【第3章】穏やかな夜と、すぐそこにある明日
四十年という時間の川を囲炉裏の火が溶かしていく。
「天人様」と歓迎された凪と駿はその日、集落のはずれにある納屋のような空き家を一時的な寝床として提供された。電気も水道もない昭和の山村での暮らしは、現代人の感覚からすれば極端に不便そのものである。しかし、二人は必要以上に焦る様子もなく、淡々とその環境を受け入れていた。むしろ、のどかな風景の中でのんびり過ごす時間は皮肉にも理想の休日そのものだった。
翌日からは、老人と一緒に山へ入る生活が始まった。
舗装されていない山道を手際よく進む老人の背中を追いながら、山菜採りや川釣りを教わった。都会育ちの二人にとって、手つかずの自然を前にするのは新鮮な体験だ。川の水は透き通り、小魚が群れをなして泳いでいる様子がはっきりと見える。
「じいちゃん、この辺の山菜ってどれが食べられるんだ?」
「これだよ。お前さんたちは都会から来たみたいだから、どれが毒草かわからんじゃろ。素人は見分けがつかんから二人だけじゃ危なくてダメだぞ。じいちゃんに言えば、いつでも山に連れて行ってやるからな」
老人が手招きしながら優しく声をかける。それに対して、凪は屈託のない笑顔で答えた。
「それは助かるよ。じゃあ明日の朝、またあの場所に行こう」
「おう、任せておけ!」
その言葉にはどこかへ帰らなければならないといった焦燥感はない。ただ目の前の生活を自然な形で楽しんでいる。
老人の生活の知恵は驚くべきものだった。竹を使って見事な籠を編み上げたり、手作りの道具で器用に火を熾したりする様子を見て、駿は技術者としての感銘を受けたようだ。
「いや、竹をここまで均等に削るって、手先の器用さだけじゃなくて道具のクセを完璧に把握してないと無理だろ」
駿が目を輝かせて感心すると、老人は「こんなのは当たり前の仕事さ」と豪快に笑った。
その日の夕方、二人は老人への感謝を込めて、ワゴンの最新キッチンを稼働させることにした。
「我がワゴンの最新鋭キッチンシステムをご覧にいれましょう!」
Doyaが自信満々のアバターを表示させ、ディスプレイから元気のいい声が響く。
「この高周波グリルと温度センサーを組み合わせれば、厚切り肉の火入れだってこの通りです。僕のプロトコルに任せてください!」
Doyaのドヤ顔は相変わらずだが、機能の高さは本物だ。最新のグリル機能を用いて極上の焼き加減に仕上げられたステーキはジューシーな香りを漂わせている。
驚く老人にそれを振る舞うと、老人は目を丸くして舌鼓を打った。
「ほお……こんな美味い肉、わしは初めて食ったぞ。まるで天国じゃ」
老人との距離は美味しい食事を通してさらに縮まった。集落の畑仕事を手伝い、川釣りの成果を自慢し合いながら、時間はゆっくりと流れていく。
夜になると辺りは深い闇に包まれ、虫の音だけが響き渡る。
二人は明日の予定について、楽しげに言葉を交わしていた。
「駿、明日の朝、川に仕掛けた魚の網を見に行こうよ」
「そうだな。もし大漁だったら、じいちゃんと一緒に塩焼きにしてもいいな」
「それ、美味そうだな。あと明日は畑に種を撒くのを手伝うからな、じいちゃん」
「おう、頼りにしてるぞ、若いの」
彼らは疑うことなく、目の前の明日を信じていた。来年や十年後の遠い未来について考える者は誰もいない。確かなことは、明日という日がすぐそこにあり、楽しい予定が詰まっていることだけだ。
月明かりが納屋の小さな窓から差し込み、二人は静かに眠りについた。穏やかな昭和の山村の夜は、ゆっくりと更けていく。




