第6話 鳥羽伏見
では、どうぞ
大政奉還ののち、政局は急速に緊迫の度を増していった。
慶応三年十二月九日、朝廷において王政復古の大号令が発せられ、慶喜に対する辞官納地、すなわち内大臣の官職と所領の一部返上が求められることとなった。この決定の背後には、薩摩・長州両藩を中心とする倒幕派の強い意向があったことは、すでに広く知られている通りである。
江戸城内、そして大坂城に退いていた旧幕府陣営の間では、この決定に対する反発が急速に高まっていった。先月、自分たちが世界に向けて誇るべき大事業を成し遂げたばかりであるという自負が、こうした反発の底流にあったと指摘する歴史家は少なくない。北米の広大な領土を手に入れたばかりの政権が、なぜここまで追い詰められなければならないのか、という、ある種の理不尽さへの怒りである。
もっとも、この自負が実際の政治・軍事判断にどれほどの影響を与えたかについては、慎重な検討を要する。アラスカ買収という事業はその性質上、外交・財政上の成果ではあっても、目前に迫った京畿における軍事的緊張を、直接に緩和するものではなかった。むしろ、一部の歴史家が指摘するように、この成功体験が、旧幕府陣営内部に、ある種の楽観、あるいは慢心に近い空気を生んだ可能性も否定できない。
慶応四年一月三日、ついに鳥羽・伏見において、旧幕府軍と薩摩・長州を主力とする新政府軍との間で、戦端が開かれた。
この戦闘の経過については、すでに数多くの先行研究によって詳細が明らかにされており、本書において改めて詳述する必要はないだろう。簡潔に要約するならば、旧幕府軍は兵力において新政府軍を上回りながらも、装備の近代化の遅れ、指揮系統の混乱、そして何よりも、朝廷から「錦の御旗」を掲げられたことによる心理的動揺から、戦闘の主導権を握ることができなかった。
ただし、本書の関心からひとつだけ付言しておきたい点がある。それは、この戦闘において横須賀製鉄所で建造が進められていた新型の艦船、また、フランス式の軍制改革によって整備されつつあった伝習隊の一部が、実戦投入される前の段階にあった、という事実である。
もしアラスカ買収交渉に投入された外交資源と財政的な配慮が、いま少し国内の軍備近代化に振り向けられていたならば、鳥羽・伏見における戦況は、あるいは異なるものになっていたかもしれない。これは、後世から振り返るがゆえに可能な、いわば「後知恵」の批評ではある。だが、限られた資源を、対外的な版図拡大と、国内の軍事的近代化という、二つの優先課題の間でどう配分するか、という問題は、この時期の幕府指導層が直面していた、根源的なジレンマであったと言えるだろう。
小栗忠順自身は、鳥羽・伏見の敗報を江戸城内で受け取ったと伝えられている。彼がこの時、何を思ったか、直接の証言は残されていない。だが後年、小栗の縁者によって伝えられた逸話によれば、彼はこの敗報に接した際、しばらく沈黙した後、ただ一言こう呟いたという。
「北の土地だけは、いかなることがあろうとも、手放してはならぬ」
この逸話の史実性については、本書でも判断を留保せざるを得ない。少なくとも、この言葉が示す思想、たとえ幕府という政体そのものが滅びようとも、買収によって得た北方の領土だけは、何らかの形で守り抜かれるべきだという発想がこの時期の幕臣の一部に共有されていたことは、その後の経緯からも、間接的に裏付けられる。
鳥羽・伏見の敗北は、旧幕府陣営に決定的な打撃を与えた。慶喜は大坂城を脱出し、海路、江戸へと帰還する。この時、慶喜に同行した家臣団の中には、すでに次の局面、すなわち、新政府軍に対してどのような形で抵抗を続けるか、あるいはどのように事態を収拾するかをめぐって、激しい議論が交わされていたと伝えられている。
そして、この議論の片隅である一つの考えが、ごく一部の人間の間で、密かに語られ始めていた。
もし、本州における抗戦がもはや成り立たないのであれば、すでに我らの手にあるあの北の大地へ、活路を見出すことはできないか。
この考えが、後にどのような形で実を結び、あるいは結ばなかったか。それを語るためには、まず、鳥羽・伏見以降半年にわたって続くことになる苦しい敗走の道のりを辿らなければならない。
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