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第27話 白狼の水は、噂になるのが早すぎた

 白狼亭の井戸に水が戻った翌朝。


 宿は、これまでで一番いい匂いに包まれていた。


 厨房ではミラさんが大鍋の前に立ち、戻ったばかりの井戸水でスープを煮ている。


 昨日も美味かった。


 だが、一晩置いた井戸水はさらに澄んだらしく、鍋から立ち上る香りが明らかに違う。


 野菜の甘み。

 豆の香り。

 干し肉の旨味。

 そして、ほんのわずかに森の朝露みたいな清らかさ。


「……これは反則ですね」


 俺が厨房の入口で呟くと、ミラさんが振り返った。


「まだ味見前ですよ?」


「匂いでわかります」


「修繕士って、料理の匂いも直せるんですか?」


「直せません。でも壊れてないことはわかります」


 ミラさんは少し笑って、木べらで鍋をゆっくり混ぜた。


「白狼の水、すごいです。火の入り方まで違う気がします」


「水と火が仲直りしたんでしょう」


「詩人みたいなことを言いますね」


「たぶん寝不足です」


「休んでください」


 即座に返された。


 もう白狼亭では、俺の寝不足は軽犯罪くらいの扱いになっている。


 暖炉前では白狼が丸くなっていた。


 昨日、井戸に息を吹き込んでから、少し疲れたのかもしれない。

 目は閉じているが、耳だけは厨房の方へ向いている。


 完全に朝食待ちだった。


 窓際にはノア。


 最初は食堂の中に入ることさえ渋っていたのに、最近は窓際の席を自分の場所みたいにしている。


 ただし、本人はまだ「私は泊まってない。見張ってるだけ」と言い張っている。


 その手元には、ミラさんが焼いたパンが置かれていた。


 もう半分以上減っている。


「ノア」


「何」


「見張り中にパン食べていいのか?」


「森では食べられる時に食べる」


「なるほど」


「あと、ミラのパンは冷める前がいい」


「かなり気に入ってるな」


「……悪くないだけ」


 ノアは耳を赤くして、またパンをかじった。


 悪くない、の減り方ではない。


 食堂の中央では、エリスが宿帳と料金表を広げていた。


 白狼亭の臨時支配人は、今日も容赦なく働いている。


「ミラ。白狼の水で作る朝食は、通常料金に含めては駄目よ」


「えっ」


「価値があるものには、価値をつけるべき」


「でも、朝食は宿代に含めた方がお客様が喜ぶのでは?」


「基本の朝食は含める。白狼の水を使った特製スープ、果実煮、薬草茶は追加料金」


「追加料金……」


 ミラさんは、まるで罪悪感でもあるような顔をした。


 エリスはため息をつく。


「あなた、宿を潰したいの?」


「潰したくないです」


「なら取る」


「はい……」


 ミラさんがしょんぼりすると、エリスは少しだけ声を柔らかくした。


「もちろん、困っている人には出せばいい。でも、払える客からはちゃんと取る。そうしないと、本当に困っている人を助けられなくなるわ」


 ミラさんはしばらく考え、ゆっくり頷いた。


「……そうですね。白狼亭を続けるために、ちゃんといただきます」


「よろしい」


 エリスは満足そうに料金表へ書き込んだ。


 その横で、ハーゲンが何度も頷いている。


「実に正しいです。商売とは、善意を長持ちさせるための仕組みでもありますから」


「商人っぽいですね」


「商人ですので」


 ハーゲンは笑った。


 その時、玄関の外から声がした。


「ミラちゃーん! 水を一杯もらえないかい!」


 ロザおばさんだった。


 ミラさんが厨房から顔を出す。


「どうしました?」


「朝から村の連中が井戸の話で大騒ぎだよ。白狼亭の水が戻ったって」


「えっ、もう?」


「トマが言いふらした」


 全員の視線が、食堂の隅へ向く。


 そこには、当のトマがいた。


 白狼の少し離れた場所で、なぜか姿勢よく座っている。


「俺、悪いこと言ってないよ!」


「言った内容は?」


