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第22話 封じ石は、白狼亭の火を待っていた

 森全体が、低く唸った。


 それは風の音ではなかった。


 木々の軋みでも、獣の声でもない。


 もっと古く、もっと深い場所から響いてくる音。


 森そのものが、長い眠りから身を起こそうとしているようだった。


 俺の手は、封じ石に触れている。


 割れた石の奥から、黒い霧が噴き出していた。

 その向こうには、赤く濁った巨大な目。


 黒牙。


 封じられていた獣が、こちらを見ている。


 近い。


 あまりにも近い。


 石の亀裂から伸びた黒い霧が、俺の腕に絡みつく。


「っ……!」


 焼けるように冷たい。


 矛盾した感覚だった。


 皮膚が凍るようで、内側から焼かれているようでもある。


 黒牙の霧は、壊すための力ではない。


 腐らせる力だ。


 形を崩し、記憶を濁らせ、本来の役目を忘れさせる。


 白狼亭の井戸も、白狼道も、森の水も、きっとこれにやられていた。


「思い出せ……!」


 俺は封じ石に力を流し続けた。


 戻すのではない。


 この石が、何のために立っていたのかを思い出させる。


 森を守るため。

 旅人を守るため。

 白狼が戦わなくてもいい夜を作るため。

 白狼亭の火が、帰る場所として灯り続けるため。


 石の奥に、白い線が走った。


 細い。


 弱い。


 だが、確かに残っている。


「そこだ……!」


 俺はその白い線へ、ランタンの火を近づけた。


 ミラさんから託された、白狼亭の火。


 火が封じ石に触れた瞬間、ぱっと白い光が広がった。


 黒い霧が後退する。


 亀裂の奥で、黒牙が吠えた。


 耳ではなく、頭の中を直接裂くような声だった。


「ぐっ……!」


 膝が折れそうになる。


 だが倒れるわけにはいかない。


 ここで火を落とせば、封じ石は完全に割れる。


「ルカ!」


 ノアの声が聞こえた。


 振り返る余裕はない。


 黒い犬のような獣が、倒木の足場を渡ってこちらへ来ようとしていた。


 その前に、ノアが飛び込む。


 小さな体で、黒犬の爪をかわし、短剣で霧の濃い部分を切り裂く。


 だが黒犬は止まらない。


 戻せないほど黒牙に飲まれた獣。


 痛みも、恐怖も、もう残っていない。


「邪魔!」


 ノアが低く叫ぶ。


 その声には怒りがあった。


 人間に向けた怒りではない。


 森をこんな姿にしたものへの怒り。


 そして、助けられない獣への悔しさ。


 黒犬がノアへ食らいつこうとした瞬間、白い影が横からぶつかった。


 白狼だ。


 白狼は黒犬を地面へ叩きつけ、牙を剥いた。


 だが、その脇腹からは黒い煙が上がっている。


 灰羽の針がかすめた古傷が、また開きかけていた。


「白狼様!」


「よそ見をするな、獣人」


 灰羽の声。


 銀手袋が光る。


 ノアの足元に黒い針が飛んだ。


 彼女は横へ跳んだが、外套の端が裂ける。


 灰羽は笑っていた。


 封じ石が揺れ、黒牙が吠え、森が苦しんでいる中で。


 まるで見世物でも眺めるように。


「素晴らしいな。白狼亭の火、森の番人、追放修繕士。役者は揃っている」


「何がおかしい」


 俺は封じ石から手を離さずに言った。


 声が震えていた。


 恐怖ではない。


 怒りだ。


「森を壊して、白狼を傷つけて、人まで使い捨てにして。何がそんなに面白い」


「使い捨て?」


 灰羽は肩をすくめた。


「人は皆、何かに使われている。王宮に。貴族に。商会に。村に。宿に。違うか?」


「違う」


「違わないさ。君だってそうだ。王宮で使われ、捨てられ、今度は白狼亭に使われている」


 言葉が、胸の奥へ刺さる。


 だが、不思議と痛みは浅かった。


 昨日までの俺なら、揺れたかもしれない。


 でも今は違う。


「俺は、ここで直したいものを直している」


 俺は封じ石を押さえる手に力を込めた。


「誰かに使われているんじゃない。俺が選んだ」


 灰羽の目が細くなる。


「選んだ、か。自由なつもりの人間ほど、操りやすいものはない」


「なら、試してみろ」


 俺はランタンの火を封じ石に押し当てた。


 白い光が強くなる。


 封じ石の白い線が、亀裂に沿って広がり始めた。


 黒い霧が激しく暴れる。


 術師が焦った声を上げた。


「灰羽様、封印が戻ります!」


「戻るなら、壊せばいい」


 灰羽は冷たく言った。


「犬どもを全部ぶつけろ」


 銀の笛が鳴った。


 甲高い音が森に広がる。


 周囲の闇から、赤い目がさらに増えた。


 二つ。

 四つ。

 六つ。


 黒牙に飲まれた獣たちが、こちらへ集まってくる。


