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第20話 壊れた白狼道は、帰る場所の火を覚えていた

 森の闇は、宿から見るよりずっと濃かった。


 白狼亭の灯りが背後に遠ざかるにつれ、木々の影が深くなる。

 枝は空を覆い、月明かりさえ細く裂かれて地面へ落ちるだけ。


 俺の手には、ミラさんから渡されたランタンがある。


 白狼亭の暖炉から移した火。


 小さな火なのに、不思議と頼もしかった。

 普通の火なら森の湿気に負けそうなものだが、この火は揺れながらも消えない。


 むしろ、進むべき方角へ引かれるように、炎の先がかすかに傾いていた。


「その火、ちゃんと道を覚えてる」


 前を歩くノアが言った。


「火が?」


「白狼亭の火は、森で迷った人を帰す火。昔は、白狼様がその火を目印に旅人を連れて帰った」


 白狼は先頭を歩いている。


 足音はほとんどない。


 ただ、その白い背中だけが暗い森の中に浮かんでいた。


 ガランさんが後ろで低く呟く。


「昔話だと思ってたんだがな」


「俺も昨日までは、ただの宿だと思っていました」


「一日でずいぶん認識が変わったな」


「はい。変わりすぎて、まだ追いついていません」


「だろうな」


 村の若者二人は無言だった。


 緊張している。

 無理もない。


 夜明け前の森。

 黒牙。

 封じ石。

 灰羽という謎の男。

 黒い犬のような獣。


 普通なら村人が踏み込む場所じゃない。


 それでも二人は来た。


 白狼亭と森と村を、今度は見捨てないために。


「止まって」


 ノアが片手を上げた。


 全員が足を止める。


 白狼も前方を睨んでいた。


 森の奥から、低い唸り声が聞こえる。


 一つ。


 いや、二つ。


 木々の間に、赤い光が揺れた。


 目だ。


 犬に似た影が、ゆっくりと現れる。


 体は痩せ、毛は黒く濡れたように張りつき、口元から黒い煙を吐いている。

 犬というより、犬だったものだ。


「黒牙に噛まれた獣」


 ノアの声が低くなる。


「もう戻せない。近づかないで」


 村の若者が息を呑んだ。


 ガランさんが手斧を握り直す。


 俺も思わず工具巻きへ手を伸ばしたが、そこで気づく。


 戦う道具なんてない。


 俺の道具は、直すためのものだ。


 だが、目の前の獣はもう壊れているというより、黒い霧に飲まれている。


 直せるのか。


 直していいのか。


 迷った瞬間、白狼が前へ出た。


 低い唸り声。


 森全体が震えるような声だった。


 黒い獣たちは一瞬怯んだ。


 しかしすぐに牙を剥き、こちらへ飛びかかってくる。


「下がって!」


 ノアが叫んだ。


 白狼が跳んだ。


 白い影が、黒い獣の一体を横から弾き飛ばす。


 もう一体はノアへ向かった。


 ノアは身を低くし、短剣で正面から受けるのではなく、横へ滑るように避ける。

 その動きは獣に近い。


 だが、黒い獣の動きも速かった。


 爪がノアの外套を裂く。


「ノア!」


 俺はランタンを掲げた。


 考えるより先に、火を前へ向ける。


 白狼亭の火が、ふっと強くなった。


 赤い光ではない。


 暖炉の奥にあったような、温かい白を含んだ火。


 黒い獣が、その光を浴びて怯んだ。


 煙がじゅっと焼けるように薄れる。


「火を向けて!」


 ノアが叫ぶ。


「白狼亭の火は、黒牙の霧を嫌がらせる!」


「わかった!」


 俺はランタンを両手で持ち、獣の前へ光を向けた。


 黒い獣は苦しそうに身をよじる。


 白狼がその隙を逃さず、前脚で地面を叩いた。


 土が白く光り、獣の足元に円を描く。


 獣の体から黒い霧が剥がれ、夜風に散った。


 黒い獣は倒れた。


 息はある。


 だが、赤かった目が少しだけ濁りのない色に戻っている。


「生きてる……?」


 俺が呟くと、ノアが駆け寄り、獣の首筋に手を当てた。


「浅かった。まだ完全に黒牙になってなかった」


「戻せたのか?」


「白狼様と、宿の火のおかげ」


 ノアは俺を見る。


「今のは、勝手に直したんじゃないから、いい」


「許可制なのか」


「森ではそう」


 かなり厳しい。


 もう一体の獣も、白狼によって地面に押さえ込まれていた。


 白狼は俺を見る。


 ランタンを向けろ、ということらしい。


 俺はそちらへ火を向けた。


 白い炎が揺れる。


 黒い霧が獣の体から薄く剥がれ、白狼の息に払われる。


 獣はぐったりしたが、やがて小さく鳴いた。


 普通の犬に近い声だった。


 ノアがほっと息を吐く。


「これも、まだ戻れる」


 ガランさんが額の汗を拭った。


「いきなりこれかよ……」


「封じ石の近くなら、もっと多い」


 ノアの言葉に、村の若者二人が青ざめる。


 白狼が森の奥を見た。


 急ぐ必要がある。


 でも、今の戦いで一つわかった。


 白狼亭の火は、黒牙の霧に効く。


 俺の修復だけでは届かないものにも、宿の火と白狼の力なら触れられる。


 つまり、封じ石でも鍵になるかもしれない。


「ルカ」


