第一話 黄昏の魔女、旅立つ
大陸最強の魔女が、まさか自分を育ててくれた祖母に家から追い出されるなんて!?
「黄昏の魔女」の学園生活は、いったいどんな幕開けを迎えるのか……。
「黄昏の魔女」――リエラ・エルヴェイン。
人知れず命を奪う、恐るべき魔女。
世間の人々は、彼女をそう評していた。
「燃えない炎と通常の炎の違いは、熱量にある。炎に熱を生み出すための魔力を注ぎ込まなければ、『燃焼』しない炎を生み出すことができる」
「同じように、生と死の違いは時間にある。生命と死の間に存在する時間を取り除くことができれば、対象を瞬時に死に至らしめることが可能となる。これこそが『界魔法』の本質である」
彼女は、自らの論文にそう記していた。
『燃えない炎』を生み出すこと。それは中等部の魔法教科書にも正式に採用され、すべての生徒が習得を求められる基礎課題となっている。
しかし、『界魔法』によって生と死の境界を取り除き、敵の命を瞬時に奪うことは、リエラただ一人にしか成し得ない神業だった。
そんな魔法界全体から恐れられる伝説の魔女が、今、とある知らせを前に途方に暮れていた。
「リエラ。明後日から、エルドリア学院に通いなさい」
そう告げたのは、五十歳ほどの女性だった。
先代『月影魔女』――セシリア・アーデルハイトである。
「……は?」
リエラは固まった。
「ちょ、ちょっと待って! 今、なんて言ったの!? 今日は嘘祭りでもないでしょ! おばあちゃん、寝ぼけて頭でもおかしくなったんじゃない!?」
少女は、ほとんど悲鳴に近い声を上げた。
「『学校に行かせるくらいなら、いっそ殺してくれ』って、私がどれだけ学校嫌いか、おばあちゃんが一番よく知ってるでしょ!?」
「これ以上目上に向かってそんな口を利くなら、干物にしてやるわよ」
「……終わった」
リエラは心の中で呟いた。
「で、でも……学校の子たちに私が『黄昏の魔女』だって知られたら、絶対怖がられるよね? それに、私の魔法はもう十分すごいし、今さら学校で勉強したところで意味なんてないと思うんだけど……。だ、だから、やっぱり家にいたほうがいいんじゃないかな……?」
話すにつれて、リエラの声はどんどん小さくなっていった。
「誰が正体を明かして通えと言ったのよ。面倒なら、誰にも言わなければいいでしょう」
セシリアは容赦なく言い放った。
「それに、エルドリア学院が魔法だけを教える場所だとでも思っているの? 少しはまともな人間になるための勉強もしてきなさい。ごちゃごちゃ言い訳してないで、明日はもう入学式よ。今すぐ荷物をまとめなさい!」
言い終わるや否や、セシリアが杖を振るった。
すると、リエラのわずかな衣類――というより、もはや布切れと呼んだほうがふさわしい代物が、魔法によって次々と宙に浮かび、乱暴に旅行鞄へと押し込まれていった。
何しろ、九年もの間ほとんど家から出ていなかった筋金入りの引きこもりである。
リエラにとって、服は見た目よりも着心地が何より大切だった。
コーディネートだの、流行だの、そんなものを気にしたことなど一度もない。
こうして祖母に容赦なく追い立てられた少女は、半ば強制的に学院へと旅立つことになった。
(……追い出された。)
リエラは遠くを見つめた。
風が吹き抜け、ほどけた長い髪がふわりと揺れた。
* * *
(学校に通うなら、近くの町で日用品を買っておかないと……)
リエラは片手で頬杖をつきながら、旅行鞄の上に腰掛け、ゆっくりと飛行魔法を展開していた。
紫色の縁取りが施された黒いローブが風を受けて揺れ、背中に流した長い髪も風に煽られて舞い上がる。
祖母に急かされるまま家を飛び出してきたため、彼女はほとんど何も持っていなかった。
強いて言えば、一番準備が整っているものは――
「本当に、これだけあれば一生暮らせそうなんだけど……」
リエラは手にしたずっしりと重い袋を軽く持ち上げた。
中に入っているのは、ルヴェイン王国で最も購買力の高い通貨、聖金貨である。
