第1話 返還要求
では、どうぞ
昭和十年代に入り、北氷道をめぐる国際的な緊張はじわじわと高まりを見せ始めていた。
その背景には、まず北氷道の軍事的な存在感の急速な拡大があった。無条約時代に入った昭和十一年以降、北氷道工廠はフル稼働の態勢に入り、大和型空母(近江、越前)の建造が本格化していた。海湾国南部の港には、北方艦隊の主力艦艇が集結し、対空・対潜の防衛網が整備されていった。嶺林国の資源産業もまた、軍需優先の生産体制へと組み替えられ、石炭・石油・鉄鋼が、北氷道工廠へと途切れることなく送り込まれていた。
こうした動きを、最も鋭敏に察知していたのが、合衆国であった。
北氷道という土地は、地理的に合衆国のシアトル、ポートランド、サンフランシスコといった西岸の主要都市と直接的な隣接関係にある。北氷道に大規模な軍事拠点が整備されるということは、合衆国本土の西岸が日本の軍事力の射程内に入りつつあることを、直接的に意味した。
合衆国政府内でこの問題が正式な政策課題として浮上したのは、昭和十三年頃のことであったとされる。当時の国務省の内部文書には、北氷道の軍事化が合衆国の安全保障に対する「直接的かつ深刻な脅威」として記述されていることが、後年の資料公開によって明らかになっている。
こうした認識のもと、昭和十四年合衆国政府は、日本政府に対し外交ルートを通じた非公式の打診を行っている。その内容は、北氷道の軍事施設の縮小を求めるというものであったが、日本側はこれを内政干渉として拒絶した。
昭和十五年に入ると、合衆国側の要求はより明確な形をとるようになってくる。同年三月、駐日アメリカ大使は外務省との会談において初めて公式の場で、北氷道の「地位の見直し」について言及した。この「地位の見直し」という曖昧な表現が、具体的に何を意味するのかについては、当初外務省内でも解釈が分かれていたと、当時の外交記録から確認されている。
だが、この表現の真意は間もなく明確になる。
昭和十五年秋、合衆国は正式な外交文書をもって、日本政府に対し北氷道の返還を要求した。明治維新の混乱期に、日本が旧幕府の名のもとで行ったアラスカの購入は、当時のロシア帝国政府の正式な意思を反映したものではなく、かつその後の統治においても、現地の先住民の権利が著しく侵害されてきたとして、北氷道を国際的な管理のもとに置くことを求めるというものであった。
この要求は、日本国内に強烈な反発を引き起こした。与野党を問わず、返還要求を拒絶すべきとの声が澎湃として湧き上がり、新聞各紙もこれに同調した。北氷道の住民にとっても、この要求は自らの生活と土地そのものへの、直接の脅威として受け止められた。
日本政府は、ただちにこの要求を拒絶する旨を、合衆国に通知している。だが、問題はここで終わらなかった。両国の間の交渉はその後、外交的な解決の糸口を見出せないまま、昭和十五年の終わりから昭和十六年にかけて、徐々に硬直した状態へと陥っていくことになる。
北氷道をめぐる日米間の対立は、ここにこれまでとは全く異なる、新たな段階へと入ったのである。
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