第3話 戦後の秩序
では、どうぞ
大正七年(一九一八年)十一月、第一次世界大戦は終結した。
四年余りにわたる総力戦はヨーロッパの列強に壊滅的な打撃を与え、帝政ロシアを革命によって崩壊させ、ドイツ・オーストリア・オスマンという三つの帝国を解体させた。戦争による死者は軍人・民間人合わせて二千万人を超えるとされ、それまでの人類の戦争とは、まったく異なる次元の惨禍をもたらすものであった。
翌大正八年(一九一九年)一月から始まったパリ講和会議において、戦後の国際秩序の枠組みが、連合国の間で議論されることとなった。日本はこの会議に、五大国のひとつとして参加する資格を得ており、国際的な地位の向上という観点からこの戦争への参加は、確かな成果をもたらしていた。
日本がこの会議において強く主張した議題のひとつが、人種平等条項の盛り込みであった。この提案は、最終的にはアメリカ・オーストラリアらの反対によって否決されることとなったが、この否決が、後の日本の対外政策に、少なからぬ影響を与えていくことはよく知られている通りである。
北氷道という土地の存在は、このパリ講和会議においても、ひとつの論点として浮上している。
合衆国はこの会議の場において、北氷道の帰属問題を改めて提起しようとする動きを見せた。すでにワシントン条約交渉(大正十一年)における対立の構図の前史とも言えるが、アメリカ側にはかつての「スワードの愚行」を、何らかの形で覆したいという思惑が、この時期すでに存在していた。だが、この試みは日本側の強固な反論と、イギリスの仲裁によって議題として正式に取り上げられることなく、立ち消えとなっている。
この経緯は、後年の研究によってようやく明らかになったものであり、当時の公式な外交記録にはほとんど残されていない。だが、外務省の内部文書として保管されていた当時の全権団による秘密報告書には、次のような一節が見出される。
「合衆国側は北氷道の帰属について、非公式の場においてたびたび言及せり。これを正式議題に乗せることは、我が方の強固な態度によりかろうじて阻止せり。されど、同国の思惑はこの問題について、なお未解決との認識を持ち続けているものと推察される」
この報告書の記述は、後の日米関係における北氷道問題の伏線として、本書では重要視したい。パリ講和会議において「阻止」されたアメリカの意図は、以後も形を変えながら日米間の潜在的な緊張要因として蓄積されていくことになるからである。
一方この戦争から生まれた国際連盟への日本の参加は、国際的な協調路線への傾倒という大正期外交のひとつの特色を象徴するものであった。日本は連盟の常任理事国のひとつとして、一定の国際的な発言力を持つことになった。この時期、国内の「大正デモクラシー」の潮流と相まって軍事力ではなく、外交と経済力による国際的な地位の確立を志向する議論が日本国内でも広く行われていた。
だが、この協調の時代はやがて終わりを告げることになる。国際連盟は、主要国であるアメリカの不参加という構造的な欠陥を抱えており、またヴェルサイユ体制への不満を持つ国々による既存秩序の挑戦が、昭和期に入ると次第に顕在化してくることになる。
昭和六年(一九三一年)の満州事変は、日本が国際的な協調路線から、独自の拡張路線へと舵を切る、最初の決定的な一歩として後の歴史家たちに位置づけられることになる。この満州事変については、次話で改めて触れることとする。
第一次世界大戦の終結がもたらした戦後秩序は、北氷道にとって産業的には確かな発展の基盤をもたらすものであったが、同時にその将来に暗い影を落とすものでもあった。北氷道の存在が、日米間の潜在的な対立の種としてすでにパリ講和会議の段階から意識されていたという事実は、二十年後の開戦に向けた長い伏線の始まりを示すものであったのかもしれない。
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