第23話 帰ってきた者たちを、宿の火は叱った
白狼亭へ戻る道は、行きより少しだけ明るかった。
夜が明けたから、というだけではない。
森の空気が変わっていた。
黒く沈んでいた霧は薄れ、足元の土からはかすかな水音がする。
白狼道の細い流れが、まだ消えずに残っているのだ。
完全に戻ったわけではない。
木々の根元には黒ずみが残り、遠くの奥にはまだ嫌な気配がある。
封じ石も応急処置にすぎない。
それでも、森は少し息をした。
それがわかる。
「……歩きやすくなったな」
ガランさんが手斧を肩に担ぎながら言った。
「来る時は、足元がずっと沈むみたいだったが」
「森が少し落ち着いた」
ノアが答える。
「でも油断しないで。黒牙は戻っただけ。消えてない」
「わかってる」
ガランさんは苦笑した。
「さっきので油断できる奴がいたら、そいつは大物か馬鹿だ」
「トマなら油断する」
「しそうだな」
思わず同意した。
白狼は先頭を歩いている。
その背中は、行きより少し疲れて見えた。
脇腹の傷も完全ではない。
けれど歩幅はしっかりしている。
封じ石を守れたことで、白狼道から少し力が戻っているのかもしれない。
俺はランタンを見た。
白狼亭の火は、まだ灯っていた。
小さく、でも確かに。
封じ石の黒い霧の中でも消えなかった火だ。
ミラさんに返さなければならない。
そう思った時、森の出口が見えた。
木々の向こうに、白狼亭の屋根。
まだ修理途中で、ところどころ板がむき出しになっている。
煙突からは朝の煙が上がっていた。
看板の白狼が、朝日を受けて淡く光っている。
帰ってきた。
ただそれだけで、体の力が抜けそうになった。
「倒れないで」
ノアが横から言った。
「まだ倒れてない」
「顔が倒れそう」
「顔でわかるのか」
「わかる」
手厳しい。
白狼亭の前には、ミラさんが立っていた。
寝ていないのだろう。
目元に少し疲れがある。
それでもエプロンをつけ、背筋を伸ばして、こちらを待っていた。
その後ろには、エリス、ハーゲン、村長、ロザおばさん、そして村人たち。
トマもいる。
なぜか白狼に乗る練習用なのか、大きな布を持っていた。
「帰ってきた!」
トマが叫んだ。
ミラさんの表情が、一瞬だけ崩れた。
泣きそうになって、でも女将として踏みとどまる顔。
俺たちが宿の前まで来ると、彼女は深く息を吸った。
「おかえりなさい」
その一言で、森の奥に残っていた冷たさが全部落ちた気がした。
「ただいま戻りました」
俺がランタンを差し出す。
「火、返します」
ミラさんは両手でランタンを受け取った。
中の火を見て、ほっと息を吐く。
「消えなかったんですね」
「はい。何度か危なかったですが」
「何度か?」
声の温度が下がった。
まずい。
「でも消えませんでした」
「危なかった理由は、あとで聞きます」
「はい」
完全に叱られる流れだ。
白狼が横で鼻を鳴らした。
お前は叱られておけ、と言われた気がする。
ミラさんは次に白狼を見た。
「白狼様も、おかえりなさい」
白狼は静かに目を細める。
ミラさんは脇腹の傷に気づき、表情を変えた。
「また傷が……!」
「灰羽にやられた。でも深くはない」
ノアが答える。
「早く洗って、薬草水」
「すぐに」
ミラさんは迷わず動いた。
「白狼様は湯殿へ。ノアさん、手伝ってください。ルカさんは食堂で座る」
「俺も手伝えます」
「座る」
「はい」
命令だった。
逆らえる余地はなかった。
ガランさんが俺の肩を叩く。
「座っとけ。屋根の続きは逃げねぇ」
「それ、安心していい言葉ですか?」
「安心しろ。たっぷり残ってる」
全然安心できなかった。
食堂に入ると、暖炉の火が強く揺れた。
まるで帰還を迎えるように。
いや、違う。
怒っている気もする。
無茶をしてきた者を、宿の火が叱っているようだった。
エリスが椅子に座ったまま、こちらを見た。
「生きて戻ったわね」
「はい」