 エリスが冷静に尋ねる。


「白狼亭の井戸が復活して、水飲んだら体が軽くなって、スープがめちゃくちゃうまくなって、白狼様が息を吹いた水だからすごいって」


「全部言ってるわね」


「宣伝としては優秀です」


 ハーゲンが感心したように言った。


「ただ、制御不能ですな」


「制御不能な宣伝……」


 ミラさんが不安そうな顔をした。


 ロザおばさんは構わず井戸の水を一杯飲み、目を丸くした。


「……こりゃ本当に戻ってるね」


「わかりますか?」


「わかるよ。昔の白狼亭の水だ。喉にすっと入って、体の奥がしゃんとする」


 彼女は空の木杯を見つめた。


「この水で卵を茹でたら、絶対うまい」


「やっぱり卵なんですね」


「当然だよ」


 ロザおばさんは胸を張った。


 しかし、問題はそこからだった。


 午前のうちに、村人たちが次々と白狼亭へやって来た。


 水を飲みたい者。

 井戸を見たい者。

 スープを一杯買いたい者。

 ついでに白狼を拝みたい者。


 白狼亭は、完全に観光地みたいになってしまった。


「まだ正式再開前なのに……!」


 ミラさんが慌てる。


 エリスは即座に紙を取り出した。


「臨時対応に切り替えましょう。水は一人一杯まで無料。二杯目以降は寄付制。スープは小碗で販売。白狼様への接触は禁止。拝むのは自由。ただし騒がない」


「拝むのは自由なんですか」


「止めると揉めるわ」


 確かに、白狼の前にはもう何人かの村人が手を合わせていた。


 白狼は非常に面倒くさそうな顔をしている。


 だが逃げない。


 たぶん、宿のためだと理解しているのだろう。


 いや、もしかすると単に暖炉前から動きたくないだけかもしれない。


 ノアは窓際で不満そうだった。


「白狼様は見世物じゃない」


「そうだな」


「人間、すぐ騒ぐ」


「でも、悪意はなさそうだ」


「悪意がなくても、森を壊すことはある」


 その言葉は重かった。


 俺は頷く。


「水の使い方は、きちんと決めた方がいいな」


「うん。井戸から取りすぎると、水脈が疲れる」


「水脈も疲れるのか」


「疲れる」


 この世界は、俺が思っていたよりずっと繊細だ。


 壊れたら直せばいい、では足りない。


 壊れないように使うことも、修繕士の仕事なのだろう。


 俺はエリスへその話を伝えた。


 エリスはすぐに料金表とは別の紙を出した。


「では、井戸水の管理規則を作るわ」


「規則?」


「一日の汲み上げ量、宿で使う分、村へ分ける分、緊急用。全部決める。白狼の水が本当に価値を持つなら、奪い合いになる前に仕組みを作るべきよ」


 ミラさんが少し不安そうに言った。


「村の人に厳しすぎませんか?」


「逆よ。曖昧なままだと、あとで揉める。最初に“みんなで守る水”にしておくの」


 村長が食堂へ入ってきて、その言葉を聞いた。


「その通りじゃな」


「村長さん」


「白狼亭の井戸は、宿のものでもあり、森のものでもあり、村にとっても大事な水じゃ。皆で使うなら、皆で守る決まりがいる」


 ノアが村長を見た。


「森の分も守る?」


「守る」


 村長は正面から答えた。


「今度は、森を後回しにはせん」


 ノアはしばらく黙っていた。


 そして、小さく言う。


「なら、少しだけ信用する」


 村長は深く頭を下げた。


「十分じゃ」


 そのやり取りを見て、ミラさんが静かに微笑んだ。


 白狼亭の井戸は、水だけでなく、人と森の約束まで戻そうとしているのかもしれない。


 昼前。


 臨時のスープ販売は、予想以上に好評だった。


「一杯だけのつもりが、もう一杯欲しくなるな」


「体が温まる」


「白狼の水って本当に違うんだな」


「これ、旅人に出したら絶対評判になるぞ」


 村人たちの声を聞きながら、ミラさんは忙しく器を洗っていた。


 カイルとバートも手伝っている。


 ルグラン商会の下働きだった二人が、今は白狼亭の食器洗いと水運びをしている。


 人生、何があるかわからない。


