第十回 馮迅、旧知己と再会す
「馮兄、それでは我々はこれで」
整然と居並ぶ二百の兵の前で、劉雲心は常と変わらぬ様子で別れの言葉を口にした。馮迅も特に構えず返す。
「おう、達者でな。何かあったら連絡して来い、いつでも手を貸すぞ。もっとも俺もしばらくは旅の空だから、連絡の取りようもないか」
「馮兄の方こそ、何もなくても是非ご連絡を。紫雲鏢局の者に言伝してください。今は勘当同然の身ではありますが、伝言くらいは運んでもらえるようですから」
「ああ、そうさせてもらうよ」
「馮迅様、白怜お姉様、この度の御恩は必ずいつかお返しいたします」
伯姫が深々と頭を下げる。
「御恩だなんて大袈裟に考えなくて良いぞ。俺が勝手にしゃしゃり出て、勝手に助けただけなんだからさ」
「ほんと、その通りよ。この男ったら歩く先からお節介して回るんだから、一々恩返しなんて受けてたらこっちはいつまで経っても旅が進みやしないわ」
いつも通りのやり取りに伯姫は口元を隠して小さく笑い、馮迅達の隣りへ目を転じる。
「イチノミヤ様にフクロウ様も大変お世話になりました」
「どうかお元気で、伯姫様」
「イチノミヤ様も」
少女二人が別れを惜しむように手を取り合う。
江湖を闊歩する馮迅や劉雲心と違い、名家の令嬢ともなれば容易く再会とも行かないのだろう。
「……はぁ、これは後で雷兄にどやされるな」
フクロウが何事かぼやくが、この数日ですっかり隠さなくなった故国の言葉らしく聞き取れなかった。
「――それじゃあ、俺達もこれで」
劉雲心と伯姫――と二百の兵士――を宿の前で見送ると、そのままイチノミヤとフクロウに別れを告げる。
「はい、白怜お姉さまも馮迅さまもお気を付けて」
「ああ、二人も何か困ったことがあったら俺に――」
「それはもう良いからっ。とっとと行くわよっ」
「あっ、ちょっと祭酒様っ」
白怜に後ろ襟を引っ張られ、何とも格好の付かない出立となった。寂しげだったイチノミヤが愉快そうに笑ってくれたことが救いか。
見えなくなるほど小さくなるまでイチノミヤは宿の前で手を振って見送ってくれた。
「それにしても紫雲鏢局ってのはすごいんだな。三日で二百も兵士を寄越すだなんてさ」
「そんなわけがないでしょうが。二百人ってのもありえないけど、何よりあの兵士、国の正規軍だったじゃないの。どこに官軍を自由に動かせる鏢局があるってのよ」
「ああ、お揃いの格好をしていたけど、あれって官軍の具足なのか」
「そうよ。つまり伯姫はやっぱり――、いえ、口を滑らせても面倒だし、間抜けは知らずにおいた方が良さそうね」
「間抜けって、もしかして俺のことか?」
「他に誰がいるってのよ」
かくして馮迅と白怜は二人旅に戻った。
それから数日を横筋や獣道を選んで北へ進み、――やがてこの国を南北に貫く玄紅道へと出た。
ここまで大道は避けてきたが岱山はすでに遠く、もう半日も北上すれば目指す萊山である。これ以上は岱山派の目を気にする必要もないと言う判断だ。
前回この道を通った時は北から南へ、倪飛燕ら鉄刀門の門人を伴っての道行きだった。そのまま都の瑞京に乗り込んで悪漢達を率いて役人や豪商相手の大立ち回りを演じることになるのだが、それはまた別の話だ。
「それで、本当に今度は萊山に乗り込む気なのか、祭酒様?」
「なぁに? 馮一剣の弟子を名乗る貴方としては、盟友たる萊山派の連中が心配ってわけ?」
「いや、むしろ逆。心配なのは祭酒様の方」
「この私が心配ですって? 貴方なんかには百年早いわよ」
「そうは言うけどけっこう危なっかしいこと多いじゃないか、祭酒様。大師兄には斬られそうだったし、雲心の内力に当てられてヘロヘロになってたし、飯屋の盗賊連中にだって押し込まれそうになってただろ?」
「それは、……って、どれもだいたい貴方が原因じゃないのよっ!」
「はは、気付かれたか」