 ガランさんが舌打ちした。


「数が多すぎるぞ!」


「ルカを守れ!」


 ノアが叫ぶ。


「封じ石から手を離させないで!」


 ガランさんたちは、倒木の足場を守るように立った。


 手斧。

 縄。

 木の杭。


 武器としては心もとない。


 それでも逃げない。


「宿の屋根より、よっぽど面倒な仕事だな!」


 ガランさんが怒鳴る。


「帰ったら続きがあります!」


 俺も叫び返した。


「忘れてねぇよ! だから死ぬな!」


 黒い獣が襲いかかる。


 ガランさんの手斧がそれを弾き、若者たちが縄で足を絡める。


 ノアが木の上へ跳び、上から黒犬の目を逸らす。


 白狼は灰羽へ向かおうとするが、黒犬二匹に足止めされていた。


 白い毛並みに黒い霧が絡む。


 それでも白狼は退かない。


 守る。


 ただそれだけを体現するように、封じ石と俺の前に立とうとしている。


「白狼!」


 俺は叫んだ。


「こっちはまだ持つ! 灰羽を止めてくれ!」


 白狼がこちらを見た。


 一瞬だけ、金色の瞳が揺れる。


 たぶん、俺を封じ石のそばに残すことを迷った。


 だが次の瞬間、白狼は低く吠え、灰羽へ向かって駆けた。


 黒犬を一体弾き飛ばし、倒木を蹴り、銀手袋の男へ一直線に跳ぶ。


 灰羽は笑った。


「来い、古い守り神」


 銀手袋が黒く光る。


 白狼の爪と、灰羽の左手がぶつかった。


 衝撃で、周囲の霧が吹き飛ぶ。


 灰羽は人間のはずだ。


 なのに、白狼の一撃を受け止めた。


 銀手袋の下から、黒い血管のようなものが首筋まで伸びている。


「人間じゃない……?」


 ノアが呟く。


 灰羽は白狼の爪を押し返しながら笑った。


「失礼だな。私は人間だよ。ただし、少しだけ森の力を借りている」


「黒牙に飲まれてるだけ」


「飲まれる? 違うな。これは利用だ」


 灰羽の銀手袋から黒い霧が噴き出す。


 白狼の脇腹の傷が反応し、白い体が一瞬揺れた。


「白狼様!」


 ノアが駆けようとする。


 だが黒犬が前を塞ぐ。


 俺は歯を食いしばった。


 封じ石の修復は、まだ終わらない。


 白い線は広がっている。


 だが亀裂の中心、黒牙の目がある部分だけが戻らない。


 そこには、何かが刺さっている。


 黒い楔。


 三年前に打ち込まれたものだ。


 たぶん、封じ石を割った原因。


 これを抜かなければ、封印は閉じない。


「……見えた」


 俺は呟いた。


 しかし楔は石の奥深くにある。


 普通に触れない。


 修復の力だけで無理に引き抜こうとすれば、黒牙の霧が逆流する。


 何か足りない。


 白狼亭の火だけでは、楔に届かない。


 白狼の力は灰羽に押さえられている。


 ノアは黒犬に足止めされている。


 ガランさんたちは防戦で精一杯。


 どうする。


 どうすればいい。


 その時、工具巻きの中で小さな音がした。


 ちり、と。


 金属が震えるような音。


 俺は片手で工具巻きを探った。


 出てきたのは、小さな銀の鈴だった。


 いや、これは俺の道具じゃない。


 星見の間で見つかった、森へ助けを呼ぶ鈴。


 ミラさんが、いつの間にか俺の荷に入れてくれていたのだ。


「ミラさん……」


 俺は鈴を握った。


 鳴らすべきか。


 手帳には書いてあった。


 むやみに鳴らすべからず。


 でも今は、むやみではない。


 森へ助けを呼ぶ時だ。


 俺は鈴を高く掲げた。


「白狼亭の火が、帰る場所なら」


 黒い霧の中で、鈴が淡く光る。


「この鈴は、助けを呼ぶ声だ」


 ちりん。


 小さな音が鳴った。


 戦いの音にかき消されそうな、澄んだ音。


 だが、森はそれを聞いた。


 ちりん。


 二度目。


 封じ石の周囲の木々が揺れた。


 ちりん。


 三度目。


 白狼道の方から、水音が強くなる。


 ノアが目を見開いた。


「森が……起きる」


 地面の下から、細い水がいくつも流れ出した。


 黒い泥を押し流すほど強くはない。


 けれど、その水は白狼亭の火を映し、淡く光っていた。


 ガランさんが叫ぶ。


「足元、光ってるぞ!」


 黒犬たちが怯む。


 水に触れた黒い霧が薄れていく。


 灰羽の表情が初めて歪んだ。


「その鈴……まだ残っていたのか」


 白狼がその隙を逃さなかった。


 灰羽の銀手袋を弾き、距離を取る。


 ノアが黒犬の間を抜け、封じ石へ走った。


「ルカ! 楔、見えてる?」


「見えてる! でも届かない!」


「白狼様の息と、森の水と、宿の火を合わせて!」


「簡単に言うな!」


「やって!」


 本当に簡単に言う。


 だが、やるしかない。


