第19話 夜明け前、白狼亭は森へ火を渡す
白狼亭の夜は、眠らなかった。
食堂では、いつもより強い暖炉の火が燃えていた。
その前に白狼が立っている。
洗われて白さを取り戻した毛並みは、火の赤を受けて淡く輝いていた。
脇腹の傷はまだ残っている。
完全ではない。
それでも、その姿を見ているだけで、食堂にいる者たちの背筋が伸びる。
神狼。
昔話ではなく、今ここにいる森の守り神。
その白狼が、夜明け前に封じ石へ向かおうとしている。
「薬草水、三袋。布、六枚。干し肉と焼きパン。火打ち石は使わない方がいいってノアさんが言っていたので、光苔の瓶を二つ」
ミラさんは厨房と食堂を行き来しながら、手早く荷をまとめていた。
怖いと言っていた。
けれど手は止まらない。
震えていないわけじゃない。
たぶん、怖いまま動いている。
それが強さなのかもしれない。
「ルカさん、これはあなた用です」
ミラさんが小さな包みを差し出した。
「これは?」
「焼きパンに蜂蜜と塩を少し入れました。疲れた時に食べてください」
「ありがとうございます」
「あと、勝手に全部直そうとしないでください」
「……努力します」
ミラさんの目が細くなる。
「ルカさん」
「守ります」
「よろしいです」
完全に見抜かれている。
俺は包みを工具巻きの横に入れた。
工具巻きの中身も確認する。
木槌。
細い鉄針。
小瓶に入れた予備の魔石片。
布紐。
錆落としの油。
短いナイフ。
戦う道具ではない。
直すための道具だ。
封じ石がどんな状態かわからない以上、何が必要になるかもわからない。
ただ、持てるものは持っていく。
食堂の中央では、エリスが宿帳と星図を広げていた。
ルグラン商会の下働き三人――ジム、カイル、バートは、別のテーブルに座らされている。
逃げないようにガランさんと村の若者が見張っているが、三人とも逃げる気力はなさそうだった。
特に足を怪我したジムは、スープを飲んでからずっと大人しくしている。
「もう一度確認するわ」
エリスが静かに言った。
「夜明け前に、灰羽と呼ばれる男の別働隊が森へ入る。目的は封じ石に残る“白い守り”を剥がすこと。あなたたちはその準備用の荷を回収する役だった」
ジムが頷く。
「そう聞いた」
「人数は?」
バートが答える。
「灰羽の旦那を入れて五、六人。護衛が二人。あとは術師みたいなのがいた」
「術師?」
「黒い杖を持った痩せた男だ。あいつだけは、商会の人間って感じじゃなかった」
エリスの表情が険しくなる。
「外部の呪術師かもしれないわね」
ノアが短く言う。
「黒牙の霧を扱う人間がいるなら危ない」
「人間が黒牙を扱えるのか?」
俺が尋ねると、ノアは首を振った。
「普通は無理。扱ってるつもりで、飲まれる」
「つまり、向こうも完全に制御できているわけではない?」
エリスが確認する。
「たぶん」
ノアが言った。
俺を見る。
「移った」
「俺のせいにされても困る」
こんな時なのに、ミラさんが少しだけ笑った。
食堂の緊張が、ほんの少し緩む。
だが白狼が低く鳴くと、空気はすぐに戻った。
時間がない。
「道順は?」
エリスは星図を指差した。
ノアがそこへ指を置く。
「宿から北西へ。古い沢を越える。今は水が弱い。そこから曲がった樫の木まで行く。そこに昔の白狼道が残ってる」
「白狼道?」
「白狼様だけが通れる道。昔は宿主も通れたらしい」
ノアは俺を見る。
「今は壊れてるかも」
「道も直せるかは、見ないとわからない」
「森の道は物じゃない」
「うん。だから無理には触らない」
ノアは少しだけ意外そうにした。
俺がすぐ直すと言うと思っていたのかもしれない。
でも、井戸や風読みを見てわかった。
森は道具ではない。
修復するにしても、宿の床板や椅子と同じようには扱えない。
まず、森がどう戻りたいのかを聞かないといけない。
「同行者は、白狼様、ノアさん、ルカさん、ガランさん、村の若者二人」
ミラさんが確認する。
ガランさんは手斧を肩に担いだ。
「俺は戦えねぇが、木をどかしたり道を作ったりはできる」
「僕たちも行きます」
村の若者二人が頷く。
顔は少し青いが、逃げる様子はない。
「私は残るわ」
エリスが言った。
「悔しいけれど、今の体では足手まといになる。宿帳と証言を整理して、戻った時にすぐ次の手を打てるようにしておく」
「助かります」
「その代わり、必ず戻って」
