第24話 雨漏りする拠点では、世界は守れない
森から戻ったその日の午前。
白狼亭は、妙に現実的な問題に直面していた。
「屋根が抜ける」
ガランさんが、きっぱり言った。
食堂に集まっていた全員が黙る。
封じ石。
黒牙。
灰羽。
ルグラン商会。
公爵令嬢の冤罪。
話だけ聞けば、どれも王都の陰謀劇や英雄譚に出てきそうな大事件だ。
だが、ガランさんはもう一度言った。
「屋根が抜ける」
とても大事なことらしい。
「昨日応急で見た時点でやばいとは思ってたが、今朝ちゃんと確認した。二階の西側客室、その上が特に駄目だ。雨が降ったら、客室どころか廊下まで水が回る」
エリスが宿帳から顔を上げた。
「つまり、拠点化する以前の問題ね」
「そういうことだ。雨漏りする拠点なんざ、敵より先に湿気で死ぬ」
「湿気で死ぬ拠点……」
ミラさんが小さく呟いた。
少し傷ついた顔だった。
「すみません。ずっと直せなくて」
「責めてるわけじゃねぇよ」
ガランさんは頭をかいた。
「一人でどうにかできる状態じゃない。むしろ、今までよく持たせた方だ」
ミラさんは少しだけほっとしたように息を吐いた。
俺は椅子に座ったまま、手元の薬草水の包帯を見た。
封じ石に触れた手は、だいぶ楽になっている。
白狼の息とノアの薬草水のおかげだ。
とはいえ、今すぐ全力で修復できる状態ではない。
それを見抜いているのか、ミラさんとノアと白狼の三方向から「動くな」という圧が来ている。
特に白狼の目が強い。
神狼に監視される修繕士。
王宮でもそんな扱いは受けなかった。
「ルカは、今日は大きい修復禁止」
ノアが言った。
「禁止か」
「禁止」
「屋根が抜けるらしいが」
「ルカが倒れても困る」
ノアは即答した。
その横で白狼が鼻を鳴らす。
完全に同意している。
「でも、状態を見るくらいは」
「見るだけ」
ミラさんが言った。
「触らない。光らせない。倒れない」
「最後だけ妙に具体的ですね」
「実績がありますから」
反論できない。
エリスはペンを置き、紙に優先順位を書き始めた。
「では、今日の作業を分けましょう。ガランさんと村の若者たちは屋根の物理補修。ルカは確認と指示のみ。ミラは食事と休憩管理。ノアは森側の警戒と白狼様の傷の確認。私は証言整理と資材管理。ハーゲンさんは不足資材の調達見積もり」
「俺、働いていいのか?」
バートが食堂の奥から声を出した。
ルグラン商会の護衛見習いだった男だ。
昨夜から逃げる様子はない。
顔色は悪いが、スープは三杯飲んだ。
ジムは足の怪我で横になっている。
カイルはロザおばさんに皿洗いを命じられ、なぜか素直に従っていた。
「働きたいの?」
エリスが尋ねる。
「じっとしてる方が落ち着かねぇ。あと……飯だけ食ってるのも気まずい」
「なら屋根材運び。見張り付きで」
「わかった」
バートは素直に頷いた。
エリスは続ける。
「ただし、逃げたら白狼様に追ってもらうわ」
白狼が片目を開けた。
バートは青ざめた。
「逃げねぇよ」
「賢明ね」
公爵令嬢の笑顔は、時々刃物より怖い。
こうして、白狼亭の屋根修理が始まった。
俺は二階へ上がり、西側客室の天井を見た。
確かにひどい。
板に水染みが広がり、一部は指で押すと柔らかい。
天井裏の梁まで湿気を吸っている。
これを放置すれば、雨漏りどころか天井ごと落ちる。
「……よく客室として使わなかったですね」
俺が言うと、ミラさんは苦笑した。
「使えなかったんです。掃除しようとすると、天井から粉が落ちてきて」
「それは正しい判断です」
「正しい判断をしても、宿としては悲しいですけどね」
彼女は部屋を見回した。
昔は客室だったのだろう。
壁には古い花柄の布。
窓辺には小さな机。
ベッドは解体され、端に寄せられている。
使われなくなった部屋の匂いがした。
でも、死んだ部屋ではない。
窓からは村の畑と、遠くの森が見える。
朝日も入る。
直せば、いい部屋になる。
「ここは、朝日がよく入りますね」
「昔は“朝焼けの部屋”って呼ばれていたそうです」
「いい名前です」
「また使えるようになりますか?」
「なります」
俺は即答した。
ミラさんが少し驚いたようにこちらを見る。
「たぶん、じゃないんですね」
「これは、なります」
天井はひどい。
梁も傷んでいる。
でも、構造の芯は残っている。
ガランさんが補強し、俺が必要な部分を少しずつ整えれば戻せる。
宿の記憶もまだある。
この部屋は、朝に旅立つ客を何度も見送ってきた。
なら、また見送れる。
廊下へ戻ると、ガランさんが屋根裏から顔を出した。
「兄ちゃん、上の梁は二本交換だ。一本は使えるが、支えを入れる」
「水の通り道も変えた方がいいです。煙突側から雨が回っています」
「やっぱりか。瓦の並びが歪んでるんだな」
「あと、あの角の古い金具は残したいです」
「なんでだ?」
「たぶん、屋根の歪みを逃がす役目があります。外すと別の場所が割れる」
「へぇ……そういうのがわかるのか」
「触ればもっと確実ですが」
「触るな」
ガランさんとミラさんとノアが同時に言った。
いつの間にかノアまで廊下にいた。
完全包囲だ。
「わかった。今日は触らない」
俺が両手を上げると、白狼が階段下から鼻を鳴らした。
なぜ聞いている。
神狼の監視能力は高すぎる。