 俺はランタンを亀裂へ近づける。


 白狼が封じ石へ向かって白い息を吹く。


 ノアが地面の水に手を当て、森の言葉のような短い響きを口にする。


 水が封じ石の根元へ集まった。


 火。

 白狼の息。

 森の水。


 三つが、亀裂の奥で重なる。


 黒い楔が、はっきりと見えた。


 俺は封じ石に両手を当てる。


「お前は、ここにあるべきものじゃない」


 黒い楔が震える。


 黒牙の赤い目が怒りに染まる。


「出ていけ」


 俺は力を込めた。


 修復ではない。


 異物を取り除く。


 封じ石が、本来の形を思い出すために。


「抜けろ!」


 黒い楔が、亀裂の奥から少しずつ浮き上がった。


 灰羽が叫ぶ。


「術師! 止めろ!」


 黒杖の術師が呪文を唱えようとする。


 だが、その足元にガランさんの投げた手斧が突き刺さった。


「悪いな。大工は投げるのも得意なんだよ!」


「それは大工の仕事じゃないだろ!」


 思わず突っ込んだ。


 だが助かった。


 術師が怯んだ一瞬で、楔がさらに抜ける。


 黒い霧が爆ぜる。


 腕に激痛が走る。


 でも離さない。


 ミラさんの言葉が浮かぶ。


 帰ってきたら、屋根の続きです。


 エリスの声も。


 必ず戻って。


 ノアの声も。


 森では私の言うことを聞いて。


 ガランさんの声も。


 死ぬな。


 そして、白狼亭の暖炉の音。


 ぱち、と薪が爆ぜる音。


 帰る場所の音。


「俺は……戻るんだよ!」


 最後の力を込めた瞬間、黒い楔が抜けた。


 封じ石から黒い霧が一気に噴き上がる。


 黒牙の目が大きく見開かれた。


 怒り。


 憎しみ。


 飢え。


 そのすべてがこちらへ押し寄せる。


 だが、封じ石の白い線が閉じ始めた。


 亀裂が完全に消えるわけではない。


 それでも、黒牙の顔が奥へ押し戻されていく。


 白狼が吠えた。


 ノアも叫ぶ。


 森の水が光り、白狼亭の火が燃え上がる。


 封じ石が、強く輝いた。


 黒牙の目が、霧の奥へ消える。


 そして森に、朝の最初の光が差した。


 夜明けだった。


 黒い犬たちが崩れるように倒れ、霧が薄れていく。


 灰羽は、銀手袋を押さえながら後退していた。


 顔から余裕の笑みが消えている。


「……なるほど。白狼亭は、まだ使える」


「逃げる気か」


 俺が言うと、灰羽はまた薄く笑った。


「今回はね。目的の半分は達した」


「何?」


「封じ石がまだ機能することはわかった。そして、君が鍵になることも」


 嫌な予感がした。


 灰羽は黒い霧の中へ下がる。


「ルカ・フェルド。君は王宮より、ずっと面白い場所に拾われたようだ」


「待て!」


 白狼が飛びかかる。


 だが灰羽の足元から黒い霧が膨れ上がり、姿を隠した。


 霧が晴れた時、灰羽も術師も、残った男たちも消えていた。


 逃げられた。


 だが封じ石は、まだ立っている。


 割れた亀裂には、白い光が薄く残っていた。


 完全ではない。


 でも、今は閉じている。


「……終わったのか?」


 ガランさんが息を切らしながら言った。


 ノアは封じ石に手を当て、耳を澄ませた。


「黒牙は、奥に戻った。でも封じ石は弱い。長くはもたない」


「応急処置か」


「そう」


 ノアは俺を見る。


「でも、守れた」


 その言葉を聞いた瞬間、足から力が抜けた。


 今度こそ倒れる。


 そう思ったが、白狼の尻尾がまた俺を支えた。


「……すまない。三回目くらいか?」


 白狼は深くため息をついた。


 呆れられている。


 けれど、その金色の瞳は、少しだけ優しかった。


 朝日が森に差し込む。


 黒い霧は薄れ、水音が戻り、封じ石の白い光が静かに揺れる。


 ノアが小さく呟いた。


「白狼道が、少し戻った」


 俺はランタンを見た。


 火はまだ消えていない。


 白狼亭の火は、森の奥まで届いた。


 そして、帰る道をちゃんと覚えている。


「帰ろう」


 俺は言った。


「ミラさんがスープを用意して待ってる」


 ガランさんが笑った。


「その前に、屋根の続きだろ?」


「それもありましたね」


 ノアが小さく息を吐く。


「人間は忙しい」


「森も忙しそうだ」


「……そうかも」


 白狼が歩き出す。


 俺たちはその後に続いた。


 封じ石はまだ不完全。

 灰羽には逃げられた。

 黒牙も完全には消えていない。


 問題は山ほど残っている。


 けれど、夜明け前の戦いは終わった。


 白狼亭へ帰る。


 それだけで、足はまだ前に進んだ。

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