第26話 白狼の井戸に、最初の水が戻った
朝焼けの部屋に最初の予約が入った翌日。
白狼亭では、朝から妙な空気が流れていた。
「宿代って、いくら取ればいいんでしょう」
ミラさんが、食堂の真ん中で真剣に悩んでいた。
目の前には宿帳。
横にはエリス。
さらにハーゲンまでいる。
完全に会計会議だった。
「安すぎると続かないわ」
エリスが言う。
「高すぎるとお客様が困ります」
ミラさんが言う。
「安くて良い宿は客に喜ばれますが、潰れます」
ハーゲンが言う。
「潰れるのは困ります」
ミラさんが深刻な顔で頷いた。
俺はその横で、壊れた引き出しを直していた。
白狼亭の帳場にあった古い引き出しだ。
中には昔の硬貨、木札、部屋番号札、客用の鍵が入っていた。
鍵の半分は錆びている。
札の一部は文字が消えかけている。
こういう小物が整わないと、宿としての動きが悪くなる。
王宮の大きな魔導炉より、今はこの小さな鍵の方が大事に思えた。
「ルカさんはどう思いますか?」
ミラさんが尋ねてきた。
「宿代ですか?」
「はい」
「俺は、王宮を追放された日に宿泊代を払おうとして止められた人間です」
「参考にならなさそうね」
エリスが即座に言った。
「自覚はあります」
ハーゲンが笑う。
「では、まずは三段階にしましょう。通常の客室、朝焼けの部屋、星見の間。朝焼けの部屋は眺めと物語がある。星見の間はまだ準備中ですが、将来的には特別室にできます」
「特別室……」
ミラさんは少し遠い目をした。
「うちが特別室なんて」
「白狼様が暖炉前で寝ている宿ですよ。すでに十分特別です」
ハーゲンが言うと、暖炉前の白狼が片目を開けた。
そして、面倒そうに鼻を鳴らす。
否定はしないらしい。
その横では、トマが床に座って白狼を見上げていた。
「白狼様って、宿代いくら?」
「トマ」
ミラさんが笑顔で呼ぶ。
「白狼様はお客様ではありますが、宿の守り神でもあります」
「じゃあ無料?」
「無料です」
「俺も薪割りしたら無料?」
「あなたはまず椅子にぶつからず歩けるようになってからです」
「なんでまだ言うんだよ!」
食堂に笑い声が広がる。
こんな風に、朝から笑い声があること自体が、白狼亭にとっては大きな変化だった。
だが、笑ってばかりもいられない。
エリスが宿帳に線を引きながら、次の課題を口にした。
「屋根と客室は少しずつ進んでいる。湯殿も応急的には使える。料理も戻った。けれど、宿として一番重要なものがまだ足りないわ」
「お金ですか?」
ミラさんが真顔で言う。
「それもだけど、もっと基本」
エリスは窓の外、裏庭の方を見た。
「水よ」
食堂が静かになった。
白狼亭の井戸。
先日、俺が応急的に澱みを抜いたことで、少しだけ息を吹き返した。
だが、まだ飲み水としては使えない。
厨房の水は村から運んだものや、雨水を濾したものを使っている。
それでは宿の営業はできない。
料理にも、洗濯にも、掃除にも、湯殿にも、水は必要だ。
「井戸ですね」
俺が言うと、ミラさんが心配そうにこちらを見た。
「ルカさん、まだ無理は」
「今日は大丈夫です」
三方向から視線が飛んできた。
ミラさん。
ノア。
白狼。
「……大きな無理はしません」
「大きな、が余計」
ノアが言った。
「井戸は森の水脈とつながってる。力任せに直すと、水が怒る」
「怒るのか」
「怒る」
「豆も怒るし、水も怒るし、この宿は感情豊かなものが多いな」
「豆が怒る?」
ノアが首をかしげる。
「ミラさんの旦那さんが言っていた」
「変な人」
ノアはそう言ってから、少しだけ目を伏せた。
「でも、たぶん正しい。森のものは急がせると怒る」
たぶん。
また移っている。
だが今は指摘しないでおいた。
井戸の修復は、午前のうちに始めることになった。
