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第25話 朝焼けの部屋に、最初の予約が入った

 翌朝、白狼亭には雨が降った。


 細い雨だった。


 霧のように静かで、森の葉を濡らし、屋根を軽く叩く雨。


 普通の宿なら、ただの朝の風景だ。


 けれど白狼亭にとっては、ちょっとした試験だった。


「……漏れてませんね」


 俺は二階の西側客室――かつて“朝焼けの部屋”と呼ばれていた部屋の天井を見上げていた。


 昨日、ガランさんたちと応急修理した屋根の下だ。


 天井にはまだ古い水染みが残っている。


 壁紙も浮いている。


 床も少し軋む。


 だが、雨粒は落ちてこない。


 ぽたり、という音もない。


 ミラさんは両手を胸の前で組み、じっと天井を見上げていた。


「本当に……漏れてない」


「まだ応急です。強い雨だとわかりません」


「でも、今は漏れてません」


 ミラさんは噛みしめるように言った。


「この部屋、三年ぶりに雨の日でも入れます」


 その声が少し震えていて、俺は何も言えなくなった。


 王宮では、雨漏りが止まったところで誰も喜ばなかった。


 止まって当然。


 濡れないのが普通。


 けれど、普通が戻ることは、本当はこんなにも大きい。


 白狼亭は、昨日より少しだけ宿に戻った。


「この部屋、使えるようになりますか?」


「天井板と壁を直して、床を補強して、窓を調整して、ベッドを組み直せば」


「多いですね」


「多いです」


「でも、できるんですね」


「できます」


 今度は、たぶんとは言わなかった。


 ミラさんは嬉しそうに笑った。


 その時、背後から涼しい声がした。


「なら、この部屋を最初の有料客室にしましょう」


 振り返ると、エリスが入口に立っていた。


 手には宿帳と紙束。


 病み上がりのはずなのに、完全に白狼亭の臨時支配人みたいな顔をしている。


「有料客室?」


 ミラさんが聞き返す。


「ええ。今の白狼亭には、無料で助けた客、村人の手伝い、匿っている者、証人、神狼様、獣人の番人……いろいろいるわ」


「最後の方、宿の分類としておかしくないですか?」


「気にしないで」


 気にするなという方が難しい。


 エリスは部屋を見回した。


「でも、宿を続けるなら、ちゃんとお金を払って泊まる客が必要よ。白狼亭は善意だけでは続かない」


 ミラさんは少しだけ表情を引き締めた。


「そうですね」


「朝焼けの部屋。名前もいい。森が見える。屋根を直したばかりという物語もある。最初の客室として十分売れるわ」


「売れる……」


 ミラさんが戸惑ったように呟く。


 エリスは容赦がない。


「宿は思い出だけでは守れない。値段をつけて、客を迎えて、利益を出して、屋根を直して、井戸を戻して、食材を買う。そうしないと、また壊れる」


 厳しい。


 でも正しい。


 ミラさんは少し考え、ゆっくり頷いた。


「はい。白狼亭を続けるために、ちゃんと宿として動かします」


「いい返事ね」


 エリスは満足そうに笑った。


 その時、廊下の向こうから足音がした。


 バートだった。


 昨日までルグラン商会の護衛見習いだった男。


 今は、袖をまくり、木材を抱えている。


「ガランの親方が、こっちに板を持ってけって」


「ありがとう」


 ミラさんが言うと、バートは気まずそうに目を逸らした。


「別に。飯の分だ」


「昨日もそう言っていましたね」


「うるせぇな」


 口は悪い。


 けれど、逃げずに働いている。


 商会では使い捨てられる側だった男が、今は宿の部屋を直す板を運んでいる。


 妙な巡り合わせだった。


 俺は板を受け取り、状態を見る。


「いい板ですね」


「ガランの親方が選んでた。俺には違いがわからねぇ」


「触るとわかります」


「また変なこと言ってるな」


「よく言われます」


 バートは少しだけ笑いそうになり、すぐ真顔に戻した。


「で、俺は何すればいい」


「床板を運ぶのと、古い釘の選別を。曲がっていても、使えるものは分けてください」


「こんな古い釘、捨てねぇのか?」


「使えるものは使います」


 バートは手の中の錆びた釘を見た。


「……ここ、本当に何でも直すんだな」


「何でもではありません」


「でも、捨てる前に見る」


「それは、そうですね」


 バートは少し黙った。


 それから小さく言った。


「商会じゃ、見る前に捨ててた」


「物も?」


「人も」


 重い言葉だった。


 エリスの表情が冷たくなる。


「ルグラン商会らしいわね」


 バートは肩をすくめた。


「俺もそういう場所にいた。だから、偉そうなことは言えねぇ」


「偉そうなことを言わなくてもいいわ。証言と労働で返しなさい」


「公爵令嬢ってのは怖ぇな」


「今は宿の客よ」


「余計怖ぇ」


 バートがぼそっと言うと、ミラさんが少し笑った。


 朝焼けの部屋の修復は、午前いっぱいかかった。


 今日は大きな魔力修復は禁止。


 だから俺は、ガランさんと相談しながら、できるだけ手作業で進めた。


 腐った天井板を外す。


 使える梁を残す。