「おい、ルカ」


 バートが井戸水の入った桶を運びながら言った。


「この水、商会が知ったら絶対狙うぞ」


「やっぱりそう思うか」


「ああ。高く売れる。薬にも、貴族の飲み水にも、魔導具の冷却にも使えるって話にされる」


「実際に使えるのか?」


「知らねぇ。でも商会は売れる話にする」


 嫌な現実だった。


 白狼の水が価値を持つ。


 それは宿にとって希望だが、同時に狙われる理由にもなる。


 エリスもその話を聞いて、表情を引き締めた。


「情報の広がりを管理する必要があるわね」


「もうトマが広げました」


「村内で済んでいるならまだいい。でも商隊や外部の旅人が来れば、すぐ王都へ届く」


 ハーゲンが頷いた。


「私の商隊にも、口止めはしておきます。しかし完全には無理です。良い宿の噂は、商人にとって貨幣と同じですから」


「なら、噂の形をこちらで作る」


 エリスはすぐに決断した。


「白狼亭の水は“森の恵みを分けていただくもの”。大量販売不可。持ち出し制限あり。宿で食事や湯に使うから価値がある。そういう物語にする」


「物語?」


 ミラさんが尋ねる。


「ええ。人は価値あるものを見ると、奪うか買い占めようとする。でも聖域の恵みとして扱えば、乱暴に扱いにくくなる」


「つまり、白狼様の前で悪さしにくくする?」


 トマが言った。


「だいたい合ってるわ」


「じゃあ白狼様、すげーじゃん!」


 白狼は面倒そうに目を閉じた。


 午後。


 井戸のそばに、小さな立て札を作ることになった。


 ガランさんが木を削り、俺が文字部分を整える。


 書くのはエリス。


 内容はミラさんとノアが確認した。


『白狼の井戸

この水は森と白狼亭をつなぐ恵みです。

飲み水として分け合い、無理に汲みすぎず、森へ感謝して使うこと。

持ち出しは女将に相談してください。』


「女将に相談してください、って入るんですね」


 ミラさんが少し照れる。


「責任者は必要よ」


 エリスが言う。


「白狼様に相談してください、では困るでしょう?」


 白狼が片目を開けた。


 明らかに「困る」と言っている。


 立て札を井戸のそばに立てると、不思議なことが起きた。


 井戸の水面が、ふわりと光ったのだ。


 ノアが目を丸くする。


「井戸が、喜んでる」


「立て札で?」


「約束ができたから」


 約束。


 水を奪わず、分け合い、守る約束。


 ただ修復しただけではない。


 これからどう使うかを決めたことで、井戸は本当の意味で戻り始めたのかもしれない。


 夕方、白狼亭には少し疲れた空気と、いい疲れが残っていた。


 臨時スープ販売で、銅貨が小さな箱に入った。


 大金ではない。


 でも、白狼亭が再開に向けて自分で稼いだ最初のお金だった。


 ミラさんはその箱を見つめて、何度も瞬きをしていた。


「これ……白狼亭の売上ですね」


「はい」


 エリスが優しく言った。


「記帳しましょう」


 宿帳の新しいページに、ミラさんが文字を書く。


『白狼の水スープ 臨時提供

売上 銅貨三十二枚

井戸管理用に一部積立』


 彼女は書き終えると、ほっと息を吐いた。


「宿が、少し動いた気がします」


「動いています」


 俺が言うと、ミラさんは笑った。


「はい。動いていますね」


 その夜。


 白狼亭のスープは、昨日よりさらに美味かった。


 井戸の水。

 暖炉の火。

 ミラさんの木べら。

 森の香草。

 みんなで守るという約束。


 たぶん、その全部が味になっていた。


 食堂の外では、立て札の横で井戸が静かに水音を立てている。


 白狼亭は、水を取り戻した。


 そして同時に、守るべきものがまた一つ増えた。


 噂は早い。


 価値あるものは狙われる。


 けれど今度は、ただ奪われるのを待つだけではない。


 白狼亭は、少しずつ守り方を覚え始めていた。

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