屋根修理は、思ったより順調に進んだ。
バートは口は悪いが、力仕事はできた。
村の若者たちと一緒に木材を運び、古い瓦を下ろし、ガランさんの指示で板を押さえる。
最初は村人たちも警戒していたが、バートが黙々と働くので、少しずつ空気が変わった。
「おい、商会の兄ちゃん。その板、こっちだ」
「バートだ」
「じゃあバート。その板、こっち」
「わかった」
名前を呼ばれた瞬間、バートは少しだけ表情を変えた。
商会の下働きではなく、バート。
たぶん、それだけでも違うのだろう。
食堂では、エリスがジムとカイルから追加の証言を取っていた。
「灰羽は、いつからルグラン商会にいたの?」
「俺が入った時にはもういた。でも表には出ない人だった」
「銀手袋を外したところは?」
「見たことない」
「黒い粉を扱う時、誰が指示していた?」
「灰羽の旦那と、黒杖の術師。商会の番頭たちは見ないふりしてた」
エリスの筆は止まらない。
その隣でハーゲンが、商人の目で証言を補強していく。
「ルグラン商会は表の取引では白い帳簿、裏の素材では黒い帳簿を使うという噂があります。灰羽は、おそらく黒帳簿側の人間でしょう」
「黒帳簿を見つけられれば強い証拠になるわね」
「ええ。ただし王都にあるなら簡単には取れません」
「なら、白狼亭に誘い出す手もある」
「お嬢さん、発想がなかなか物騒ですな」
「私は冤罪で殺されかけたの。遠慮はもうしないわ」
エリスの声は静かだった。
だが、その中には確かな怒りがあった。
一方、厨房ではミラさんが大量のスープとパンを用意していた。
作業する者。
見張る者。
証言する者。
怪我人。
全員が食べる。
白狼亭が拠点になるなら、食事量も増える。
「ミラさん、一人で大丈夫ですか?」
俺が厨房を覗くと、彼女は笑った。
「大丈夫です。ロザおばさんも手伝ってくれていますし」
「鶏小屋は?」
「昼から作るそうです」
「本気なんですね」
「本気です」
ロザおばさんが鍋をかき混ぜながら言った。
「卵は宿の基本だよ。朝食に卵がある宿は強い」
妙に説得力があった。
ミラさんは木べらを握り、鍋を見つめる。
「今までは、一人分を作るだけでした。でも今は、みんなの分を作っている感じがします」
「大変では?」
「大変です」
彼女は即答した。
「でも、嬉しいです」
その横顔は、昨日よりずっと宿の女将だった。
夕方前。
西側客室の屋根補修が一段落した。
完全ではない。
だが、次の雨をしのげる程度にはなった。
ガランさんが汗を拭きながら言う。
「よし。これで天井が落ちる危険は減った。あとは内側だな」
「中の板と梁は、明日以降少しずつ直します」
俺が言うと、ミラさんがすぐ反応した。
「少しずつ、です」
「はい」
「今日はもう大きい作業は終わりです」
「はい」
完全に管理されている。
でも、不思議と嫌ではなかった。
王宮では、仕事を止める声はなかった。
壊れそうな設備があれば、朝まででも直せと言われた。
誰も俺が倒れるかどうかなど気にしなかった。
ここでは違う。
止められる。
食べさせられる。
休まされる。
たぶん、これも修復なのだろう。
壊れた俺の働き方を、少しずつ直されている。
夕暮れ。
白狼亭の食堂には、修理を終えた者たちが集まっていた。
屋根材で汚れたガランさん。
疲れた顔の村の若者。
口数の減ったバート。
証言をまとめたエリス。
香草茶を飲むノア。
暖炉前で丸くなる白狼。
そしてミラさんが、大鍋のスープを器によそっていく。
「今日は、屋根修理お疲れさまでした」
彼女がそう言うと、村人たちは照れたように笑った。
「いや、まだ途中だ」
「でも、一歩進みました」
ミラさんは食堂を見回した。
「白狼亭は、まだ壊れています。でも、昨日より少しだけ雨に強くなりました」
「言い方が可愛いな」
ガランさんが笑う。
みんなも笑った。
白狼亭は、少しだけ雨に強くなった。
それは小さな進歩に聞こえる。
けれど、とても大事な進歩だった。
スープを飲みながら、バートがぽつりと言った。
「……商会にいた時はさ」
全員の視線が彼に向く。
彼は器を見つめたまま続けた。
「壊れたら捨てるのが普通だった。道具も、人も。使えない奴は次の日にはいない。だから、ここは変だ」
「変ですか?」
ミラさんが尋ねる。
「変だよ。壊れた椅子も直す。怪我した敵にも飯を出す。屋根が抜けそうな宿を、みんなで直す」
バートはスープを一口飲んだ。
「でも……悪くない」
その言葉に、食堂が少し静かになった。
ミラさんは柔らかく笑った。
「白狼亭は、壊れたものをすぐ捨てない宿ですから」
エリスが俺を見る。
「その理念、看板に書けそうね」
「宿としては少し重くないですか?」
「でも本質よ」
ノアが小さく言った。
「森も、すぐ捨てない」
白狼が目を細める。
暖炉の火が、ぱち、と鳴った。
その夜、修理した西側の屋根には雨除けの布が張られた。
朝焼けの部屋はまだ客室として使えない。
でも、天井から落ちる粉は減った。
窓辺に立つと、夕暮れの森が見える。
黒牙はまだいる。
灰羽も逃げた。
王都の陰謀も残っている。
それでも、白狼亭は今日、屋根を少し直した。
世界を救うには小さすぎる一歩かもしれない。
でも、帰る場所を守るには十分大きい一歩だった。




