第7話 八日の空・後
本日は2話投稿しています。こちらは後編です。
では、どうぞ
昭和十六年十二月八日、カリフォルニア沖。
この日、北方艦隊主力と連合艦隊増援からなる攻撃部隊は、サンフランシスコ沖合の作戦海域に展開していた。正規空母八隻、軽空母二隻、戦艦四隻(連合艦隊からの大和型一隻を含む)、巡洋艦十二隻、駆逐艦二十六隻。そして、その艦列の一角に、公式には存在しないはずの艦が、静かに位置していた。
天城は、この攻撃部隊の中核的な空母のひとつとして、艦載機の発艦準備を進めていた。
私の父(四代目)が、艦橋からカリフォルニア沖の水平線を見渡した時、空は快晴であった。海面は、わずかに波立っていたが、発艦作戦に支障をきたすほどではなかった。
パールハーバー攻撃の開始を知らせる暗号電文が、攻撃部隊に届いたのは、現地時間で午前七時四十分のことであった。ハワイと本土の時差分だけ遅れて、カリフォルニア攻撃の命令も、ほぼ同時刻に発令された。
天城の飛行甲板から、艦載機が次々と発艦を開始した。第一波の攻撃隊が、サンフランシスコ方面へと向かっていくのを、私の父は艦橋から見送ったはずである。だが、この時の艦橋の様子を記した記録は、航海日誌以外には残されていない。
航海日誌には、こう記されている。
「〇七四五。第一波攻撃隊発艦完了。機数三十二。目標、桑港港湾施設及び近傍軍事施設」
その日の午前、サンフランシスコは、はじめて、直接的な攻撃の対象となった。艦砲射撃と艦載機による爆撃が、港湾施設と軍事拠点に集中した。これは占領を目的とした攻撃ではなく、あくまで台湾奇襲への報復として、合衆国本土の防衛体制に打撃を与えることを目的とした、一撃離脱の性格を持つものであった。
この攻撃の最中、この艦から撮影された一枚の写真が、後年、大きな意味を持つことになる。
その写真には、天城の甲板のほかに、攻撃部隊の中に紛れるように、見慣れない形状の艦が写り込んでいた。右舷と左舷に飛行甲板を持ち、その間に滑らかな曲面の艦橋がある、見たことのない艦影。それが、本書が繰り返し言及してきた、秘匿艦「八咫烏」の、唯一記録として残ることになる姿であった。
八咫烏は、この日の作戦において、防空指揮の中核として機能していたとされる。攻撃部隊の上空に展開した合衆国の迎撃機に対し、八咫烏から発進した防空戦闘機が、組織的な迎撃を行ったことが、後の米側記録からも確認されている。合衆国側の報告書には、「正体不明の大型艦から発進したと思われる、高性能な戦闘機の存在」が記録されていた。
カリフォルニア攻撃は、この日の午後遅くまで続いた。攻撃を終えた艦隊は、夕刻、北方へと反転した。
この日、私の祖父は、百八機の先導機として、ハワイの空を往復した。私の父は、天城の艦橋で、サンフランシスコへの攻撃を指揮した。二人は同じ日に、太平洋の両端で、同じ国と戦い、そして生き残った。
後年、研究者がこの日の記録を辿った時、二人が同じ日に戦っていたという事実に気づいたのは、祖父母の遺品の中から、あの一枚の写真を見つけてから、しばらく後のことであった。
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