『魔女』の報酬は驚くほど高額だ。
リエラが魔女の座を継いでから蓄えてきた給金だけでも、王都に貴族の邸宅を二、三軒建てられるほどの額になる。
そして、今持っているのは、そのほんの一部にすぎなかった。
(それにしても……飛行魔法を使うのなんて、何年ぶりだろう。)
リエラは頬杖をつく手を反対側に替えた。
(それにしても、どうしてこんなに遅いの……。)
飛行魔法は、常に集中力を維持しなければならない。少しでも気を抜けば、姿勢を保つことすら難しくなる。
そうでなければ、とっくに眠ってしまっていたところだ。
そんなことを考えながら、リエラは小さくあくびをした。
(あ、見えてきた。)
雲の切れ間から、一つの町がぼんやりと姿を現した。
* * *
王都の西側に位置するベルフィーユは、規模こそ小さいものの、領主の行き届いた統治によって大いに栄えている町だった。
街には朝から人々が行き交い、活気に満ちた声が絶えることはない。
馬車が石畳の道を走り抜け、規則的な車輪の音を響かせる。子供たちは道端で追いかけっこをし、時折、通行人の脇をすり抜けるように駆けていく。旅行者らしい服装の冒険者たちは、屋外の酒場のテーブルを囲み、昼食を楽しみながら旅先での出来事を語り合っていた。
通りの両側には大小さまざまな店が軒を連ねている。
パン屋からは焼きたてのパンの香ばしい匂いが漂い、串焼きの屋台には買い求める客が列を作っていた。花屋の店先には色とりどりの花が並べられ、道行く人々の目を楽しませている。
商隊が通りを訪れると、町はさらに賑やかになる。
各地から運ばれてきた品々が次々と馬車から降ろされ、商人たちはさまざまな訛りの混じった声で値段を交渉する。あちこちから威勢のいい呼び込みが聞こえ、遠くからは陽気なアコーディオンの音色まで流れてきた。
「いいなぁ……」
リエラは思わず呟いた。
そのとき、すぐ横から野太い声が飛んできた。
「おーい、お嬢ちゃん! リンゴはいらないかい?」
声をかけてきたのは、筋骨隆々とした大柄な男だった。
腕にはリンゴの詰まった籠を抱えており、いかにも人のよさそうな笑顔を浮かべている。訛りの強い田舎言葉も、どこか親しみやすく感じられた。
「あ……ありがとうございます。おいくらですか?」
リエラはそう答えながら、聖金貨の入った袋に手を伸ばした。
「いいっていいって! これはお嬢ちゃんにあげるよ!」
男は豪快に笑いながら、リンゴを一つ差し出した。
「ところで、お嬢ちゃん。そのローブ、ずいぶん変わった格好だな……もしかして、魔女かい?」
「……っ!」
リエラの動きがぴたりと止まった。
(まずい……!?)
「ははっ、冗談だよ! あの『黄昏の魔女』様が、こんな小さな町に来るわけないだろう!」
(……正解。)
リエラは必死に笑顔を取り繕った。
「あ、あの……ちょっと用事があるので、そろそろ失礼しますね。リンゴ、ありがとうございます」
「おう! ベルフィーユで楽しい一日を過ごしてくれよ!」
「は、はい……!」
男の声が遠ざかっていくのを感じながら、リエラはようやく安堵の息を吐いた。
(びっくりした……。やっぱり、このローブのせいかな。)
彼女は自分の身にまとった黒いローブを見下ろした。
(仕方ないか。少し対策しておこう。)
リエラはそっと手を持ち上げ、唇を動かした。
「『 オブスキュラ』」
小さな詠唱とともに、魔力が静かに広がっていく。
それは、他者の認識に干渉する魔法だった。
この魔法をかけておけば、他人が彼女を本来の姿と結びつけることは難しくなる。つまり、正体を簡単に見破られる心配もなくなるというわけだ。
(これで、誰かに気づかれる心配もないね。)
魔法が問題なく発動したことを確かめると、リエラはようやく満足そうに口元を緩めた。
あとは日用品を買い揃えて、学院に行けばいい。
これで、きっと何の問題もないはずだ。
――少なくとも、このときのリエラはそう思っていた。




