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第28話 噂を聞いた旅人は、白狼亭の看板の前で膝をついた

 白狼の水の噂は、村の中だけでは終わらなかった。


 翌日の昼過ぎ。


 白狼亭の前に、一台の古い馬車が止まった。


 商隊というほど大きくはない。

 荷馬車でもない。

 旅人用の小さな馬車だ。


 車輪は泥に汚れ、馬は疲れきっている。

 御者台には、痩せた中年の男。


 そして荷台の中には、毛布にくるまった女性と、小さな女の子がいた。


「……白狼亭は、ここで合っていますか」


 男は馬車から降りるなり、かすれた声でそう言った。


 ミラさんが玄関先に出る。


「はい。白狼亭です」


 男は看板を見上げた。


 白い狼の絵。

 まだ新品のようではない。

 でも、直された看板は確かに白狼亭の名を掲げている。


 その瞬間、男の目が潤んだ。


「本当に……開いていた」


「正式な再開準備中ではありますが、休んでいただくことはできます」


 ミラさんの声は、もう立派な女将のものだった。


 俺は食堂の椅子を直しながら、その様子を見ていた。


 エリスも帳場から顔を上げる。


 ノアは窓際で耳を立てた。

 白狼は暖炉前で片目だけ開ける。


 旅人の男は、荷台の女性を心配そうに見た。


「妻が熱を出していて……娘も、昨日から何も食べていません。村の方で、白狼亭の水とスープが戻ったと聞いて」


 もう外へ漏れている。


 エリスが小さくため息をついた。


「早すぎるわね」


「トマ経由でしょうか」


「トマ経由ね」


 たぶん間違いない。


 ミラさんは迷わなかった。


「中へどうぞ。まず奥様を暖炉のそばへ」


「ですが、金はあまり……」


「その話は後です」


 即答だった。


 男は言葉を失った。


 ミラさんは俺を見る。


「ルカさん、毛布を。ノアさん、薬草茶を見てもらえますか?」


「はい」


「わかった」


 俺は壁際の棚から毛布を取り、食堂の長椅子を整えた。


 女性はかなり衰弱していた。


 顔色が悪く、額に汗。

 咳もある。


 女の子は五つか六つくらい。

 母親の手をぎゅっと握ったまま、怯えた目で周囲を見ている。


 白狼を見た瞬間、さらに固まった。


 白狼はそれに気づいたのか、目を閉じたまま動かなかった。


 怖がらせないようにしているのだろう。


 ……たぶん。


 ノアが女性の額に手を当て、匂いを確認する。


「森の毒じゃない。疲れと冷え。あと、水が悪かった」


「水が?」


「道中で飲んだ水が濁ってた。お腹も弱ってる」


 男が顔を伏せる。


「途中の沢の水を飲ませました。煮沸したつもりだったんですが……」


「責めてない」


 ノアは短く言った。


「白狼の水を薄めて、薬草を入れる。熱が少し下がるかも」


 ミラさんはすぐに厨房へ向かった。


「スープは薄めにします。まずは飲みやすく」


 エリスが帳場で宿帳を開く。


「名前を聞いても?」


「ダリオです。妻はサナ。娘はリリ」


「目的地は?」


「西方の兄の家へ向かう途中でした。王都で仕事を失って……」


 エリスの目が少し細くなる。


「王都で?」


「はい。小さな工房で働いていましたが、ルグラン商会に取引を切られて、親方が夜逃げしました。私たちも暮らせなくなって」


 食堂の空気が変わった。


 またルグラン商会。


 白狼亭へ来る問題は、どうしてこうも一つの名前につながるのか。


 エリスは顔色を変えず、さらさらと記録する。


「その話、後で詳しく聞かせて。今は奥様を休ませるのが先ね」


「はい……」


 ダリオは深々と頭を下げた。


 厨房から、戻った井戸水で作った薬草茶が運ばれてきた。


 ノアが香草を選び、ミラさんが湯加減を見たものだ。


 女性は最初、飲む力も弱かったが、ミラさんが匙で少しずつ口へ運ぶと、喉が動いた。


 リリという女の子には、薄いスープと柔らかくしたパンが出された。


