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第21話 銀手袋の男は、封じ石を笑った

「遅かったな、白狼亭」


 黒い外套の男――灰羽は、割れた封じ石の前でそう言った。


 夜明け前の森。


 空はまだ暗い。

 けれど、東の方だけがわずかに灰色へ変わり始めている。


 封じ石の周囲には、黒い霧が渦巻いていた。


 石碑は腰ほどの高さ。

 本来なら白い石だったのだろう。

 だが今は、中心に大きな亀裂が走り、そこから墨のような霧が漏れている。


 その霧の奥で、何かが蠢いていた。


 巨大な獣の気配。


 黒牙。


 まだ完全には出てきていない。

 だが、石の向こうからこちらを見ている。


 あの風読みの中で見た、赤く濁った目。


 同じ視線が、今この場にもある。


 白狼が低く唸った。


 灰羽の周囲には、男が五人。


 二人は護衛。

 一人は黒い杖を持った痩せた術師。

 残り二人は荷運びらしいが、腰には短剣がある。


 そして彼らの足元には、黒い犬のような獣が三匹。


 さっき森で見たものより、さらに黒い。


 赤い目。

 裂けた口。

 牙から垂れる黒い霧。


 ノアが短剣を構えた。


「黒牙に深く噛まれてる。あれは戻せない」


 その声は悔しそうだった。


 さっきの二匹は、まだ戻れた。


 けれど、目の前の三匹は違う。

 もう黒牙の霧に飲まれきっている。


 白狼が一歩前に出た。


 脇腹の傷が、黒い霧に反応して薄く光る。


 無理をしている。


 俺にもわかった。


「白狼様」


 ノアが小さく呼ぶ。


 白狼は振り返らない。


 ただ、守るべきものの前に立つ。


 それだけだった。


 灰羽は銀色の左手袋を持ち上げ、ゆっくり拍手した。


「素晴らしい。まだ動けたのか、白狼。三年前にずいぶん深く入れたはずだが」


 ノアの瞳が鋭くなる。


「お前が、白狼様を傷つけたの」


「私ではない。黒牙だ」


「同じ」


「違うな。私は道を開けただけだ。森の奥に眠っていた力を、人間が使える形にするためにね」


 吐き気がするほど軽い声だった。


 灰羽は封じ石に触れ、指先で亀裂をなぞった。


「この石は古い。古すぎる。白狼と獣人と、辺境の宿風情が守ってきた封印など、王都の利益の前では意味がない」


「利益?」


 俺は思わず声を出した。


「森を腐らせて、獣を狂わせて、白狼を傷つけてまで得るものがあるのか」


 灰羽が初めて俺を見た。


 細い目。

 笑っているのに、温度がない。


「君がルカ・フェルドか。王宮を追放された修繕士」


「知っているのか」


「もちろん。君のせいで、西塔の冷却炉が大騒ぎになった」


「俺のせいではないと思うが」


「ふふ。あれは愉快だった。王宮の者たちは、壊れる前に直す人間の価値がわからない。実に扱いやすい」


 その言葉に、背筋が冷えた。


 灰羽は王宮の事情を知っている。

 それも、かなり内側まで。


「ディオンとつながっているのか」


 俺が言うと、灰羽は口元を歪めた。


「つながっている? いいや。彼は顧客だ。欲深く、焦りやすく、父親の影に怯えた哀れな顧客」


「エリスさんの父を殺したのも、お前たちか」


「証拠は?」


 灰羽は楽しそうに言った。


「君たちは証拠が好きだろう? 公爵家の令嬢も、商人も、宿帳も。だが証拠というものは、王都では力のある者が意味を決める」


 ガランさんが低く唸った。


「気に食わねぇ野郎だな」


「田舎大工に気に入られるために生きてはいないのでね」


 灰羽は黒い杖の術師へ視線を送った。


「続けろ。夜明けが来る前に、白い守りを剥がす」


 術師が封じ石の前に膝をつき、黒い粉を撒き始めた。


 あれだ。


 ジムたちが運んでいた、黒牙の近くに生える毒草の粉。


 粉が石の亀裂に触れると、黒い霧が濃くなる。


 白狼が吠えた。


 森が震える。


 その声に、黒い犬たちが一斉に動いた。


「来る!」


 ノアが叫ぶ。


 三匹の黒犬が飛びかかってきた。


 白狼が正面の一匹を受け止める。


 爪と牙がぶつかり、黒い霧と白い光が散った。


 ノアは左の一匹を引きつける。

 小柄な体でまともに受けず、木の根を使って横へ逃がしながら、短剣で霧の薄い部分だけを切る。


 ガランさんと村の若者二人は、右の一匹を相手にした。


「正面から噛まれるな! 足元を見ろ!」


 ガランさんの手斧が黒犬の肩を弾く。


 だが黒犬は止まらない。


 痛みを感じていない。


 俺はランタンを掲げた。


 白狼亭の火。


 黒牙の霧を嫌がらせる火。


 炎を右へ向けると、黒犬が一瞬怯んだ。


「今!」


 ガランさんが叫び、若者二人が縄を投げる。


 黒犬の前脚に縄が絡む。


 転倒まではしないが、動きが鈍った。


 俺はさらに火を近づけた。


 黒い霧がじゅっと薄れる。


 だがその瞬間、灰羽の銀手袋が光った。


「邪魔だな、その火は」


 銀色の指先から、黒い針のような魔力が飛んだ。


 狙いは俺ではない。


 ランタンだ。


「ルカ!」


 ノアが叫ぶ。


 俺は咄嗟に身をひねった。


 針がランタンの縁をかすめる。


 火が大きく揺れた。


「っ!」


 消えかけた。


 俺は両手でランタンを抱え込む。


 ミラさんから渡された火。

