第2話 旧幕府の窮状
では、どうぞ
慶応三年、西暦一八六七年における江戸幕府の財政状況は、もはや破綻という言葉を用いることに、誰も躊躇いを覚えないほどに逼迫していた。
幕府の財政悪化は、一朝一夕に生じたものではない。文久年間(1861〜1864年)以降の対外開港に伴う貿易構造の混乱、相次ぐ長州征討にかかる軍事費の膨張、そして何よりも、慶応二年の第二次長州征討における事実上の敗北が、幕府の権威と財政の双方に、致命的な打撃を与えていた。
将軍徳川慶喜は、この苦境を打開すべく、フランス公使レオン・ロッシュの後援のもと、軍制改革と財政再建を急速に進めていた。横須賀製鉄所の建設、伝習隊の整備、これらはいずれもフランスからの借款を前提とした事業であり、幕府はすでに、相応の対外債務を抱え込みつつあった。
この借款交渉を担っていたのが、勘定奉行を務めていた小栗忠順である。
小栗は、幕末期において最も先見性に富んだ官僚の一人として知られる人物であった。横須賀製鉄所の建設を主導し、また、幕府がいずれ対外的な信用と、それを裏付けるだけの資産を確保しなければ、近代国家としての歩みを始めることすらできないと考えていた。
その小栗のもとにある一通の報告がもたらされたのは慶応三年の初春、まだ江戸に雪の残る頃であったと後年に編纂された『小栗家記』には記されている。この情報をもたらしたのは、当時、外国奉行配下として対露交渉の窓口を務めていた若き幕臣であった。
その内容は、ロシア帝国が北米大陸に有する広大な領土の売却を検討しているというものであった。
小栗がこの報告にどのような反応を示したか、直接の記録は残っていない。だが、その後の彼の行動から推測する限り、この一報は、ある種の啓示として彼の脳裏に刻まれたものと考えられる。
幕府には、もはや軍事力によって長州や薩摩を屈服させるだけの実力は残されていなかった。雄藩の発言力は日に日に増し、朝廷を巻き込んだ政治的駆け引きの中で、幕府の権威は急速に空洞化しつつあった。この状況を覆すためには、何か、これまでにない規模の、対外的な実績が必要だった。
広大な領土の獲得は、まさにその実績たりうるものではないか。
小栗の構想は、単なる思いつきではなかった。彼はかねてより、日本が将来的に欧米列強と伍していくためには、本州・四国・九州・北海道という限られた版図だけでは足りない。より広い国土と資源基盤が必要であると考えていたとされる。これは、後年の歴史家がしばしば指摘する小栗の「拡大均衡」的な発想の一端であった。すなわち、内側に閉じこもって守りを固めるのではなく、外側へと版図を広げることによって、国家全体の体力を底上げするという発想である。
もっとも、この壮大な構想を実現するためにはいくつもの障壁が存在した。
第一に、資金の問題である。ロシア側がどの程度の金額を提示してくるか、この時点では定かではなかったが、いずれにせよ莫大な額になることは想像に難くなかった。すでにフランスからの借款に頼り切っている幕府の財政状況で、さらなる対外支出をどう捻出するのか。
第二に、外交上の問題である。アラスカの売却交渉において、ロシアが本来想定していた相手は合衆国であった。幕府が割り込む形でこの交渉に参加することに、ロシア側が応じるかどうかは、まったくの未知数であった。
そして第三に、最も根本的な問題として、この国内情勢の只中で、幕府がそのような対外事業に乗り出す余裕があるのかという疑問があった。長州再征の失敗以降、薩摩・長州を中心とする倒幕の機運は、もはや誰の目にも明らかなほどに高まっていた。この年の秋には、後に大政奉還として知られる政治決断が下されることになるが、その時点で幕府の指導層はすでに自らの政権の存続そのものについて、深刻な危機感を抱いていたのである。
それでも、小栗はこの構想を諦めなかった。
むしろ、政権の存続が危ぶまれているからこそ、何か、決定的な一手が必要だと、彼は考えたのかもしれない。あるいは、たとえ幕府という政権が倒れることになったとしてもこの国が将来的に立っていくための礎を、自らの手で築いておきたいというより個人的な、あるいはより執念に近い動機があったのかもしれない。このあたりの彼の内面については、史料の限界もあり、本書では推測の域を出ないことを断っておく。
小栗は外国奉行を通じて、対露交渉の可能性を慎重に探り始めた。そして、この任務の実務を担う人物として、白羽の矢が立てられたのが、当時、海軍伝習所出身の俊英として知られていた、一人の若き幕臣であった。
榎本武揚、当時三十一歳。
オランダ留学の経験を持ち、語学に堪能で、何よりも国際情勢への理解に優れた彼こそが、その後、幕府の命運と、遠く北米の凍土の運命とを結びつける、交渉の最前線に立つことになる。
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