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もし日本がアラスカを手に入れていたら  作者: 如月 愁
第一章 統治まで

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第4話 買収交渉

では、どうぞ

 慶応三年六月、サンクトペテルブルクより、ようやく正式な訓令がもたらされた。


 この訓令の内容は、横浜駐在領事館を通じてマハロフから榎本武揚へと伝えられている。ロシア政府は、幕府との間で、露領アメリカの譲渡について、具体的な条件交渉に入る用意がある、というものであった。


 ただし、この訓令には、ひとつの重要な留保が付されていた。この交渉は、あくまで合衆国との交渉と並行して進められるものであり、ロシア側は、いずれか早くより有利な条件を提示した側と契約を結ぶ、という方針である。


 これは、ロシア側にとって極めて合理的な判断であった。膠着している合衆国との交渉が、いつ再び動き出すとも限らない以上、幕府という新たな選択肢を保険として確保しておくことに、何ら不都合はない。むしろ、二つの交渉相手を競わせることで、より有利な条件を引き出せる可能性すらあった。


 この情報は、榎本を通じてただちに小栗忠順のもとへともたらされた。小栗にとって、これは朗報であると同時に、新たな焦燥の種でもあった。合衆国側の事情が好転し、再び交渉が動き出せば幕府側の優位はたちまち失われる。一刻も早く、具体的な条件を詰め契約を成立させる必要があった。


 ここから慶応三年の夏から秋にかけて、交渉は急速に具体化していくことになる。


 最大の論点は、当然のことながら価格であった。ロシア側が当初提示した金額は、史実において合衆国との間で最終的に合意された七百二十万ドルを相当程度上回るものであったと複数の史料が示唆している。これは、幕府という、財政基盤の不透明な相手から、より多くを引き出そうとするロシア側の意図と同時に、合衆国との交渉における基準額を、最初から吊り上げておきたいという思惑の双方が働いていたためと考えられる。


 小栗は、この高額な要求に対し二つの方策で応じている。


 第一に、支払い条件の柔軟化を求めた。一括払いではなく、複数年にわたる分割払いとし、初年度の支払いを抑えることで、当面の財政負担を軽減する案である。


 第二に、支払いの一部を現金ではなく、現物、すなわち日本国内で産出される金銀によって充てるという提案である。これは、当時の幕府が比較的調達しやすい資産を活用する苦肉の策であった。同時に、ロシア側にとっても貴金属による支払いは、現金よりも国際的な信用力を保ちやすいという利点があり、双方の利害がある程度一致する提案でもあった。


 交渉はまた、譲渡される領土の範囲についてもいくつかの確認を要した。ロシア側が提示した境界線は、おおむね史実におけるアメリカ・アラスカの版図と一致するものであったが、南部の一部島嶼の扱いをめぐって、若干の調整が行われている。最終的に確定した境界は、後の北氷道の行政区分の基礎となるものであり、これについては次章以降、改めて詳述することとしたい。


 交渉のもうひとつの焦点は、現地に居住するロシア人入植者、および露米会社の権益の扱いであった。ロシア側は、当初、現地のロシア人入植者の財産権の保護と、一定期間の居住・営業の自由を契約条件として強く求めている。


 この点について、幕府側は比較的柔軟な姿勢を示したと伝えられている。榎本は、ロシア側との会談の中で、現地のロシア人住民を強制的に排除する意図はなく、むしろ、彼らの持つ統治・開発の知見を、新たな統治機構の中で活用したいという意向を伝えたとされる。この姿勢は、後の委任統治期において、ロシア系住民が一定の役割を担い続けることになるひとつの伏線として記憶しておく必要がある。


 慶応三年九月、両者はおおむねの条件について合意に達した。最終的な合意金額は、史実の合衆国・ロシア間の七百二十万ドルを、円換算で相当程度上回る額であったとされるが、正確な数値については後年の混乱の中で原本の多くが失われており、複数の二次史料の間でも食い違いが見られる。本書では、この点について断定的な記述を避け、今後の史料発掘に委ねたいと思う。


 いずれにせよ、契約の細部はほぼ固まった。残るは両国元首、すなわちロシア皇帝アレクサンドル二世と、将軍徳川慶喜の、それぞれの裁可を得るのみであった。


 だが、この最後の段階において交渉は思わぬ形で、時間との戦いに直面することになる。江戸の政情が誰の予想よりも速く、坂を転がり落ち始めていたからである。

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