エリスは俺を見た。
「封じ石を守れたとしても、あなたが戻らなければ宿の戦力が半分以上落ちる」
「戦力扱いなんですね」
「修繕士は今、この宿の要よ」
その言葉に、少しだけ胸が詰まった。
王宮では不要と言われた。
けれどここでは、要と言われる。
同じ俺なのに。
「戻ります」
俺はそう答えた。
エリスは満足そうにうなずき、次にミラさんを見る。
「あなたも無理をしないで。宿に残る方が楽というわけではないわ」
「はい」
ミラさんは頷いた。
「帰ってくる場所を守ります」
その声は静かだった。
けれど、誰よりも強く聞こえた。
出発前、ミラさんは大きな鍋の前に立った。
夜食用のスープだ。
森へ行く者には小さな壺に入れて持たせ、宿に残る者には食堂で配る。
ルグラン商会の三人にも、もう一杯ずつ出された。
バートは器を見て、気まずそうに言った。
「なんで俺たちにまで……」
「お客様ですから」
ミラさんは同じ言葉を返した。
「俺たち、あんたらにとって敵かもしれないんだぞ」
「かもしれません。でも今は、怪我人と、森で怖い思いをした人です」
「……変な宿だな」
「よく言われます」
また俺の台詞が取られた。
だが今は、それでいい気がした。
バートはスープを受け取り、しばらく黙っていた。
そして小さく言った。
「灰羽の旦那は、朝日が昇る直前に動く。夜の霧が一番濃い時間だって言ってた」
エリスが顔を上げる。
「他には?」
「銀の笛を持ってる。あれを吹くと、黒い犬みたいなのが寄ってくる」
ノアの顔色が変わる。
「黒牙に噛まれた獣」
「たぶん、それだ。普通の犬じゃなかった」
「数は?」
「二、三匹。少なくとも」
白狼が低く唸った。
情報が一つ増えた。
危険も増えた。
でも、知らないよりはずっといい。
「ありがとう」
ミラさんが言うと、バートは顔を背けた。
「礼を言われる筋合いじゃねぇよ」
「それでも、教えてくれたので」
「……スープの分だ」
バートはそう呟いて、器に口をつけた。
温かいスープは、嘘を少しだけ溶かす。
昨日までなら、そんな言葉を聞いても意味がわからなかったと思う。
でも今は、少しわかる気がした。
出発の時が来た。
外はまだ深い夜。
けれど東の空は、ほんのわずかに色を失い始めている。
夜明け前の、一番暗い時間。
白狼亭の玄関前に立つと、冷たい空気が頬を撫でた。
看板の白狼が淡く光っている。
屋根の風読みは、森の奥へ向いていた。
ただ、昨日より少しだけ動いている。
まるで道を示すように。
「ルカさん」
ミラさんが近づいてきた。
手には小さなランタン。
普通の火ではない。
暖炉の火を移したものだ。
「これを」
「暖炉の火ですか?」
「はい。白狼亭の火です。森で迷わないように」
ランタンの中で、赤い火が静かに揺れている。
不思議と熱くはない。
でも、手に持つと胸の奥まで温かくなる。
「ありがとうございます」
「それと」
ミラさんは少し迷ったあと、真剣な顔で言った。
「帰ってきたら、屋根の続きです」
「そこですか」
「はい。宿はまだ雨漏りしますから」
思わず笑ってしまった。
いい。
こういう約束はいい。
世界を救うとか、森を守るとか、冤罪を晴らすとか。
大きな話は怖くなる。
でも、帰ってきたら屋根の続き。
それなら、必ず戻らなきゃいけないと思える。
「わかりました。屋根の続きをしに戻ります」
「はい。待っています」
ノアが前に出た。
「行くよ」
白狼が森へ向かって歩き出す。
俺はランタンを持ち、工具巻きを腰に下げ、ノアの後に続いた。
ガランさんと村の若者二人もついてくる。
背後で、白狼亭の扉が閉まる音がした。
だが、灯りは消えない。
窓から暖炉の火が見える。
食堂に残った人たちの影も。
あの火がある限り、帰る場所がある。
森へ入る直前、白狼が一度だけ振り返った。
金色の瞳が、宿を見ていた。
長い間、守り続けた場所。
一度は火が弱まり、忘れられかけた宿。
けれど今は、再び人の声とスープの匂いと暖炉の火を取り戻した場所。
白狼は静かに目を細めた。
それから、森の闇へ踏み込んだ。
俺たちも続く。
夜明け前の森は、黒い霧を抱えていた。
遠くで、何かが吠えた。
犬のようで、犬ではない声。
ノアが短剣に手をかける。
「来る」
白狼が前へ出る。
ランタンの火が、俺の手の中で強く揺れた。
封じ石までの道は、もう始まっている。




