第3話 教育と兵役
では、どうぞ
明治政府への正式な編入に伴い、北氷道においても本州と同様の徴兵制度が適用されることとなった。これは明治四十一年の勅令によって定められており、北氷道在住の男子も、一定の年齢に達した時点で兵役義務を負うことになったのである。
この制度変更は、北氷道の住民にとって複雑な意味を持つものであった。委任統治期において、現地の治安維持は西郷隆盛らが組織した自衛組織が主に担っており、本州的な意味での徴兵制度は、事実上機能していなかった。正式な編入を機に、この地の住民が初めて国家の軍事的な義務と正面から向き合うことになったのである。
もっとも、当時の北氷道において兵役に対する抵抗感は本州のそれとはいくぶん異なる性質を持っていたと、本書では推測している。初代をはじめとする最初期の入植者たちの多くが、旧武士階級の出身者であったことはすでに繰り返し述べてきた。その子や孫の世代に武士的な精神性、あるいは少なくとも、軍事的な訓練や規律に対する親しみがある程度引き継がれていたとしても不自然ではないだろう。
三代目が幼少期を過ごした嶺林国では明治末から大正初期にかけて、小学校教育が急速に整備されていった。彼が通ったとされる小学校は、大正二年頃に建設された嶺林国中部に位置する公立の学校であり、当時の入学名簿に彼の名前が記載されていることが確認されている。
当時の小学校教育は読み書き・算術といった基礎教育に加え、修身(道徳教育)、そして唱歌・体操が主な科目であった。本州の学制が北氷道にもほぼそのまま適用されていたが、一点、本州と異なる特色として地域の特性に応じた科目(狩猟や漁業に関する実技教育、また北方の自然・地理に関する授業)が、北氷道独自の科目として加えられていたことが当時の教育記録から確認されている。
三代目の学業成績については、小学校段階のものは残されていないが後年、海軍兵学校の入学試験を首席に近い成績で通過していることから、少なくとも学力という点では相当に優秀な部類に属していたと考えられる。
その一方で、彼の気質が純粋に学問的なものだけではなかったことも、後年の証言から窺える。二代目の知人が残した聞き書きの中に次のような一節がある。
「あの子は、机に向かっているよりも外に出て動き回っているのが好きだった。冬でも、雪の中を駆け回って、父親(二代目)を呆れさせていたものだ」
この証言が示すように、三代目は学問と活動的な気質とをあわせ持つ少年であったと伝えられている。この気質は、後に彼が座学的な学問の道ではなく、海軍という実践的な世界を志すことになるひとつの遠因になっていたのかもしれない。
明治四十一年(一九〇八年)、私の祖父(三代目)は、十三歳で北氷道の海軍兵学校(総合)に入学している。この兵学校は、第二章でも述べた通り委任統治期における海軍拠点の発展を受けて、明治四十年代に正式に設置されたもので北氷道在住者を対象とした総合的な軍事教育機関であった。
ここで、本州の海軍兵学校との関係について補足しておく必要がある。本州(江田島)の海軍兵学校が全国から優秀な人材を集め、より高度な教育を提供するものであったのに対し、北氷道の海軍兵学校は主に北方艦隊の将来の担い手を養成することを目的としたやや異なる性格を持っていた。卒業後、さらに本州の兵学校で専門課程を履修する者もあったが、多くはそのまま北方艦隊の実務に就くケースが多かった。
三代目は、この兵学校において総合的な軍事教育を受けながら、やがて自らの進むべき道を海軍航空という、当時まだ新興の分野へと定めていくことになる。
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