第10話 北満州の烽火
では、どうぞ
昭和十八年夏、太平洋における戦況が日本にとって消耗の色を帯び始めた頃、極東の別の方角から、新たな脅威が姿を現した。
ソヴィエト連邦の動向である。
日ソ中立条約(昭和十六年四月締結)のもとで、日本とソ連は、太平洋戦争の開戦後も、表向きは中立関係を維持していた。だが、ソ連側がこの中立条約を誠実に守る意志を持っているかどうかについては、大本営の情報部門がかねてから強い懸念を示していた。スターリングラードの戦い以降、独ソ戦においてドイツ優位が揺らぎ始め、ソ連が東方への注意を向ける余裕を生じさせつつあることは、日本側にとって、無視できない情勢変化であった。
昭和十八年秋、満州国と外モンゴルの国境付近において、ソ連軍の大規模な部隊移動が確認され始めた。当初、この動きは訓練や示威行動の一環と見る向きもあったが、月を追うごとに、その規模と組織性は、単純な示威行動の範囲を超えていることが明らかになっていった。
昭和十九年五月、ソ連軍は満州国北部国境を越えて侵攻を開始した。
この侵攻の第一報が大本営に届いた時、日本はすでに太平洋戦線において、相当程度の消耗を重ねていた。ハワイを占領し、フィリピン・南洋諸島を抑えているとはいえ、合衆国の反攻は着実に進んでおり、太平洋の戦線への戦力集中はまさにその佳境にあった。そこへの北方からの新たな脅威の出現は、大本営の戦略判断に深刻な問題を突きつけることになった。
ソ連軍の侵攻は当初、予想を上回る速度で進んだ。機甲部隊を前面に立てたソ連軍の攻勢は、満州国軍と在満日本軍の防衛線を次々と突破し、昭和十九年七月には、満州国の首都・新京(現在の長春)の周辺まで、ソ連軍の先鋒が達するという事態となった。
この危機に際し、日本軍は太平洋から可能な限りの兵力を転用して、満州方面の防衛に充てようとした。だが、この転用そのものが太平洋戦線における日本の立場を、さらに危うくするという、出口のない状況をもたらすことになった。
海軍においても、この局面での動きがあった。ウラジオストクに拠点を置くソ連極東艦隊が日本の北方への補給線を脅かす存在として、改めて注目された。大本営は、北方艦隊の一部をこの対応に振り向けることを決定した。
満州での戦闘は、昭和十九年の夏から秋にかけて、最も激しい局面を迎えた。日本軍は、猛烈な反撃によって、新京周辺まで達していたソ連軍の先鋒を、ある程度押し返すことに成功した。だが、北満州全域におけるソ連軍の優勢を覆すには至らず、戦線は、膠着した状態での消耗戦へと移行していくことになる。
太平洋での講和交渉が本格化し始めるのは、まさにこの時期のことであった。二正面での戦争を継続する余力は、もはや日本には残されていなかった。
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