第7話 江戸開城
では、どうぞ
慶応四年一月、海路江戸へと帰還した徳川慶喜は、その後の方針をめぐって、家臣団の間に深刻な路線対立を生むことになる。
主戦論を唱える者と、恭順を説く者との間で、江戸城内の議論は紛糾を極めた。この対立の構図そのものについては、すでに多くの先行研究が詳述しているため、本書では繰り返さない。ここでは、本書の主題であるアラスカ統治、そして後に北氷道と呼ばれることになる土地に関わる人々の動向に絞って、この時期の動きを追っていきたい。
小栗忠順は、この時期、主戦派の中心人物の一人として知られていた。彼は、箱根での迎撃戦術を具体的に提案するなど、軍事的な抗戦を最後まで主張し続けた人物として、後世に記憶されている。だが、慶喜は最終的に、勝海舟を中心とする恭順派の意見を採用し、小栗は二月、勘定奉行ならびに陸軍奉行並の職を解かれることとなった。
この罷免は、小栗個人の運命にとってのみならず、北米の領土をめぐる今後の処遇にとっても、ひとつの重要な分岐点であった。なぜなら、小栗こそが、アラスカ買収構想の最初の発案者であり、この事業に最も深く関与してきた人物だったからである。彼が政権中枢から退いたことにより、買収した領土の今後の扱いについて、誰が責任を持って判断するのか、という問題が、にわかに宙に浮くことになる。
小栗は罷免後、領地である上野国権田村(現・群馬県高崎市)に隠棲することを選んだ。彼がこの隠棲の間、アラスカの領土について何らかの構想を抱き続けていたかどうかは、明確な史料に乏しい。ただ、後年、彼のもとを訪れたとされる榎本武揚との会話の断片が、榎本家に伝わる聞き書きの中に残されている。
「かの地のことは、もはや拙者の手を離れた。されど、捨て置かれることだけは、あってはならぬ」
この言葉が、実際にいつ、どのような文脈で語られたものか、厳密な裏付けは難しい。だが、本書ではこれを、小栗がこの時期、自らの構想が政争の中で見失われることへの危惧を抱いていたことを示す、ひとつの傍証として記しておきたい。
一方、榎本武揚は、この時期、幕府海軍の主力艦隊を率いる立場にあった。彼は主戦派と恭順派、いずれの立場にも完全には与せず、独自の判断のもとで動いていたと、複数の記録が示している。
三月十四日、勝海舟と西郷隆盛との会談によって、江戸城の無血開城が決定された。この決定は、江戸の市街を戦火から救うという、歴史的に高く評価される成果をもたらした一方で、徹底抗戦を主張していた一部の幕臣たちにとっては、到底受け入れがたいものであった。
四月十一日、江戸城は正式に新政府軍に明け渡された。
この前後、榎本武揚は、幕府海軍の艦船八隻を率いて、江戸湾を脱出するという行動に出ている。これは史実においても確認されている事実であり、本書の世界線においても、おおむね同様の経過をたどっている。
ただし、本書の主題に関わる重要な点がひとつある。それは、この艦隊の中に、アラスカ買収交渉に関わった一部の幕臣、また、買収契約の原本や関連書類の写しを携えた数名の文官が、同乗していたという事実である。
この事実は、後年、榎本家に伝わった文書群の中から発見された、艦隊乗組員名簿の断片によって裏付けられている。なぜ、これらの文官たちが、この段階で艦隊に同乗することになったのか、その経緯を直接示す史料は、現時点では見つかっていない。
しかし、本書では、ひとつの推測を提示しておきたい。すなわち、江戸城開城という事態に直面し、新政府による接収が現実のものとなる中で、榎本らは、買収によって得られたばかりのこの北方領土の処遇について、新政府の判断に委ねることへの強い危惧を抱いていたのではないか、という見方である。
新政府にとって、この北米の領土は、自らが交渉し、獲得したものではない。旧幕府が、いわば「最後の置き土産」として遺したものに過ぎない。その価値を、新政府が正しく理解し、引き継ぐ保証はどこにも存在しなかった。
ならば、せめてこの領土に関する正確な記録だけは、自分たちの手で守り抜かなければならない。
この想いが、艦隊出航の決断にどれほどの影響を与えたのか。それを断定することは、現存する史料の限界からして難しい。だが、少なくともこの後に続く戊辰戦争の最終局面、そして北方領土の運命を考える上で、この「記録を携えた艦隊の出航」という事実は、見過ごすことのできない意味を持っている。
榎本艦隊は、品川沖を出航し、北へと向かった。その先に待っていたのは、奥羽越列藩同盟を中心とする、東北諸藩の抵抗と、そしてやがて訪れる、蝦夷地への道のりであった。
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