第6話 八日の空・前
では、どうぞ
昭和十六年十二月八日、午前三時三十分。
北氷道海湾国南部、アリューシャン列島最西端、アッツ島の深山級大型爆撃機基地において離陸準備が開始された。
夜明けまで、まだ数時間ある。滑走路には誘導灯が点灯し始め、エンジンの暖機運転を始めた機体が、低い唸りを上げていた。総計百八機、四個大隊。それぞれの機体に乗り込む搭乗員たちの顔は、暗がりの中で、ほとんど判別がつかなかった。
先導機は、最初に滑走路の端に据えられた。全機の先頭に立つ、この一機の役割は、単に航路を示すことだけではなかった。百八機という大編隊が、長距離飛行の末にハワイの空に到達するためには、先導機が正確に航路を維持し続けることが、絶対の条件であった。一度針路を誤れば、燃料の限界の中で修正を加える余裕は、ほとんどない。
私の祖父(三代目)が搭乗した先導機が、滑走路を離れたのは、午前四時十七分であった。この時刻は、後年公開された基地の出撃記録に、明確に記されている。
続いて一機、また一機と、後続の機体が滑走路を離れた。百八機の離陸が完了するまでに、およそ四十分を要したと記録されている。最後の一機が離陸を終えた頃、先導機はすでに、暗い北太平洋の上空を、ハワイへ向けて飛行していた。
この攻撃隊が辿った航路は、アッツ島からほぼ真南へと向かい、太平洋を縦断してハワイへと至るものであった。増槽を装備した深山級の最大航続距離から逆算しても、ハワイ攻撃後に再びアッツ島へ引き返すことは不可能であり、爆撃後はそのまま南下してマーシャル諸島(あるいはウェーク島)の日本軍基地へと抜ける、壮大な片道移動作戦(シャトル爆撃)が敢行されていた。この航路はほぼ限界に近いものであったが、気象条件が良好であれば、往復飛行が可能と判断されていた。
飛行の大半は、洋上を低高度で進むものであった。これは、合衆国の監視網による探知を避けるための措置であった。百八機という大編隊が、暗い太平洋の水面に近い高度を、ほぼ無線封止の状態で飛行し続けた。万が一、被弾や燃料不足で落伍する機があれば、ハワイ北西の洋上で待機する二式大型飛行艇が救難にあたる手筈となっていたが、幸いにもそこまでに脱落する機は一機もなかった。
この飛行中、搭乗員たちが何を考えていたか、記録はほとんど残されていない。中国戦線での経験を持つ、私の祖父にとって、長時間の洋上飛行そのものは、未知の経験ではなかった。だが、これほどの規模の編隊を率いて、これほどの距離を飛んだ経験は、おそらく誰にとっても、初めてのことであった。
攻撃隊がハワイの上空に到達したのは、現地時間で昭和十六年十二月七日、日曜日の午前中のことであった。
眼下に広がる光景を、先導機の搭乗員たちが最初に目にした時、ハワイの空は、快晴であったと伝えられている。真珠湾の湾内に、並んで停泊する合衆国艦艇の列が朝の光の中にくっきりと見えた。
攻撃の合図が発せられた。
後続の百七機が、それぞれの攻撃目標へと向かった。先導機は、その任務を終え、編隊全体が目標に向かうことを確認した後、後続隊を誘導しつつ、次の目的地である南方基地への針路へと舵を切った。
パールハーバー攻撃が始まった瞬間、北氷道から遠く離れたカリフォルニア沖においても、別の戦いが始まりつつあった。
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