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もし日本がアラスカを手に入れていたら  作者: 如月 愁
第一章 統治まで

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第3話 榎本武揚、露使と会す

では、どうぞ

 榎本武揚が対露交渉の実務を委ねられたのは、慶応三年三月のことであったと伝えられている。


 榎本は、文久二年から元治元年にかけてオランダに留学し、海軍技術のみならず国際法や西欧の外交慣行についても、相応の見識を有していた人物であった。帰国後は開成所の教授方を務め、また幕府海軍の艦船運用にも深く関わっていたが、語学力と国際感覚を見込まれ、この極秘の交渉に抜擢されることとなる。


 交渉の窓口となったのは、横浜に駐在していたロシア領事館であった。当時、日本国内には正式なロシア公使館は存在せず、外交実務の多くは箱館はこだてに置かれたロシア領事館、もしくは横浜における臨時の接触を通じて行われていた。


 幕府側の最初の接触は、極めて慎重なものであった。小栗忠順の指示のもと、榎本はまずロシア側に対し、あくまで非公式の打診という体裁を取りながら、露領アメリカの売却交渉が事実かどうかを確認するところから始めている。


 この時期のロシア側の対応記録は、サンクトペテルブルクの外務省文書館に残された書簡群の中に、断片的に見出すことができる。横浜駐在領事は、本国宛の報告書の中で次のように記している。


「日本国幕府より、内密の打診あり。彼らは、我が国が露領北方の地の譲渡を検討しているという情報を得ている様子である。これが事実であれば、幕府側にも交渉に参加する意志がある由」


 この報告が当時のロシア外務省、そして駐米公使ストエクルのもとに、届くにあたっては、史料上いくつかの経路が存在したことが確認されている。本書では詳細な外交文書の追跡は割愛するが、結論から言えば、ロシア側はこの幕府からの打診を、当初は半信半疑をもって受け止めていたことが分かっている。


 無理もないことであった。当時の日本は、欧米列強から見れば、いまだ近代国家としての体裁を十分に整えていない、極東の一島国に過ぎなかった。その国の政権が、北米大陸の広大な領土を買い取るだけの財政力を持っているとは、誰も本気で考えていなかったのである。


 しかしロシア側にとって、この打診には看過できない側面があった。すなわち、合衆国との交渉が事実上膠着している現状において、たとえ可能性が低くとも、別の買い手の存在を確保しておくことには、戦略的な価値があった。買い手が複数存在するという事実そのものが、いずれ合衆国との交渉が再開された際の、交渉力強化につながる。コンスタンチン大公周辺の判断は、この一点に集約されていたと考えられる。


 かくして慶応三年五月、横浜において榎本武揚とロシア領事館付き書記官アレクサンドル・マハロフとの間で、初めての公式会談の席が設けられた。


 この会談の詳細を記した記録は、榎本家に伝わった私的な日記と、ロシア側の公電の双方に残されている。両者を突き合わせることで当日の様子を、ある程度の確度で再現することができる。


 榎本は、会談の冒頭に流暢なオランダ語(当時、ロシアの外交官の多くも、国際語としてフランス語と並びオランダ語に通じていた)を用いて、幕府が露領アメリカの譲渡に関心を有していることを正式に伝えた。これに対しマハロフは、まず買収の意志がどの程度具体的なものか、そして何よりそれを実行するだけの資金的裏付けがあるのかを、率直に問い質している。


 この問いに対する榎本の返答は後年、幕末外交史を研究する者の間で、しばしば引用される一節として知られている。


「我が国は、いまだ貴国やかの合衆国に比べれば、若く、小さき国家である。されど、その若さゆえに、この取引によって得られるものの価値を、誰よりも理解する用意がある」


 この言葉が、その場でどの程度マハロフの心証に影響を与えたかは定かではない。だが、少なくともこの会談を境に、ロシア側は幕府との交渉を単なる儀礼的な打診ではなく、現実的な選択肢のひとつとして扱い始めることになる。


 もっともこの時点では、まだ具体的な金額や条件についての話し合いには至っていない。マハロフは、本国からの正式な訓令を待つ必要があると述べ、この日の会談は相互の意志確認という段階で終わっている。


 榎本がこの夜、江戸に戻る船上で何を思っていたか、それを直接示す史料は残されていない。ただ後年、明治期に入ってから、ある人物に宛てた書簡の中で、榎本は次のように回想している。


「あの頃、我らは皆、沈みゆく船の上にあった。されど、沈む前に、何か一つでも、後に残るものを掴みたいと、誰もが心のどこかで願っていたのではないか」


 この回想が、具体的に何を指して書かれたものか文脈からは判然としない。だが、本書ではこの一節を当時の幕臣たちが置かれていた心情の、ひとつの証言として記しておきたい。


 交渉はここから先、本国の訓令を待つロシア側と、国内の政情がいよいよ緊迫の度を増す幕府側との間で、時間との競争という新たな局面に入っていくことになる。

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