裏庭へ出ると、空気は少し湿っていた。
昨日の雨のおかげで、草の匂いが強い。
ロザおばさんが作りかけの鶏小屋の横で、鶏に餌をやっている。
「井戸をやるのかい?」
「はい」
ミラさんが答えると、ロザおばさんは真剣な顔で頷いた。
「水が戻れば、卵料理も強くなるね」
「そこにつながるんですね」
「宿の朝飯は卵と水だよ」
この人の基準は揺るがない。
井戸の前には、村長とガランさんも来ていた。
ガランさんは新しい縄と桶を持っている。
「滑車と縄は任せろ。井戸の石組みは兄ちゃん、見てくれ」
「わかりました」
「ただし、倒れるなよ」
「今日は本当に倒れません」
「前もそういう顔してた」
信用がない。
白狼は井戸のそばに座った。
ノアは井戸の縁に手を当て、耳を澄ませる。
「昨日より水の音がある」
「白狼道を少し戻したからか?」
「たぶん。封じ石を閉じたのもある。でも奥はまだ黒い」
俺も井戸に近づいた。
水面を覗く。
以前より澄んでいる。
底は見えないが、黒い濁りは薄い。
嫌な匂いも減っていた。
ただ、飲める水の匂いではない。
まだどこかに黒牙の霧が残っている。
「まず、井戸そのものの流れを整えます」
俺は石組みに手を置いた。
古い石は、冷たく湿っている。
指先から、井戸の記憶が流れ込む。
朝。
ミラさんの夫が桶を下ろす。
冷たい水を汲み上げ、顔を洗う。
厨房へ運び、スープに使う。
『白狼の水は、火と相性がいい』
彼の声。
『この水で煮ると、野菜が素直になる』
また食材を人みたいに言っている。
でも、今なら少しわかる。
白狼亭の水は、ただの水ではなかった。
森の奥から流れ、白狼道の下を通り、宿の井戸に湧く水。
旅人の体を温め、料理を支え、湯殿を満たす水。
宿の血液みたいなものだ。
それが三年前から濁り、止まりかけていた。
「思い出せ」
俺は小さく言った。
淡い光が石組みの内側へ広がる。
崩れかけた隙間が締まり、歪んだ石が本来の位置へ戻る。
だが、無理には押さない。
井戸には呼吸が必要だ。
水が入る隙間。
余分な湿気を逃がす隙間。
石が季節で動く余地。
王宮の設備なら、完全に固定することを求められた。
でも宿や森は違う。
動きながら安定する。
それを、少しずつ覚えてきた。
井戸の奥から、水音が強くなった。
ちょろちょろ。
それが、少しずつ増える。
ノアの耳が立つ。
「水が来る」
白狼が静かに立ち上がった。
金色の瞳が井戸を見つめる。
俺は水面へ手をかざした。
黒い澱みが、底の方からゆっくり浮かぶ。
無理に引き剥がすと、水脈を傷つける。
だから、白狼亭の火を思い出す。
暖炉。
スープ。
湯殿。
帰ってきた者の体を温める火。
水は、火と喧嘩するものではない。
この宿では、火と水が一緒に旅人を迎えていた。
「戻ってこい。白狼亭の水」
水面に、淡い白い光が広がった。
黒い澱みが一つにまとまり、煙のように立ち上る。
白狼がふっと息を吹いた。
黒い煙が消える。
その瞬間、井戸の底から透明な水が湧き上がった。
今までより明らかに速い。
水面が揺れ、井戸の中に朝の光が反射する。
「……水が」
ミラさんが息を呑んだ。
ガランさんが新しい桶を下ろす。
縄が滑車を通り、きい、と音を立てる。
しかしそれは、嫌な軋みではなかった。
久しぶりに仕事をする道具の音だった。
桶が水に触れる。
ゆっくり引き上げる。
中には、澄んだ水が入っていた。
ミラさんは両手で桶を受け取った。
「飲めますか?」
俺は首を振る。
「まだ確認が必要です。ノア?」
ノアが水に顔を近づけ、匂いを嗅いだ。
指先で少し触れ、舌先で確かめる。
そして目を見開いた。
「……甘い」
「飲めるのか?」
「まだ少しだけ森の奥の黒さがある。でも、煮沸すれば大丈夫。白狼様が息を入れれば、もっと澄む」
