第十二講:予想外の社会情勢
荒廃した京町の姿を見た一週間後。二度目の実習は、教授の研究室に集合し簡単な注意喚起をしたのち、すぐに来栖の指定した値で別の世界へ移動となった。
「……っ!」
教授が言うには、まず時計屋を探し、現在日時や場所を知るのがいいという。が、そうしなくとも、重苦しい空気から何となくどこのいつの時代か、俺たちには分かった。
「ワイマール共和政下のドイツ……そんな雰囲気がする」
「そこまで分かるのか。さすが京町大の学生ということか……」
「適当に言ってるだけスよ。当たってないかも」
明らかに時計らしきものを売る店に入って確かめると、カレンダーが示すのは1941年12月。時計を確かめると、12月8日の午前10時。
「1941年ともなれば、とっくにヒトラー政権下だな。しかし恐怖と絶望から来るような混乱は感じない……例えるならば、絶望捜査官のいたあの世界に近しいものであろうが」
「何の話ですか?」
「あぁ、いや、何でもない。こちらの話だ」
「確かにヒトラーが政権を握ってたら、こんな雰囲気ではなさそうですね。ヒトラーが台頭してこなかった世界、とか?」
「彼に限ってそんなことがあるだろうか? その思想、行動は歴史の中でも指折りの大いなる反省点だが、演説をはじめとした人心掌握のセンスは間違いなく一流だ。それに彼はいずれ政治を支配するその時のため、入念に準備を進めていた。民衆の前に出てくることすらできず、くすぶって終わる世界がそうそう簡単に生まれるとは思えない」
「それって、そういう選択肢はそもそも生まれない、って意味ですか」
「そう」
教授があごを触って、少し考えるそぶりを見せてからもう一度口を開いた。
「歴史上のある一点で選択肢が生まれ、分岐し並行世界が生まれると私は説明した。しかしその選択肢には無限の可能性がある、というわけではない。もちろん特定の分岐点でこの可能性しかない、と限定されることも少ないが、それでもある程度は絞られる。他に、この世界の置かれた状況を把握するための証拠を探そう」
教授がいったん止めた足を再び動かす。かと思うと、ぴたりとすぐに止めて俺たちの方を振り向いた。
「いや、一応保険をかけておこう。先に帰り道を確保しておいた方がいいかもしれない」
「それって、」
「かつて私が経験した世界ほどではないが、どこか危なっかしい印象を雰囲気から受ける。積み木が崩れるか崩れないか、絶妙なバランスを保っている……そういう雰囲気を、感じないか」
「要は危ない、ってことスよね」
「……」
「なんでそんなことになるんスか。危なくないような世界を選んでるって言ってたっスよね」
「それは、」
「まあ元から怪しいとは思ってたんだよな。説明も全部胡散臭い、とても教授らしい風格とか、そういうのがあるとは思えない。別に並行世界の観光とかどうでもいい。さっさと帰らせてくれ」
「不可能だ」
「は?」
「現状、世界間移動には相当エネルギーを消費する。ああ見えて、一般家庭の一日の消費電力にして、五世帯分くらいは一人移動させるのに使う。加えて仕事を終えた後はひどく熱を持つようになっている。クールダウンに十五分はかかると思ってくれ」
「なんだよそれ……!」
瀬川も来栖も怒っていた。この時点で俺とは決定的に考えていることが違うのだと、思わざるを得なかった。
「人の時間を何だと思ってんだよ。こんな危ねえところに連れてきて、それで悪びれもしないで……!」
「これは君たちのための講義だ」
「……!」
「やりすぎると職権乱用だからあまりやりたくはないが、君たちが実習に真摯に向き合わないことを理由に、単位を与えなくとも問題はない。試験を課さない以上、実習の評価に重きを置くというのは、何ら不自然なことではないからだ。それにこの講義は私からお願いして受講してもらっているわけではない。あくまで君たちの意思によるものだ。だからこの講義が嫌なのであれば、他で単位数をカバーすることを強く勧める」
「何なんだよ……!」
「それに、私はこの世界が危険であることを察知し、一刻も早く帰還することを考えている。無理にこの世界に居残るとは決して言わない。その点でも、私の行動は正当性があると思うが?」
「……ッ」
二人も二人だが、教授も教授だ。教授の声は落ち着き払ってこそいたが、その背後に怒りがあるのは明らかだった。思い返せばそれほど豊かな感情というものを、俺たちに見せたことがない教授。怒りがこれほど素直に表に出る人だったのか。あるいは子どもっぽい、とも表現できるのかもしれない。
「私は研究者だ。大学教員をやってはいるが、その本質は好奇心旺盛な狂人であって、教育者としてそれほど適性がないということは、自覚している。だが……」
その時だった。息の詰まるような静寂がほんの一瞬だけ辺りを包んだと思った直後、銃声が響いた。すぐにあちこちで老若男女の悲鳴が聞こえる。市街地での銃撃戦が始まった。最悪の状況。
「逃げるぞ……!」
教授のかけ声がなくとも、俺たちの取るべき行動は分かりきっていた。教授が先導し、俺たちはついて行く形で走る。教授が何やら右手を地面に向かって振っていた。そのタイミングに合わせて、俺たちの走る速度が心なしか速くなっているように感じた。辛うじて、銃声から遠ざかり、少しの時間であればやり過ごせそうな建物の陰に隠れられた。
「あと何分ですか」
「五分と少し。君たちは祈ってくれ。私は……今この場を切り抜けるために、全力を尽くす」
教授はそう言うと、すぐさま俺たちを囲む壁を作るような手の動作を始めた。実際のところ何が起きているのかは分からなかったが、俺たちの知識では説明できない力をもってして、守ろうとしてくれていることは分かった。
思えば、教授がどういう過去を持っているのか、俺たちはほとんど知らない。知る必要がないのは事実だが、その口から確かに、とある並行世界を救うために寿命をいくらか犠牲にした、と語られている。他にも何か、特別な能力を持っていてもおかしくない。
「この声は……」
どこか遠くで男の演説する声が聞こえた。記録にあるヒトラーの声とは違う気がした。しかし民衆は同じように、決起するかのような雄叫びを上げていた。この世界がどのような道をたどって現在に至るのか、分かることはないまま時間が過ぎた。
「……よし。帰ろう」
しばらくの揺れに耐えてから目を開けると、元の世界、教授の研究室に無事戻れていた。
「……チッ」
来栖と瀬川は自分たちが無傷なことを確認すると、すぐに舌打ちしてどこかへ行ってしまった。俺はそんな二人を呆然として見送ることしかできなかった。




