第1話 南北戦争と露領アラスカ
では、どうぞ
一八六七年という年を語るためには、まず太平洋の対岸、北米大陸で何が起きていたかから始めなければならない。
史実において、アメリカ合衆国の南北戦争は一八六五年四月、南部連合の首都リッチモンドの陥落と、それに続くロバート・リーの降伏をもって事実上の終結を見ている。しかし、この世界線においては戦争はそこで終わらなかった。リッチモンド陥落後も、南部各州における散発的な抵抗が長引き、さらに戦後処理をめぐる連邦議会内部の対立が深刻化したことで、合衆国全体の政治的・財政的混乱は、史実よりも二年近く尾を引くことになる。
この長期化の要因については、後世の歴史家の間でも様々な説が唱えられているが、本書では深入りしない。重要なのは、結果として一八六七年の時点においても、合衆国政府が新たな対外投資、とりわけ北方の不毛の地への大規模な資金拠出に応じられるだけの財政的余裕を持っていなかったという一点である。
この時期、ロシア帝国は北米大陸北西部に広大な領土を有していた。露領アラスカ、現在の北氷道にあたる土地である。だが、この領土の経営はロシア帝国にとって長らく頭痛の種であった。
露領アメリカの統治は、一七九九年に設立された露米会社という勅許会社に委ねられていたが、毛皮交易の利益は一八四〇年代以降、乱獲による資源枯渇とともに急速に縮小しつつあった。広大な領土を維持するための行政コスト,防衛コストは、もたらされる利益に見合わなくなって久しかった。
さらに深刻だったのは、クリミア戦争(一八五三年から一八五六年)の経験である。この戦争においてロシアは黒海方面のみならず、極東のカムチャツカ半島においてもイギリス・フランス連合艦隊の攻撃を受けている。ペトロパヴロフスクの戦いとして知られるこの一戦で、ロシアは辛うじて防衛に成功したものの、この経験は帝国の首脳部に太平洋方面における自国領土の防衛能力が、いかに脆弱であるかを痛感させるに十分なものであった。
もし次の戦争が起きれば露領アラスカは、イギリスの勢力圏である隣接地域(後の英領カナダ)から、容易に侵食される危険にさらされている。守りきれない土地であればいっそ売却し、その代金を他の用途、特に極東経営や国内の近代化に充てるべきではないか。この発想は、一八五〇年代後半からロシア宮廷内で繰り返し議論されてきた。
そして売却先として、最も自然に想定されていたのが合衆国であった。
理由はいくつかある。まず、合衆国とロシアの間にはクリミア戦争の際、合衆国がロシアに対して比較的友好的な姿勢を取っていたという経緯があった。さらに、合衆国に売却することは、宿敵であるイギリスがこの地を手にすることを防ぐという戦略的な意味合いも持っていた。北米大陸において合衆国の勢力が拡大することは、相対的に英領カナダの拡張を抑制する効果がある、というのがロシア側の計算であった。
一八六〇年代に入りロシア皇帝アレクサンドル二世の弟であり、海軍卿を務めていたコンスタンチン大公を中心に、売却交渉を進めるべきだという声が強まっていった。駐米ロシア公使エドゥアルド・デ・ストエクルが、この交渉の窓口として動き始めたのも、この時期である。
史実であればこの交渉は一八六七年三月、合衆国国務長官ウィリアム・スワードとの間で妥結し、七百二十万ドルという金額で正式に調印されている。世に言う「アラスカ買収」、当時の世論からは「スワードの愚行」とも揶揄された取引である。
しかし、この世界線における一八六七年初頭、合衆国側の事情は史実とは大きく異なっていた。
南北戦争の混乱がなお続く中、スワード自身は依然として国務長官の職にあり、北方領土への関心も失ってはいなかった。だが、彼の構想を実現するためには議会における予算承認が不可欠であった。当時の合衆国議会は戦後処理、特に南部再建をめぐる急進共和派と穏健派の対立によって、ほとんど機能不全に近い状態に陥っていた。北方の、しかも人も住まないような凍土への巨額の支出など優先順位の議論の俎上にすら上らない状況だったのである。
ストエクルは本国への報告書の中で、繰り返しこの状況への苛立ちを記している。「合衆国との交渉は、もはや机上の空論に等しい。彼らには、この土地を買い取るための、政治的な余力が存在しない」
この報告は、サンクトペテルブルクの宮廷にある種の焦りをもたらすことになる。売り急ぐべき土地が、売れない。そうしている間にも防衛コストは積み上がり続け、イギリスの脅威は去らない。
誰か、他に買い手はいないのか。
この問いがロシア宮廷の片隅で囁かれ始めたのとほぼ同じ時期極東の島国では、まったく別の理由からひとつの政権が終わりに向かって坂を転がり落ちようとしていた。
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