白狼は桶へ顔を近づけ、静かに息を吹いた。
水面が白く光る。
その光が消えた後、水はさらに澄んでいた。
ノアがもう一度確かめる。
「飲める」
その一言で、ミラさんの目から涙がこぼれた。
「白狼亭の水が……戻った……」
村長が帽子を取った。
ガランさんも黙って井戸を見ている。
ロザおばさんは鶏を抱えたまま、何度も頷いていた。
「これで朝飯が強くなるね」
やはりそこだった。
でも、今はその言葉すら温かい。
ミラさんは桶の水を小さな木杯に注いだ。
「ルカさん」
「はい」
「最初に飲んでください」
「俺が?」
「直してくれたから」
「いや、白狼とノアと森の水が」
「みんなで戻したから、まずルカさんです」
ミラさんは譲らない顔だった。
俺は木杯を受け取った。
透明な水。
少しだけ白い光を含んでいるように見える。
一口飲む。
冷たい。
けれど、ただ冷たいだけではない。
喉を通った後、体の奥にすっと染み込む。
森の匂いと、石の静けさと、白狼亭の暖炉の余韻が混じったような味。
「……うまい」
それしか言えなかった。
ノアが少し得意げに言う。
「白狼の水だから」
ミラさんも飲んだ。
目を閉じる。
「この味……覚えています」
彼女は木杯を胸に抱いた。
「夫が、この水でスープを作ると味が違うって言っていました」
「今日のスープで試しましょう」
俺が言うと、ミラさんは涙を拭いて笑った。
「はい。必ず」
エリスが井戸のそばへ来て、水を確認した。
「これで宿として大きく前進ね。飲み水、料理、湯殿、洗濯。全部が回り始める」
ハーゲンも頷く。
「商隊にも売りになります。白狼の水で作るスープ。これは強い」
「また商売の話ですか」
ミラさんが笑う。
「必要な話よ」
エリスは紙に書き込む。
「白狼亭の名物、一つ増えたわね」
その時、暖炉の方から、ぱちんと火が鳴る音がした。
井戸から離れていても聞こえた。
まるで、火が水の帰還を喜んでいるようだった。
白狼が井戸の水を見つめる。
ノアがその隣に立つ。
「森の浅い水も、少し戻る」
「それならよかった」
「でも奥はまだ駄目。封じ石も弱い。水源まで行かないと完全には戻らない」
「次の課題だな」
「うん」
ノアは俺を見た。
「でも今日は、ここまで」
「俺もそう思っていた」
「本当?」
「本当だ」
ノアは疑わしそうだったが、白狼が俺を見て鼻を鳴らした。
どうやら白狼も監視継続らしい。
その日の昼。
ミラさんは戻った井戸水でスープを作った。
同じ野菜。
同じ豆。
同じ干し肉。
でも、味は明らかに違った。
スープが丸い。
野菜の甘みが素直に出て、豆の香りが深くなり、干し肉の塩気が角を失っている。
食堂にいた全員が、一口で黙った。
「……これ、売れるわ」
エリスが真剣に言った。
「だから、売る前提で言うのやめません?」
俺が言うと、エリスは首を振った。
「美味しいものは、守るために売るのよ」
ミラさんは照れながらも、嬉しそうだった。
バートが器を見つめて呟く。
「商会の飯とは、全然違う」
「どんな飯だったんだ?」
ガランさんが聞く。
「腹が膨れればいい飯」
「こっちは?」
バートは少し考えた。
「……帰ってきたくなる飯」
食堂が静かになった。
ミラさんが目を丸くし、それからゆっくり笑った。
「ありがとうございます」
バートは顔を赤くして、乱暴にスープを飲んだ。
「別に、感想言っただけだ」
暖炉の前で、白狼が目を細める。
白狼亭に、水が戻った。
火と水が揃った。
まだ屋根は途中。
客室も少ない。
森の奥には黒牙がいる。
灰羽も逃げた。
でも今日、白狼亭のスープは確かに一段戻った。
壊れた宿は、客を迎えるための力をまた一つ取り戻したのだった。




