第4話 一週間
では、どうぞ
台湾奇襲から報復攻撃実施まで、七日間。
この一週間が、北氷道の人々にとってどのような時間であったか。当時の記録から浮かび上がるのは、静かな緊張というやや矛盾した言葉で表現するほかない、独特の空気である。
台湾への攻撃が行われたという事実は、北氷道の住民にもラジオと新聞を通じて、ほぼ即日に伝わっていた。だが、政府からは何の発表もなく、北氷道工廠や基地の動きが、あきらかに慌ただしくなっているにもかかわらず、公式にはまだ日本は戦争状態にあるとは宣言されていなかった。
この曖昧な一週間の空気を伝える史料として、当時、海湾国に在住していた民間人が記した日記が残されている。
「港の艦が増えている。兵隊の顔つきが違う。誰もが何かを知っていて、誰もが何も言わない」
この一文は、当時の北氷道全体を覆っていた空気を短く、しかし的確に切り取っている。
大本営においては、この一週間、報復攻撃の最終的な詳細が詰められていた。パールハーバー攻撃を担う機動部隊(連合艦隊から抜粋された正規空母三隻・戦艦二隻・巡洋艦六隻・駆逐艦八隻)は、すでに出撃位置への移動を開始していた。一方、カリフォルニア攻撃を担う北方艦隊主力は、海湾国を出撃し、作戦海域への展開を進めていた。
一式陸攻部隊についてはこの一週間、最後の整備と補給が行われていた。四個大隊、総計百八機。各機に増槽が装着され、爆装が確認された。
この準備の様子を、基地の周辺から眺めていた民間人はいなかった。基地は完全に封鎖されており、何が行われているかを知る者はごく限られていた。
私の父(四代目)が天城の艦長として、この時期、どこにいたか。これについては、海軍の機密記録の性質上、具体的な位置を示す史料は残されていない。だが、カリフォルニア攻撃部隊の一員として、北方艦隊主力とともに、すでに作戦海域への移動を開始していたことは、後年公開された作戦記録から確認できる。
私の祖父(三代目)が、この一週間をどこで過ごしていたか。海湾国の一式陸攻基地においてであったことは、ほぼ確実である。百八機の先導機として選ばれた彼が、この最後の一週間、部下たちの顔を見ながら、何を思っていたか。それを記した史料は、いまのところ見つかっていない。
この一週間の終わりに何が起きるかを、父も祖父もすでに知っていた。そして、そのことについて、二人の間に交わされた言葉は、おそらく存在しなかった。
昭和十六年十二月七日の夜、北氷道の夜空は、静かに晴れていたと、当時の気象記録に残されている。
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