馮迅が救い出さなければ莫進達は眠ったままで白怜に追い付いていないし、馮迅が揉め事に介入していなければ劉雲心とは関りすら生じていない。盗賊達だって白怜一人ならば荒事に発展する前に眠らせることも出来ただろう。すなわち太陰教と言うのは本来――
「だいたい、正面切って戦うなんて野蛮な真似はこの私の流儀じゃないのよっ。罠を仕掛け搦め手を突き、敵に姿も気取らせず勝利を収めてこそ太陰教の次期教主と言うものよ」
そう、太陰教の武術の本流は詐術に謀術、毒術に暗器である。真正面から名門正派の達人と対したり、無頼の類とは言え多勢に襲われれば後手に回らざるを得ないのだ。
「ふんっ、こちらから策を弄し罠を巡らせ毒を仕込めるなら、どこの流派の総本山だろうが、それこそ軍営だって王城だって落として見せるわよ。この私が岱山に忍び込んで秘伝書を盗み出したのを忘れたわけじゃないでしょうねっ?」
「それはまあそうなんだけど」
実際、太陰教が本気で誰かを害そうと計画したなら回避は難しい。どんな達人であっても朝から晩まで始終気を張り続けるなど不可能だからだ。食事中や就寝中、――あるいはすっかり心を通わせたつもりの養い子の前で、警戒心を解かない者はいない。
だから白怜が本気で攻め込むつもりなら馮迅が心配すべきは萊山の者達だろう。だがこの旅で目にした白怜の行動はどうにもちぐはぐだ。使用した内錬毒と言えば眠りに誘う香である“睡蓮”ばかりで、莫進達にあわやと言うところまで追い込まれて初めて即死性の“委蛇”を使ったのが唯一の例外だ。
眠らせるだけではどこかで必ずぼろが出る。といって殺戮を繰り返し過度な恨みを買えば行き付く果ては破滅である。その辺りの使い分けこそ太陰教が邪教と蔑まれ武林中から敵意を向けられながらも長く存続してきた理由なのだ。してみるとこの旅での白怜の行動はどうにも均衡に欠ける。――もっとも、白怜が平和的な方向に傾くのは馮迅としては願ってもない話ではあるのだが。
「あ、だからといって勘違いするんじゃないわよ。別に太陰教が荒事では正派の連中に劣ると言っているわけではないわよ。それはあくまで本家の話」
馮迅の思案顔を別の意味に取ったのか、白怜が言い足す。
「“名門正派に五岳派あらば太陰教に十大分家あり”と言ってね。太陰教の本流は詐術に毒術だけれど、分家の者達はちゃんと武術も修めているんだからっ。莫進や無影剣相手に無敵だった貴方の奪刀術だって、うちの連中相手には――」
「――おひいさまぁ~~っ、ようやく見つけましたぞぉっ、おひいさま~~~っ!」
まるで計ったように胴間声が響いた。次いでドスドスと騒がしい足さばきの軽功で前方より巨体が近づいてくる。
「――っ」
「げっ、噂をすれば熊崩山じゃないのっ」
咄嗟に馮迅が吞み込んだ名を、白怜が口にする。
「いかにも、太陰教が十大分家、序列第一位の熊崩山ですぞ。ようやく探し当てましたぞっ、おひいさま」
「おひいさまと言う呼び方はいい加減にやめてと言っているでしょう。成人して何年経ったと思っているのよ」
「そうは言いましても、儂にとってはいくつになってもおひいさまはおひいさまですからなぁ。おひいさまも儂のことは昔のように熊叔父ちゃんと呼んでくれて構わんのですぞ?」
「……ちっ」
舌打ちなどしているが、白怜の態度は実に気安げだ。
太陰教の身内と言うのもあるが、その中でも彼は特別だろう。邪教などと言われるだけはあり変わり者や偏屈な人間が多い太陰教にあって、熊崩山と言う男は実に愛嬌のある真っ当な好漢なのだ。
龍迅――かつての馮迅――もずいぶん可愛がってもらった記憶がある。
「どうしてここが」
「はっはっはっ、簡単な話ですな。おひいさまが岱山派の連中と諍いを起こしたと言う噂を聞きましたのでな。それなら次に向かうのは大方萊山であろうと。――ああ、そちらが今評判の偸刀鬼ですかな?」
「ちっ、貴方の博覧っぷりを甘く見たわね」
萊山行きを読まれて待ち伏せされたのは夏秀蕾と同じだが、状況が違う。
