感心したように言う。


 ダリオは少し頬を赤くした。


「いえ。これしかできませんから」


「これができるのがすごいんです」


 その言葉に、ダリオの手が一瞬止まった。


「……王都では、そう言われたことがありませんでした」


「そうなんですか?」


「はい。私がいた工房は、小さな建具工房でした。職人はみんな真面目でした。でも、ルグラン商会が安い量産品を大量に流してから、仕事が減って」


 エリスが顔を上げる。


「質の悪い建具を安く売ったの?」


「はい。見た目だけは綺麗なんです。でも半年で歪む。修理もしにくい。けれど貴族や商会は、安く早く揃う方を選びました」


「典型的ね」


 エリスの声が冷たい。


「良い職人を潰し、安物で市場を取り、壊れたらまた売る。ルグラン商会らしいやり方だわ」


 ダリオは苦く笑った。


「親方は最後まで、良い扉は十年後にわかると言っていました。でも、十年待ってくれる客は少なかった」


 俺は、王宮のことを思い出した。


 壊れる前に直す仕事は評価されない。

 長持ちするものは、すぐに価値が見えない。


 ダリオの話は、どこか自分の仕事と重なった。


「白狼亭には、長く使うものが必要です」


 俺が言うと、ダリオは顔を上げた。


「見た目だけ綺麗な扉ではなく、雨の日も、冬の日も、旅人を迎えられる扉が」


 ミラさんが頷く。


「はい。そういう扉がいいです」


 ダリオはしばらく黙っていた。


 そして、深く息を吐く。


「なら、ちゃんと直します」


 その声は少しだけ震えていた。


 でも、力があった。


 昼前には、食堂の扉が直った。


 ダリオが最後に蝶番へ油を差し、ゆっくり扉を動かす。


 すう。


 さっきまでの重い音が消えていた。


 軽すぎず、重すぎず。


 宿の扉らしい、安心する動き。


「……いい音です」


 ダリオが呟いた。


 俺も扉に手を当てた。


 記憶が流れてくる。


 旅人が開ける扉。

 子供が勢いよく押して怒られる扉。

 吹雪の夜に、白狼が前脚で叩いた扉。

 ミラさんの夫が、夜の終わりに鍵をかける扉。


 そして今。


 もう一度、客を迎えようとしている扉。


「戻りましたね」


「はい」


 ダリオは静かに言った。


「この扉は、まだまだ働けます」


 ミラさんは扉へ向かって小さく頭を下げた。


「これからもよろしくお願いします」


 バートが近くで見ていて、ぽつりと言った。


「扉に頭下げる宿、初めて見た」


「慣れます」


 俺が言うと、バートは微妙な顔をした。


「慣れるのかよ」


「たぶん」


「その言い方も慣れてきた」


 慣れられてしまった。


 午後には、ダリオは小棚と二階の客室扉も見てくれた。


 ガランさんとの相性も良かった。


 大工のガランさんが大きな構造を見る。

 建具職人のダリオが扉や棚、窓まわりを見る。

 俺が全体の歪みや、古い魔導具の流れを見る。


 三人で作業すると、白狼亭の直り方が明らかに早い。


「こりゃいいな」


 ガランさんが腕を組む。


「兄ちゃん一人だと、何でも魔力で直そうとするから心配だったが、ダリオがいるなら細かいところを任せられる」


「俺、そんなに魔力で直そうとしてましたか?」


「してた」


 ミラさん、ノア、白狼が同時に反応した。


 白狼は鼻を鳴らしただけだったが、圧が強い。


「……今後は手作業も増やします」


「それがいい」


 ガランさんは満足そうに頷いた。


 エリスはその様子を見て、宿帳の横に新しい紙を作っていた。


「白狼亭修繕班ね」


「修繕班?」


「ええ。構造担当ガラン、建具担当ダリオ、総合修復ルカ。補助にバートと村の若者。これならかなり進むわ」


「勝手に組織化されている」


「必要よ。白狼亭を拠点にするなら、修繕は継続業務になる」


 エリスはさらさらと書き込む。


「あと、ダリオには正式に滞在労働契約を作るわ。宿代相殺分、追加報酬、家族の食事、休養時間。全部明記する」


 ダリオが驚いた。


「そんなにきちんと?」


「ええ。曖昧にすると、善意が搾取に変わる」


 その言葉に、バートがまた反応した。


 ルグラン商会で散々見てきたのだろう。


 ダリオは深く頭を下げた。


「ありがとうございます。正直、そこまでしていただけるとは」


「白狼亭は、人を使い潰す宿ではないもの」


 エリスが言うと、ミラさんも強く頷いた。


「はい。働いてくれる人にも、ちゃんと食べて、休んでほしいです」


 ダリオは何かを堪えるように唇を結んだ。


「……ここに来られてよかった」


 その言葉は、とても静かだった。


 夕方。


 朝焼けの部屋の扉も、ダリオの手で直った。


 開け閉めの音が変わった。


 ぎいぎいと苦しそうだった音が、すう、と優しくなった。


 その音を聞いたリリが、ベッドの上で目を開けた。


「おとうさんの音だ」


 ダリオが扉の前で固まる。


 サナも布団の中で微笑んだ。


「そうね。久しぶりに聞いたわ」


 リリはまだ少し熱っぽい顔で、でも嬉しそうに言った。


「おとうさん、扉なおしてるときの音」


 ダリオは顔を伏せた。


「……ああ」


 声が震えていた。


 工房を失い、仕事を失い、妻と娘を連れて逃げるように旅をしてきた男。


 その男が、白狼亭でまた扉を直した。


 それを娘が覚えていた。


 たぶん、それだけで人は少し戻れる。


 夜。


 食堂の新しく直った扉が、静かに閉まった。


 隙間風が減り、暖炉の火が前より安定している。


 ミラさんのスープも、冷めにくくなった。


 白狼は暖炉前で満足そうに目を閉じている。


 ノアは窓際でパンを食べている。


 エリスは契約書を書いている。


 ガランさんは明日の作業を考え、ダリオは工具を丁寧に拭いている。


 白狼亭は、また一つ音を取り戻した。


 扉が苦しむ音ではなく、客を迎える音を。


 俺はその音を聞きながら思った。


 壊れた宿には、壊れた人生を抱えた人が集まる。


 でも、ここでは少しずつ直っていく。


 椅子も。

 井戸も。

 屋根も。

 扉も。

 そして、たぶん人も。

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