「封じ石は?」
「応急処置はできました。黒牙は奥に戻った。でも長くは持たないそうです」
「灰羽は?」
「逃げました」
「そう」
エリスの目が冷たくなる。
「逃げたということは、また来るわね」
「たぶん」
「その“たぶん”は正しいわ」
エリスは宿帳の横に置いた紙束を指で叩いた。
「こちらも少し進んだわ。ルグラン商会の下働き三人から、証言を取った。灰羽、銀手袋、黒い粉、夜明け前の別働隊。全部記録した」
「三人は?」
「食堂の奥で寝ているわ。見張り付きでね」
見ると、ジムたちは壁際の長椅子で毛布にくるまっていた。
バートだけは起きていて、こちらを気まずそうに見ている。
「封じ石は……?」
彼が小声で聞いた。
「今は守れた」
「そうか」
バートは顔を伏せた。
「俺たちが運んだ荷のせいで、あんなことに……」
「まだ全部話してもらう必要があります」
俺が言うと、彼は頷いた。
「話す。商会に戻ってもどうせ殺される。だったら、ここで話す」
エリスが静かに言った。
「証言として残すわ。ただし、嘘をついたらわかると思いなさい」
「怖ぇな、お嬢さん」
「ええ。怖いわよ」
エリスはにっこり笑った。
まったく笑っていない笑顔だった。
バートは素直に黙った。
俺は椅子に座った。
直した椅子だ。
ちゃんと支えてくれる。
それだけで、妙に安心した。
すると目の前に、湯気の立つ器が置かれた。
ミラさんではない。
エリスだった。
「食べなさい」
「エリスさんが?」
「ミラは白狼様の手当て。私はスープを運ぶくらいできるわ」
「ありがとうございます」
「感謝するなら、倒れる前に食べて」
俺は器を受け取った。
白狼亭のスープ。
野菜と豆。
干し肉。
少し濃いめの塩。
森から帰ってきた体に合わせた味だった。
一口飲む。
体の奥に、熱が戻った。
「……うまい」
「でしょうね。ミラが、帰ってくる人用に味を変えていたもの」
「帰ってくる人用」
「ええ。森へ行く人用ではなく、帰ってくる人用」
その言葉で、胸が詰まった。
俺たちが森へ行っている間、ミラさんはここで帰りを待ちながら、このスープを作っていたのだ。
怖いまま。
心配なまま。
でも、帰ってきた人が飲む味を考えながら。
宿の仕事とは、そういうものなのかもしれない。
戦場へ行くわけではない。
けれど、帰る場所を守る。
それは戦うことと同じくらい大事だ。
「ルカ」
エリスが声を落とした。
「灰羽は、何か言っていた?」
「俺が鍵になる、と」
エリスの眉が動いた。
「やはり」
「やはり?」
「あなたの修復スキルは、封じ石にも干渉できた。つまり灰羽から見れば、あなたは封印を直すことも壊すこともできる存在に見える」
「壊す気はありません」
「あなたの意思は関係ない。敵がそう見たという事実が問題なの」
エリスは紙に何かを書き込む。
「王宮を追放された修繕士。白狼亭に拾われ、森の封印に干渉できる。灰羽が王宮やディオンに情報を流せば、あなたは狙われる」
「俺が?」
「ええ。白狼亭ごとね」
食堂の暖炉が、ぱち、と鳴った。
まるで聞いているようだった。
「なら、白狼亭をもっと強くする必要がありますね」
俺が言うと、エリスは一瞬黙った。
それから小さく笑う。
「普通は逃げることを考える場面よ」
「逃げても、たぶんまた壊れたものが気になります」
「面倒な人ね」
「よく言われます」
「でも、嫌いではないわ」
エリスはそう言って、視線を宿帳へ戻した。
「白狼亭を強くする。その方針には賛成よ。具体的には、屋根、井戸、湯殿、星見の間、風読み、そして客室。さらに村との連携と見張り体制」
「多いですね」
「宿の再建とは、そういうものよ」
その時、湯殿の方から白狼の低い声が聞こえた。
痛そうな声ではない。
どちらかと言えば、不満げな声。
続いてノアの声。
「動かないで。傷に薬草水が入らない」
さらにミラさん。