熊崩山は事も無げに言ったが、莫進らとの諍いからまだ半月ほどしか経ってはいない。しかも秘伝書を盗まれた挙げ句に偸刀鬼などと言う怪人物の介入を許したなんて話を、岱山派があえて喧伝するとも思えない。だから白怜と岱山派の諍いはもちろん、白怜に馮迅が同行していることも本来知る由もないはずなのだ。
どこか気の抜けた話しっぷりと裏腹に、緻密な情報収集に加えてその後の白怜の行動の予測まで完璧。以前と同様、十大分家序列第一位の当主自ら――もっとも馮迅の知る当時は序列第三位だったが――江湖を練り歩き諜報活動に余念がないようだ。
熊崩山はその矛盾した性質から“博覧豪気”の異名を取り、太陰教の参謀役を務める人物なのだ。
「――さあっ、おひいさま、教団へ帰りましょう」
「いやよ、目的を遂げるまで私は帰らないわ」
「でしたらせめて、護衛として儂をお連れ下さい。次期教主たるおひいさまが護衛も連れず一人旅だなんて、いけませんぞ」
「今は一人旅ではないし、護衛なら間に合っているわ」
「なるほどなるほど、偸刀鬼が護衛を務めていると言うのは事実でしたか」
「そんなことまで聞き及んでいるの? とにかく、それなら分かるでしょう? 岱山派の花剣客を退けるような奴だもの、護衛には十分よ」
「しかしその男、あの忌々しき馮一剣の弟子を名乗っていると聞きましたぞ。そのような者がおひいさまの護衛などと」
「そんなの嘘に決まっているじゃないの。それに騙りとは言え馮一剣の弟子をこき使えるのは気分が良いしね」
「騙り、それならば良いのですが。馮一剣の弟子と言うのはさすがに偽りとしても、岱山派にゆかりの人物である可能性は? そんな若造があの莫進めに勝ったと言うのも、にわかには信じられません。莫進が負けたふりをしたとは考えられませんかな?」
「あのおじいちゃんがそんな真似をするかしら? だいたい、何のために?」
「もちろんおひいさまの信頼を得るためです。はっきり言いますぞ、その偸刀鬼とやら、岱山派から送り込まれた間者なのでは?」
「岱山派の間者ですって」
白怜が目を見開き、次いで探るような視線を馮迅へ向けてきたが――すぐに頭を振った。
「いや、ないわね。こんな間抜けな間者、ありえないわ。岱山派だって間者を送り込むならもう少しましな者を使うでしょうよ」
「なんなんだ、その謎の信頼感は」
「しかしおひいさま、全て演技と言う可能性は?」
「ないない。これが演技なら瑞京で一番の人気役者にだってなれるわよ」
「しかし大賢は大愚に似ると言う言葉もございますぞ」
「……うう~ん、そう言われると」
先程までの信頼感はどこへ行ったのか、白怜は再び馮迅に胡乱な目を向ける。
「いや、やっぱりないわね。岱山派同士口裏を合わせたってだけならともかく、その後の行動も全部間抜けなんだもの、こいつ。似るんじゃなくて大愚そのものよ」
「嫌な納得のされ方だなぁ」
「おひいさまっ、しかし――」
「くどいわよ、熊。分家の者が次期教主の言うことに逆らおうって言うの? 身の程を知りなさい」
「おひいさまこそ勘違いをされてますぞ。十大分家の当主が従うのは教主のみ。次期教主とはいえ、おひいさまの命に従う義務は儂らにはありませんぞ」
「むっ、何ですって?」
ある種の緊張感が場を支配するも――
「はっはっはっ、とはいえ次の教主様に嫌われてしまっては分家の当主など務まりませんなっ!」
熊崩山が即座に笑い飛ばした。
「分かったようね。だったらそこをどいてちょうだい」
白怜はほっと肩の力を抜くと、玄紅道の真ん中で行く手を塞ぐようにしている熊崩山に言う。が、巨体は身じろぎもせず道を開ける気配はない。
「何よ、まだ何かあるって言うの?」
「ええ、おひいさまの言い分は理解しましたが、だったらそんな間抜け一人におひいさまの護衛を任せるわけにはいきませんぞ。せめて、実力ぐらいは確認させてもらわないと――」
熊崩山は背中に担いだ巨大な斧を引き抜き、どすんと地面に突き立てた。