 彼女は恐る恐る一口食べた。


 次の瞬間、目を丸くする。


「……おいしい」


 小さな声だった。


 でも、その場にいた全員が聞いた。


 ミラさんの表情がふわっと緩む。


「よかった。ゆっくり食べてくださいね」


 リリはこくこく頷き、匙を握りしめた。


 ダリオはその姿を見て、手で顔を覆った。


「すみません……本当に、すみません……」


「謝らなくていいです」


 ミラさんは静かに言った。


「ここは宿ですから」


 その言葉は、何度も聞いた。


 でも、聞くたびに重みが増している気がする。


 ここは宿。


 だから、困った客を迎える。


 だから、水を出す。


 だから、スープを作る。


 だから、帰る場所を守る。


 派手な言葉ではないのに、白狼亭のすべてがそこに詰まっていた。


 しばらくして、サナの呼吸は少し落ち着いた。


 熱はすぐには下がらないが、顔色はわずかに戻っている。


 ノアが小さく頷いた。


「今夜、温かくして寝れば大丈夫だと思う。明日も水と薬草茶」


「ありがとうございます……」


 ダリオが頭を下げる。


 エリスが宿帳を閉じた。


「問題は部屋ね」


「朝焼けの部屋は?」


 ミラさんが言うと、エリスは少し考えた。


「まだ本格営業前だけれど、雨漏りは止まっている。病人を寝かせるなら、食堂よりいいわ」


「ハーゲンさんの予約が入っている部屋ですが、今夜は空いています」


「ええ。使いましょう」


 ミラさんはダリオへ向き直った。


「二階の部屋を用意します。奥様と娘さんを休ませてください」


「でも、本当にお金が……」


「払える分で構いません」


 エリスが横から口を開いた。


「ただし、記録は残すわ。宿は善意だけでは続かない。でも、困っている人を門前払いする宿でもない。今払える分、後で払える分、労働で返せる分。方法はいくつかある」


 ダリオは驚いた顔をした。


「働いて返してもいいんですか?」


「何ができるの?」


「木工です。小物の細工や、箱、棚、扉の修理なら」


 ガランさんが、外からぬっと顔を出した。


「ほう」


 完全に獲物を見つけた大工の顔だった。


「扉の修理ができるのか」


「は、はい。大きな建築は無理ですが、建具なら」


「白狼亭には壊れた扉が山ほどある」


「山ほど……」


「よし。働けるなら、宿代の一部にできるな」


 ダリオは泣きそうな顔で頷いた。


「お願いします。何でもします」


「何でもは駄目よ」


 エリスが即座に言った。


「仕事は範囲を決める。無理をさせると、また壊れる」


 その言葉に、バートが小さく反応した。


 商会にいた彼には刺さる言葉だったのだろう。


 白狼亭では、人も使い潰さない。


 それを仕組みにしようとしている。


 朝焼けの部屋へ、サナとリリを運んだ。


 昨日直したばかりのベッドが、最初の客を受け入れる。


 ハーゲンの予約より先に、病人と子供を泊めることになった。


 エリスは少しだけ苦笑した。


「商売としては予定外ね」


「宿としては正しいと思います」


 俺が言うと、エリスは肩をすくめた。


「だから難しいのよ。正しさと採算を両方見るのは」


 ミラさんは、リリの枕元に小さな木杯を置いた。


「喉が渇いたら、これを少しずつ飲んでね」


「ありがとう、女将さん」


 リリの小さな声に、ミラさんは一瞬固まった。


 女将さん。


 たぶん、初めて客からそう呼ばれたのだろう。


 彼女は少しだけ目を潤ませ、それでも笑顔で答えた。


「はい。ゆっくり休んでください」


 部屋を出ると、ミラさんは廊下で深く息を吐いた。


「女将さん、ですって」


「女将さんですね」


「……はい」


 嬉しそうで、少し怖そうで、でも誇らしそうだった。


 食堂へ戻ると、白狼が暖炉前から立ち上がっていた。


 珍しい。


 白狼は二階の方を見ている。


「どうした?」


 俺が尋ねると、ノアが耳を澄ませた。