「白狼様、我慢してください。昨日より大人しくないですよ」
白狼がまた低く鳴く。
トマの声が混じった。
「白狼様、頑張れー!」
「トマ、覗かない!」
「見てない! 応援!」
「応援も外で!」
食堂にいた全員が、少しだけ笑った。
緊張がほどける。
灰羽は逃げた。
黒牙も残っている。
封じ石は不完全。
でも、白狼亭には朝のスープがあり、白狼の手当てをする女将がいて、怒られる子供がいる。
それは、守る価値のある日常だった。
しばらくして、ミラさんとノアが戻ってきた。
白狼も一緒だ。
脇腹には布が巻かれ、毛並みはまた少し濡れている。
不満そうではあるが、傷の黒い煙は薄れていた。
「ルカさん」
ミラさんが俺の前に立つ。
「はい」
「手を見せてください」
逃げられない。
俺は両手を出した。
封じ石に触れた手は、黒い霜のような跡が残っている。
ミラさんの表情が曇った。
「やっぱり」
「痛みは少しです」
「少し、ですね」
「はい」
「ノアさん」
「黒牙の霧が残ってる。薬草水と白狼様の息で薄くできる」
「白狼様、お願いします」
白狼は面倒そうに俺の手へ鼻先を近づけた。
ふっと白い息がかかる。
黒い霜が薄れていく。
同時に痛みが引いた。
「助かった」
白狼は鼻を鳴らした。
次やったら噛む、くらいの圧があった。
ミラさんが薬草水を布に含ませ、俺の手を拭く。
その手つきは優しい。
だが声は優しくなかった。
「次からは、無茶をする前に思い出してください」
「何を?」
「白狼亭には、帰ってきた人を待っている人がいるということを」
言葉が胸に刺さった。
灰羽の言葉とは違う。
痛いのに、温かい。
「……はい」
「よろしいです」
ミラさんはようやく少し笑った。
ノアが横から言う。
「ルカは森でも怒られた方がいい」
「もう怒られている」
「足りない」
「厳しいな」
「倒れるから」
ノアはそう言って、俺の前に小さな葉を置いた。
「これ、噛んで。黒牙の匂いが残りにくくなる」
「ありがとう」
「白狼様のため」
「わかってる」
「あと……少しだけ、ルカのため」
最後の一言は、本当に小さかった。
ミラさんが微笑む。
ノアはすぐに耳を赤くして、食堂の隅へ逃げた。
エリスが紙束を整えながら言う。
「さて。感動的な帰還のあとで悪いけれど、次の問題よ」
「まだありますか」
「山ほどあるわ」
エリスは窓の外を見た。
朝日が白狼亭の看板を照らしている。
「灰羽は逃げた。けれど、ルグラン商会の下働きと黒い粉はここにある。宿帳には三年前の記録。封じ石には商会が関わった痕跡。これらを整理すれば、ディオンと商会の線を追える」
「王都へ送るんですか?」
「今送れば握り潰される可能性が高い。だからまず、白狼亭を安全な拠点にする」
エリスはきっぱり言った。
「ここから先、白狼亭はただの宿ではなくなるわ。森の異変を監視し、証拠を保管し、人を匿い、商人を迎える拠点になる」
ミラさんは少しだけ緊張した顔をした。
でも逃げなかった。
「宿として、できることをします」
「それで十分よ」
ガランさんが外から顔を出した。
「話がまとまったなら、屋根やるぞ」
全員が彼を見る。
彼は当然のように続けた。
「森だの商会だの封印だの、俺には難しいことはわからん。だが雨漏りする拠点なんざ、話にならねぇだろ」
沈黙。
そして、エリスが小さく笑った。
「正論ね」
ミラさんも笑った。
「はい。まずは屋根ですね」
俺はスープを飲み干し、立ち上がろうとした。
するとミラさん、ノア、白狼の三方向から視線が刺さった。
「……少し休んでからにします」
「そうしてください」
ミラさんが満足そうに頷く。
白狼亭の朝は、こうして始まった。
封じ石を守った夜のあとでも、やることは変わらない。
スープを飲む。
怪我を手当てする。
証言を記録する。
屋根を直す。
壊れたものを、直せるところから直していく。
それが、この宿の戦い方だった。