 ノアが呼んだ。


「火、絶対に消さないで」


「ああ」


「それが消えたら、帰り道も弱くなる」


 手の中のランタンが、少し重く感じた。


 これはただの明かりじゃない。


 帰る場所そのものだ。


 俺たちは再び森を進んだ。


 木々はさらに密になり、地面には黒ずんだ根が増えていく。


 途中、古い沢に出た。


 星図では、ここから白狼道へ入るはずだった。


 だが目の前にあるのは、崩れた斜面と倒木、黒い泥に塞がれた道だった。


「ここが白狼道?」


 俺が尋ねると、ノアは頷いた。


「昔は、水が流れてた。白狼様が歩くと、草が開いた」


「今は完全に塞がってるな」


 ガランさんが倒木を見て顔をしかめる。


「斧でどかすには時間がかかるぞ」


 白狼が道の前に立つ。


 低く鳴いた。


 どこか悲しそうな声だった。


 この道を、きっと何度も通ったのだろう。


 迷った旅人を連れて。

 怪我人を背に乗せて。

 白狼亭の火へ向かって。


 その道が今、黒く塞がっている。


「触ってもいいか?」


 俺はノアに聞いた。


 ノアは少し驚いた顔をした。


 勝手に触るなと言われたから、確認しただけだ。


「……白狼様が許すなら」


 白狼が俺を見た。


 そして、静かに一歩退いた。


 許可、らしい。


 俺は白狼道の入口に膝をつき、黒い泥に直接触れないよう、倒木の根元へ手を当てた。


 冷たい。


 木は死にかけている。

 けれど、完全には死んでいない。


 この木も、元は道を守る側だった。


 沢の水を支え、根で土を押さえ、旅人が滑らないよう枝を伸ばしていた。


 それが黒牙の霧を浴び、腐り、道を塞ぐ形で倒れた。


 壊れたものには、理由がある。


 ただ邪魔だからどかすのではなく、どう戻りたいのかを探る。


 俺はゆっくり息を吸った。


 白狼亭の火が近くで揺れる。


 白狼が隣に立つ。


 ノアが黙って見ている。


「戻れ」


 いつもの言葉を口にした。


 だが、すぐに違うと感じた。


 ここは椅子でも、屋根でも、井戸でもない。


 森の道だ。


 元の形に戻すだけでは足りない。


 水が流れ、白狼が歩き、旅人が帰るための道。


 だから言葉を変えた。


「思い出せ」


 倒木の奥で、かすかな音がした。


 黒い泥の下から、細い水音。


 ちょろ、と本当に小さな流れが戻る。


 ノアの耳が立った。


「水……」


 白狼が前脚を地面に置く。


 ランタンの火が強くなる。


 俺の指先から淡い光が広がり、倒木の根元へ染み込む。


 腐った部分を無理に戻すのではなく、まだ生きている根へ水の道を通す。

 黒い泥を押し流すのではなく、白狼亭の火が照らす範囲だけ、霧を薄める。


 がらり、と倒木が動いた。


「おい、動くぞ!」


 ガランさんが若者たちに声をかける。


「押せ! 完全に戻さなくていい、道の片側だけ開けろ!」


 ガランさんたちが倒木を押す。


 俺は根元の流れを支える。


 ノアは黒い泥に触れそうな枝を短剣で切り落とす。


 白狼が前へ出て、白い息を吹いた。


 黒い霧が割れる。


 そして、塞がっていた道の奥に、細い獣道が現れた。


 白狼道。


 完全ではない。


 人が一人ずつ通れるだけの細い道。


 それでも、道だ。


 ノアが息を呑んだ。


「戻った……」


「少しだけだ」


 俺は汗を拭った。


 膝が笑っている。


 さすがに森の道を相手にするのは重い。


 その瞬間、白狼の尻尾が俺の背中を支えた。


 倒れる前に止められた。


「……ありがとう」


 白狼は鼻を鳴らした。


 学習しろ、と言われた気がした。


 ノアが近づいてきた。


「今のは、森を壊してない」


「ならよかった」


「白狼道も、嫌がってなかった」


「そうか」


「……少しだけ、森の直し方、わかってる」


 それは、ノアからの最大級の譲歩に聞こえた。


「ありがとう」


「褒めてない」


「でも、嬉しい」


 ノアは耳を伏せて、ぷいと先へ進んだ。


「急ぐよ。夜明けが近い」


 白狼道の先は、さらに暗かった。


 だが、さっきまでの森とは違う。


 細い水音が、俺たちの足元に沿って流れている。


 白狼亭の火も、前よりまっすぐ燃えていた。


 道が戻ったことで、宿とのつながりが少し強くなったのだろう。


 しばらく進むと、森の奥から笛の音が聞こえた。


 銀の笛。


 バートが言っていた、黒い獣を呼ぶ音。


 ノアの顔が険しくなる。


「始まった」


 白狼が走り出す。


 俺たちも後を追った。


 白狼道の先。


 木々の隙間から、黒い霧が見えた。


 その中心に、割れた石碑の影がある。


 封じ石。


 そして、その前に立つ黒い外套の男。


 左手だけが、銀色に光っていた。


 灰羽。


 男は笛を口から離し、こちらを見た。


「遅かったな、白狼亭」


 その声は、まるで俺たちが来ることを知っていたように、冷たく森に響いた。

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