「リリが、少しだけ白狼様を怖がってる。でも、見たいとも思ってる」


「そんなことまでわかるのか」


「匂いで少し」


 ノアは白狼を見た。


「白狼様、後で顔だけ見せる?」


 白狼は少し考えるように目を細めた。


 そして、鼻を鳴らした。


 許可らしい。


 神狼なのに、子供への対応が丁寧だ。


 夕方。


 ダリオは食堂の壊れた小棚を見ていた。


 疲れているはずなのに、手を動かさない方が落ち着かないらしい。


「これは、蝶番を替えればまだ使えます」


「直せるのか?」


 俺が尋ねると、彼は頷いた。


「はい。木はいいものです。捨てるのはもったいない」


 その言葉だけで、少し信用できる気がした。


「白狼亭に合いそうですね」


「え?」


「ここも、捨てる前に見る宿なので」


 ダリオは小棚を撫でながら、静かに笑った。


「なら、私も助かりました」


 外では雨が上がり、空が薄く赤く染まっていた。


 その時、二階から小さな声がした。


「白い狼さん……いる?」


 リリだった。


 階段の上から、半分だけ顔を出している。


 ミラさんが慌てる。


「まだ寝ていないと」


「ちょっとだけ……」


 白狼がゆっくりと暖炉前から動いた。


 食堂が静かになる。


 白狼は階段下まで歩き、リリを見上げた。


 金色の瞳。


 白い毛並み。


 普通なら、子供は怖がる。


 だがリリは、手すりを握りしめながら小さく言った。


「きれい……」


 白狼は目を細めた。


 そして、階段の下で静かに伏せた。


 自分から低くなったのだ。


 リリは少しずつ階段を降り、ミラさんに支えられながら白狼の前へ来る。


「さわっても、いい?」


 白狼は尻尾を一度だけ床に当てた。


 許可。


 リリはそっと、白狼の額に触れた。


 その瞬間、彼女の顔がふわっと明るくなる。


「あったかい」


 白狼の毛並みから、淡い白い光がこぼれた。


 リリの頬に少し色が戻る。


 ノアが小さく呟く。


「白狼様が、守りを分けた」


「そんなことができるのか?」


「弱ってる子供には、少しだけ」


 リリは白狼の額を撫でながら、うとうとし始めた。


 ミラさんが慌てて抱き上げる。


「部屋へ戻りましょうね」


「うん……白い狼さん、ありがとう……」


 白狼は静かに目を閉じた。


 その横顔は、少しだけ満足そうだった。


 ダリオは床に膝をついた。


 そして白狼亭の看板ではなく、白狼そのものへ深く頭を下げた。


「ありがとうございます……妻も娘も、助けていただいて……」


 白狼は何も答えない。


 けれど、暖炉の火がぱちりと鳴った。


 まるで、礼は宿へ返せと言うように。


 その夜。


 白狼亭の宿帳には、新しい記録が増えた。


『旅人ダリオ一家

妻サナ発熱、娘リリ衰弱

朝焼けの部屋に宿泊

支払い一部、建具修理にて相殺予定』


 エリスはその記録を見て、静かに言った。


「これが白狼亭のやり方ね」


「甘すぎますか?」


 ミラさんが尋ねる。


「いいえ」


 エリスは首を振った。


「甘いだけなら続かない。でも、記録し、仕事にし、宿として受け入れるなら仕組みになる」


「仕組み……」


「困った人を助けるための仕組みよ」


 ミラさんは宿帳を見つめ、ゆっくり頷いた。


「はい。そういう宿にしたいです」


 俺は暖炉の火を見た。


 白狼亭は、また一組の客を迎えた。


 噂を聞いて来た旅人。


 水とスープと白狼に救われた家族。


 そして、宿に新しい仕事を持ち込んだ木工職人。


 噂は早すぎる。


 価値あるものは狙われる。


 でも、噂が運んでくるのは危険だけではない。


 助けを必要とする人も、白狼亭へ辿り着く。


 なら、この灯りは消せない。


 俺はそう思いながら、明日直すべき扉の数を数え始めた。

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