 白狼亭の帰る場所。


 これだけは消せない。


「守れ!」


 俺は思わず叫んだ。


 誰に向けたのか、自分でもわからない。


 ランタンか。

 火か。

 白狼亭か。


 その瞬間、ランタンの金具が淡く光った。


 古い金属の記憶が流れ込んでくる。


 白狼亭の夜。

 宿主がランタンを持って森へ向かう。

 迷った旅人を見つける。

 白狼が先導し、火が帰り道を照らす。


 このランタンは、ただ明かりを運ぶ道具ではない。


 帰る場所を、森へ渡すための器だ。


「戻れ」


 俺はランタンの歪んだ縁に手を当てた。


 さっきの針で傷ついた金具が、元の形へ戻る。


 火が再び強くなった。


 白い芯を持つ赤い炎。


 灰羽が目を細める。


「やはり厄介だな、君は」


「よく言われる」


「それは褒め言葉ではない」


「知っている」


 俺は火を掲げ、封じ石の方へ一歩進んだ。


 黒い霧が濃い。


 近づくだけで息が重くなる。


 術師が黒い粉をさらに撒く。


 封じ石の亀裂が広がった。


 奥から、赤い目がはっきり見える。


 黒牙が出てくる。


「白狼様!」


 ノアの声。


 白狼は正面の黒犬を弾き飛ばし、そのまま封じ石へ駆けた。


 だが灰羽が銀の笛を吹く。


 甲高い音。


 森の奥から、さらに黒い気配が動いた。


「まだいるのかよ!」


 ガランさんが叫ぶ。


 木々の間に、赤い目が二つ、三つと浮かぶ。


 時間をかければ不利になる。


 封じ石を今止めないと、数で押し潰される。


「ノア!」


 俺は叫んだ。


「封じ石に近づくには、どこから行けばいい!」


「正面は駄目! 黒い霧が深い!」


「裏は?」


「水脈が死んでる。足場がない!」


「水脈……」


 俺は星図を思い出した。


 白狼道の下を流れていた、細い水音。


 封じ石の周囲にも、昔は水が回っていたはずだ。


 森の水が生きていた頃、封じ石は白狼の力だけでなく、水脈にも支えられていた。


 なら、ほんの少しでも水を戻せば。


「ガランさん!」


「何だ!」


「倒れた木で足場を作れますか!」


「どこにだ!」


「封じ石の右側。水脈の跡があります!」


「見えねぇぞ!」


「俺が光を入れます!」


 俺はランタンを地面へ向けた。


 火が揺れる。


 足元の黒い泥の下に、かすかな流れがあった。


 死んではいない。


 細い。

 弱い。

 でも、まだある。


 俺は膝をつき、地面に手を当てた。


 ノアが叫ぶ。


「勝手に森に触らない!」


「すまん、今だけ許してくれ!」


「聞いてから触って!」


「森!」


 俺は半ばやけくそで叫んだ。


「少しだけ力を貸してくれ! 白狼亭に帰る道を守りたい!」


 一瞬、森が静かになった。


 馬鹿みたいな呼びかけだ。


 でも、俺は本気だった。


 地面の奥で、小さな水音がした。


 ちょろ。


 さっき白狼道で聞いた音。


 ノアが目を見開く。


「森が……返事した」


「ほんとか?」


「たぶん」


「たぶんか」


「今はいい!」


 俺は地面の流れに修復の光を通した。


 押しつけるのではなく、思い出させる。


 ここに水があったこと。

 白狼が通ったこと。

 封じ石を冷やし、黒い霧を抑えていたこと。


 黒い泥の下から、細い水がにじみ出る。


 ガランさんがすぐに動いた。


「お前ら、あの倒木を押せ! 水の上に渡す!」


 若者たちが走る。


 黒犬が邪魔しようとするが、白狼が吠え、ノアがその前に飛び込む。


 ミラさんの焼きパンを食べていた小さな獣人少女とは思えない速さだった。


「ルカ、早く!」


「ああ!」


 倒木が水脈の跡に渡される。


 細い足場。


 不安定だが、封じ石の右側へ回り込める。


 俺はランタンを持って走った。


 灰羽が銀手袋を向ける。


「行かせると思うか」


 黒い針が飛ぶ。


 その瞬間、白狼が割り込んだ。


 針が白狼の脇腹をかすめる。


 傷口から白い光と黒い煙が散った。


「白狼!」


 白狼はそれでも倒れない。


 金色の瞳で灰羽を睨み、低く唸った。


 ノアの顔が怒りに染まる。


「お前……!」


「神獣のくせに、しぶとい」


 灰羽が笑った。


 俺は歯を食いしばり、倒木の足場を渡った。


 封じ石の右側。


 亀裂から噴き出す黒い霧が肌を刺す。


 術師がこちらに気づき、杖を向けた。


 だが遅い。


 俺はランタンを封じ石の亀裂へ近づけた。


 白狼亭の火が、強く燃え上がる。


 黒い霧が一瞬だけ退いた。


 その奥に、白い線が見えた。


 封じ石に残る、白い守り。


 まだ消えていない。


 まだ、直せる。


「戻れ――じゃない」


 俺は封じ石に手を当てた。


 これはただの石ではない。


 白狼が守り、森が支え、白狼亭の火とつながっていた封印。


 壊れたから元に戻す、では足りない。


 この石が何を守りたかったのか。


 それを思い出させる。


「思い出せ」


 指先から光が広がった。


 封じ石の奥で、白い線が震える。


 黒牙の赤い目が、亀裂の向こうで大きく見開かれた。


 そして、森全体が轟くように鳴った。

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