 湿気を逃がす隙間を作る。


 壁紙は完全に剥がさず、残せる模様を残す。


 窓枠は俺が少しだけ触った。


 少しだけだ。


 ミラさんに見られていたので、本当に少しだけ。


「光りました」


「ほんの少しです」


「ルカさん」


「窓が閉まらないと雨が入ります」


「……それは困ります」


「はい」


「本当に少しだけですよ」


「はい」


 ミラさんはため息をついた。


 白狼が階段下から見ていた。


 完全に監査役だった。


 窓枠は、少し触れただけで息を吹き返した。


 ぎこちなかった開閉が滑らかになり、朝の光が綺麗に入る角度へ戻る。


 この部屋は、朝日を見るための部屋だ。


 それを思い出したのだろう。


 壁の古い布を外すと、下から薄い絵が出てきた。


 白い狼が、朝焼けの森を歩いている絵。


 ミラさんが息を呑んだ。


「こんな絵が……」


「昔の飾りですね」


 エリスが近づいて、じっと見る。


「これは残した方がいいわ。客室の価値になる」


「価値になるって言い方、商人みたいですね」


「褒め言葉として受け取るわ」


 そこへ、ハーゲンが現れた。


「お呼びでしょうか?」


「呼んでないけれど、ちょうどいいわ」


 エリスは当然のように言った。


「この部屋、商隊の最初の予約客に出せると思う?」


 ハーゲンは部屋を見渡した。


 修理途中の天井。

 新しい板。

 残された白狼の壁絵。

 森の見える窓。


 そして雨が止み、雲の切れ間から差し込む光。


「……出せますな」


 彼は笑った。


「完璧な高級客室ではありません。しかし、物語がある。白狼亭が戻ってきたことを感じられる部屋です」


「料金は?」


「通常の辺境宿より少し高くてもいい。ただし、食事付き。白狼亭のスープと朝食を必ず付ける」


 エリスがすぐに紙へ書き込む。


「やはり食事が軸ね」


「はい。商人は寝床より、翌朝動ける飯を覚えます」


「いい言葉ね」


 ミラさんは少し困ったように笑った。


「そんなに期待されると緊張します」


「期待されてください」


 エリスがきっぱり言った。


「白狼亭の料理は、もう武器よ」


「料理は武器じゃなくて、お客様に出すものです」


「だから強いのよ」


 エリスの返しに、ミラさんは言葉を失った。


 俺は少し笑った。


 午後には、朝焼けの部屋の応急修復が終わった。


 まだ完璧ではない。


 壁の一部は仮補修。

 天井も新品ではない。

 床も古い。


 だが、雨は入らない。


 窓は閉まる。


 ベッドも組み直した。


 白狼の壁絵は、煤を拭ったことで淡く見えるようになった。


 ミラさんは部屋の中央に立ち、長く息を吐いた。


「客室だ……」


 その言葉がすべてだった。


 物置でも、立入禁止の部屋でも、雨漏り部屋でもない。


 客室。


 宿が宿であるための場所。


 エリスが宿帳を開く。


「では、記録しましょう。白狼亭再建後、最初の有料客室。朝焼けの部屋」


 ハーゲンが片手を上げた。


「予約します」


 全員が彼を見た。


「私の商隊が次に戻る時、この部屋を一泊。もちろん正規料金で」


 ミラさんの目が大きく開く。


「本当に?」


「ええ。白狼亭の再開一号客になれるなら、商人として名誉です」


 ガランさんが笑った。


「こりゃ決まりだな」


 バートがぽつりと言う。


「金払って泊まりたいって奴が、本当にいるんだな」


「いるわよ」


 エリスが答えた。


「人は、帰れる場所にお金を払うの」


 その言葉に、食堂の暖炉がぱちりと鳴った。


 まるで同意するように。


 夕方。


 ミラさんは宿帳の新しいページに、ハーゲンの予約を書き込んだ。


 手が少し震えていた。


 でも、その文字はしっかりしていた。


『朝焼けの部屋 一泊予約 ハーゲン商隊』


 白狼亭の新しい記録。


 三年前に止まりかけた宿帳に、未来の予定が書き込まれた。


 それを見た瞬間、ミラさんの目に涙が浮かんだ。


「予約って……こんなに嬉しいものだったんですね」


「宿にとっては、未来の約束だから」


 エリスが静かに言った。


 ミラさんは宿帳を胸に抱いた。


「はい」


 その時、玄関の外で白狼が低く鳴いた。


 警戒ではない。


 呼んでいる。


 外へ出ると、雨上がりの空に薄い朝焼けならぬ夕焼けが広がっていた。


 屋根の風読みが、森ではなく、少しだけ西の道を向いている。


 ハーゲンが目を細めた。


「西の道……商隊の道ですな」


 エリスが言う。


「白狼亭が、客を呼び始めたのかもしれないわね」


 ノアは森の方を見たまま、ぽつりと言った。


「森も少し静か。今日は、黒牙が遠い」


 白狼が静かに目を閉じる。


 完全な平和ではない。


 でも、今日は少しだけ穏やかだった。


 俺は白狼亭の看板を見上げた。


 壊れた宿が、客室を一つ取り戻した。


 宿帳に、未来の予約が入った。


 たったそれだけ。


 けれど、それは黒牙を封じることと同じくらい、大事な修復に思えた。

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